えた(穢多)は、日本における中世身分制度の身分のひとつ。明確な基点は明らかになっていないがおそらく平安時代頃にはじまり、
江戸時代に確立され、建前上は
明治時代に廃止された。現代的には「
士農工商に分類されない最下層の
身分を意味する
蔑称」という理解が主流であるが、日本史見直しの中でこの理解についても見直されつつある。
なお、江戸時代における身分は「士農工商穢多非人」などと表現されるが、これはほぼ全面的に間違いであり根拠がないというのが、現代日本史における通説となっている。「武士」「町民(農工商)」「それ以外」と大別され、穢多は「それ以外」に属するものの、「それ以外」に属する身分の呼称は「
長吏(ちょうり)」「
かわた」などを含め、地域的差異も含めれば百を超えるものがあったとされる。ただし、
穢多と
非人は一般的に別身分と認識されていたことが多いようである。
語源
「穢多」ということばの文献上の初出は13世紀の『
天狗草紙』においてである。江戸幕府の公文書には
1644年以降に現れる。
「穢多」という呼び名には、元々「えた」と呼ばれており、穢れが多い仕事をするとして「穢多」という字をあてたという説や、蝦夷(えぞ)との関連を指摘する説、更には掃除人夫を意味する穢手(えて)が訛ったという説など、諸説があり、確定していない。
職業と発生史
穢多(長吏またはかわた)の身分は
中世以降徐々に形成されたもので、制度的階級としては
江戸幕府のもとで確立した。
タカを使って鳥を捕らえることは仁徳天皇の代からあり、また、
大宝令官制に主鷹司の規定があり、これに付随する餌取の由来もまた古く、屠る者がこれに従事した。一方、『
延喜式』には猪鹿の肉を天皇に供する規定があったが、仏教の殺生禁止の決まりから肉食を穢れたものと見なす風がひろまり、屠者を蔑視する風もひろまった。彼らは京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者である。下鴨神社が河原の近くにあったので、その穢れのおよぶことをさけるために『延喜式』には付近に濫僧屠者の居住することを禁じた。濫僧とは、非人法師で、国司のきびしい誅求にたえかね、地方民が出家して公民籍から離脱したものである。
三善清行は「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べた(意見封事)ほどで、その一部が京都に来て、屠者とともに河原者になった。当時は両者の区別があったが、のちに同一視され、餌取法師、エタとよばれた。その職業には都市清掃もあり、浄人(きよめ)ともよばれた。『塵袋』には、キヨメをエタといい、もとは餌取で濫僧ともよばれ、
旃陀羅のことであるとあり、『壒囊鈔』には、河原者をエッタというとある。彼らはまたその居住地から、坂の者、散所の者ともよばれた。なかでも京都の清水坂の坂の者が有名であった。清水坂の坂の者は祇園感受院に属して犬神人とよばれ、延喜寺僧兵出兵のさいなどその先手をつとめた。各部落には長がいて、その村落の警護にあたり住民から報酬を受けた。これを長吏法師といった。長吏にはなわばりがあり、寛元年間、清水坂の長吏と奈良坂の長吏とがいさかいを起こしたことがある。
江戸時代には、斃牛馬の処理と獣皮の加工、また革製品の製造販売などの
皮革関係の仕事、刑吏、捕吏、番太、山番、水番などの下級警察官的仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配、草履作りとその販売、灯心などの専売など、多様な職業を家業として独占していた。また関東では
浅草弾左衛門のもとで非人身分を支配していた。一口に穢多身分といっても日本の東西で違いは大きいので注意が必要である。
穢多の原形は
奈良時代にはすでに存在していたようで、中世の日本に「穢多」という言葉が既に見られる。この身分の元になったのは、
非人のうち斃牛馬の死体の処理に携わっていた職能集団である。この集団は
室町時代あたりから
差別の対象になっていたのだが、その差別は緩やかであり、しかも
戦国時代には
皮革上納が軍需産業(皮革は
鎧や馬具の主材料)であった事から保護もされた。東日本の大名の中には領国に穢多に相当するものがおらず、軍需生産のために西国から穢多を呼び寄せ、領国に定住させ皮革生産にあたらせた例もみられる。江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じた。このため皮革原料としての斃牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理はきびしく統制されるとともに、各農村に穢多が配置されて皮革原料の獲得に当たることになった。
居住していたのは村はずれや川の側など、農業に適さない場所であったことが多い。皮なめしなどの仕事が主であったため、始めは「かわた」とも呼ばれていたが、やがて「えた」という卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い離れた場所に住まわせられる傾向があった。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。
日本では殺生を嫌う
仏教と、血を穢れとして嫌う
神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があった(従って日本独自である。ただし、
阿部謹也『刑吏の社会史』によると、中世ヨーロッパでは動物の解体に携わる職業の者は
ギルドの構成員とはされなかったとされている)。関東に関しては幕府は
長吏頭弾左衛門(穢多頭弾左衛門)にその支配権を与え、制度を整備し、穢多身分および非人身分を間接支配した。皮革の製造加工を独占していたため、弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、武士や商人への金貸し業にも手を染めた。
井原西鶴は『
日本永代蔵』の中で「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と皮肉をこめて記している。
町人(商人や職人)は、御家人株の売買などによって身分を変える事が出来たが、穢多にはそのような行為は出来なかった。穢多身分とそれ以外では火の貸し借りができない、穢多は下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あった。穢多は身分外のものとされたため、居住地が地図に表示されないなどの差別を受けたとされているが、豊かな穢多村では田畑を農民同様に耕し
年貢も納めている例があるなど一概には語れない。
江戸時代を通じて穢多身分に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられている。
明治時代になって身分
解放令により法的な差別は解消されたが、同時に職業の独占も失ったため、経済的困窮に陥った例が多い。なお、解放令は
地租改正、
徴兵令、学校令とともに、当時の農民からの強い反発を受けた。当時各地で発生したの明治政府反対一揆のなかで、被差別部落の打ち壊しを伴うものを
解放令反対一揆と呼ぶ。
多方面からの強い反発を背景に、身分
解放令による法的な差別解消後も偏見や差別は残った(「五万日の日延べ」として、解放令の発効を認めなかった地域もあった。因みに、2008年7月に解放令公布から50000日を経過する)。ただ留意すべきなのは、被差別部落の焼き討ちが多発した筑前竹槍一揆と同様、一揆の参加者には被差別民自身も多くいたという点である。
外国
「穢多」と同じように皮革や死体の処理をさせられる身分として、
インドの
アウト・カースト(アチュート)があげられる。こちらは業種がもっと多岐にわたっている上、現在でも差別が続いており、アウト・カースト集落の襲撃なども起きている。
参考文献
関連項目
外部リンク
えた