多良間の八月踊り

参考画像多良間の八月踊り
開催日時2013年 9月12日(木) 10:00頃~19:00すぎまで。13日(金)、24日(土)
開催地仲筋:「土原御願所」
塩川:「ピトゥマタウガン」
アクセス両開催とも、多良間村役場より徒歩約5分程度。
料金
主催者
ジャンル伝統芸能
お問い合わせ0980-79-2011(多良間村役場)
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備考

平成25年『八月踊り』は9月12日(木)から3日間。
日程は以下のとおりとなっています。
9月12日(木)仲筋正日(ショウニツ)仲筋字
9月13日(金)塩川正日(ショウニツ)塩川字
9月24日(土)ワカレ        両字

■八月踊りのおこり
多良間の八月踊りは、いつ頃から始められたものであるか史実は定かでないが、その本来の名称が「パチュガツウガン」(八月御願)と称されていることからすると、かなり古い時代から始められていたと思われる。

 首里王府は、1609年薩摩の侵略を受けその支配下に服することになった。それにしても在地役人を介しての間接統治であったが1629年から常駐在番を派遣しての直接統治となり、首里王府に対する圧力がきびしくなった。首里王府は、その体制維持の一方策として1637年、宮古、八重山に対して人頭税を課すことになった。それ以来、農民は穀税のために酷使される状態にあった。15歳以上50歳までの納税義務者は一様に納めていたが、7年後の1644年から年齢によって差をつけ、15年後の1659年からは、穀税のほかに反布税が課されることになり、住民は一層過重負担の重税に苦しめられた。

 穀税や反布税を、その年の旧暦7月までに皆納し、翌8月には「パチュガツウガン」と称して各御嶽に祭事を行い、完納の報告とお礼を述へ、さらに次年の豊作を祈願することを年中行事としていた。その際、神前で「奉納踊り」をすることが慣例となっていた。

 古老の伝承によれば、古くは「皆納祝い」といわれ、字の帳簿にもそのように記されていたということである。ところで、記録によれば「皆納祝い」とは天保年間(1830~1834)に始まったとされていることから、「皆納祝い」と称されるようになったのは、人頭税制が施行されてからおよそ200年ほど経てからのことだと思われる。

 前述のような営みが「皆納祝い」として、住民挙って大いに祝い、共に喜び楽しみ、納税の苦しみを自ら慰め合い、励まし合ったものと推察される。

 「八月踊り」は、当時、祝い酒に浮かされた踊りに始まり、それをもとに島で創作された「民俗踊り」のみが演じられていたが、明治の初期から中期になって「古典踊り」や「組踊り」が首里を中心に沖縄本島から伝播されたようである。


■踊りの場所と施設
八月踊りの場所は、仲筋は「土原御願所」、塩川は「ピス(小さいス)トゥマタウガム゚」である。両御願所共八月御願を行う聖域として、ふだんから清められている。「土原御願所」の境内は、樹齢250年余のアカギのほかに、デイゴ、フクギ、ガジュマルなどの古本が枝を交えて繁茂し、全面木陰となって涼風を呼んでいる。

 「ピス(小さいス)トゥマタ御願所」は、樹齢200余年のフクギのほかに、デイゴ、ガジュマルなどの樹木が繁茂しているが「土原御願所」ほどではない。いずれも露天踊り場として最適な場所である。

 舞台は、どの踊り場でも広場の中央に設置されている。大正初期までは地面を区画して筵を敷いてそこで演じていたようであるが、その後、石を並べて区画し、土を盛り上げて舞台にしていたが、戦後、縁をコンクリートに改造した。縦約6メートル、横約4・5メートル、高さ約24センチメートルの永久構造物であったが、平成3年、縦約6・5メートル、横約5メートル、高さ約25センチメートルの舞台ができ、その上を覆って縦横約9メートルの屋根ができ、雨天の場合でも上演可能な立派な舞台ができ、平成4年度の踊りから使用されている。

 「地謡座」は、どの踊り場でも舞台の後方に接しており、地面に演じていた頃は「地謡座」も地面にあったようであるが、その後、材木を持ち寄って組み合わせて高台を拵らえて使っていたが、戦後、コンクリートで恒久的に建造し、平成3年に増設され、放送部を含め広々とした地謡座となっている。

 「客席」は、地面に演じていた頃は正面と左右に地面に筵を敷いて座って観覧していたようであるが、石縁の舞台が造られた時点で「客席」も盛り上げた石縁の小規模のものができ、舞台がコンクリートの縁に変わったときに「客席」もこれまでの規模をやや広めてコンクリートのものになり、平成3年、舞台を改造した際「客席」も一層広くなっている。

 「舞台の装飾」は、舞台と地謡座の境に幕が張られ、その中央上部に仲筋では「偕楽」、塩川では「歓楽之」の額がかかげられ、その左右には組踊り及び福禄寿(塩川では天孫子)の高札、風車、三角旗などが飾られる。正面の額の「偕楽」(仲筋)は、ともに楽しむの意味であり、「歓楽之」(塩川)は、喜んでこれを楽しむの意味である、いずれも、八月踊りの意義と村民の心情をいかにも象徴している。


■おわりに
八月踊りで古典踊りや組踊りの演技は、首里を中心とする沖縄島のそれとは格段の相違があり、野趣で優美に欠けていることは、多良間島の習俗や土着の芸能の影響もあって、中央と異なった伝統をなして今日に至っている。

 組踊りや古典踊りの歩行が爪先を殆ど直角に立て踵を上げ、その足先を前へ出して少しひいて踵を起こし、他の足を同じ要領で繰り返す多良間様の運歩であること。

 接司その他の男役で、登場して正面になおると、脚を開き、腰を大きく落とし、伸び上がって身えを切ること。
 ツレや供の役で、やはり両脚を開き、両袖を左右へ一杯にひっぱって地面に水平に上げること。
 男役が、2人あるいはツレを含めた2組で向かい合って議論し、詰め寄るところで立膝して左脚を中心に、何れも身体をブルブル震わせること。

 以上のことは、多良間の古典踊りや組踊りの特徴といえる。専門家のなかにはそのような点を取り挙げて、首里風と比較し、多良間様を批判している者もある。

 また、専門的訓練を経た都の芸能と、半ば素人の演技である多良間島の芸能とには、一般的にいって洗練と粗野との相違があることは争えない。何れにしても多良間島の芸能は首里伝来の芸術を伝承しただけではなく、むしろ、伝承の過程でその演技や演出を切り替えていったのであり、辺境離島の芸術を首里文化の鄙俗化、下降としての側面だけから評価しようとする枠組からは到底とらえられない創造力を噴出させていると評価する専門家もある。要するに、八月踊りは、長年絶やすことなく持ち続けて来た伝承文化である。多良間島の人々にとっては、心の古里として生きる明日への活力でもある。これからも全住民のものとして保存に努力し継承していきたいものである。
※公式サイトより一部抜粋

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