明治維新(めいじいしん)とは、
江戸幕府による
幕藩体制から、
明治政府による
倒幕運動および
天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の
戦争(
戊辰戦争)・
改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。
概要
この期間の政府(一般的には1868年
1月3日(慶応3年
12月9日)の王政復古以後に成立した政権)を特に「
明治政府(めいじせいふ)」「
新政府(しんせいふ)」「
維新政府(いしんせいふ)」などと呼称することが多い。主に旧
薩摩藩・
長州藩および一部の
公家による専制政治として実行されたため「
藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧
親藩・旧
幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。なお、「明治維新」という語が一般に流布したのは昭和以降で、当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して「
御一新」と呼ばれていた。
短期間の内に西欧列強に比肩する国家を築き上げたことは諸外国からは奇跡と見られ、とくにアジア諸国にとって近代革命の模範となった。この革命の象徴となり、アジア初の本格的立憲君主となった
明治天皇について、諸外国では日本以上に高く評価されることもある。
五箇条の御誓文
江戸幕府による大政奉還を受け、
王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌
1868年の
五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。
また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「
富国強兵」「
殖産興業」が頻用された。
改革の内容
中央行政
形式的には、明治維新は
律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、
中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた(例:
太政官、
大蔵省など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる)。
王政復古の大号令において、
幕府や
摂政・
関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に
総裁・
議定・
参与の三職からなる官制が施行されたが、
明治天皇はまだ年少であるため(実際天皇親政は建前であった)、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、明治元年閏4月21日、
政体書が
公布され(政体書体制)、さらに翌年、律令制の二官八省を模した二官六省制が発足する。具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も
民部省から
工部省が分離したり、
刑部省から
司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治17年(
1885年)の
内閣制度発足をもってようやく安定する。
また、
首都については、当初京都では旧弊が多いとして、
大阪遷都論が
大久保利通を中心として唱えられた。しかし京都から都を移してしまうことには反対が多く、江戸城の開城もあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→
東京奠都の項目を参照)。
明治天皇の2度の
東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。
地方行政
明治政府の地方行政としては、徳川家を
駿府藩に移封し、
京都・
長崎・
函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。
まず、明治2年の
版籍奉還で旧藩主が自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命することで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。
1871年8月29日(
旧7月14日)に、薩摩・長州藩出身の指導者により
廃藩置県が実施され、
府県制度が設置され(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から
知事を派遣する制度が実施された。これにおいては、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。
薩摩藩の
島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇跡とも言える。
なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった
琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、
1879年(明治12年)に「
沖縄県」として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に「
琉球処分」と称される。旧琉球国王の
尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→
沖縄県の歴史)
諸制度の改革
廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、
士族を中心とした
侍従らが
明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。
身分制度については、江戸幕府下の「
士農工商」の別を廃止し、旧武士階級を
士族、それ以外を
平民とし、「四民平等」を謳う一方、旧
公家・
大名や一部僧侶などを新たに「
華族」として特権的階級とすると同時に、
宮内省の支配の下に置くことになった。
主な改革としては、
学制改革、
地租改正、
徴兵令、
太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令、などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の
征韓論につながったとも言われる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が征韓論を退け、さらに大久保の下に
内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。
また、これと同時期に民間でも行われた
文明開化の動き、肉食の普及や
鉄道の開通などとも相まって、新時代「
明治」の雰囲気が醸成されていった。
経済産業分野では、富国強兵・殖産興業のスローガンの下、
富岡製糸場を初めとする官営工場が作られるなど、政府主導の産業育成が始まり、西洋式工業技術が導入された。また金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「
円」を導入(
1871年。
新貨条例を参照)、また
国立銀行条例による
国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する
中央銀行としての
日本銀行設立(
1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。また流通分野では、
郵便制度・電信網の整備、鉄道および船舶運輸(民間の郵便汽船
三菱会社と国策会社の
共同運輸会社の競合を経て
日本郵船会社)などの整備が行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た
華族の資産による投資活動も背景にあった。
このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「
お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。
宗教
宗教的には、
祭政一致の古代に復す改革であったから、
1867年(
慶応3年)旧暦
正月17日に制定された職制には
神祇を七科の筆頭に置き、
3月 (旧暦)には神仏分離令が布かれた。神仏分離令により、当時の復古的機運は
仏教でさえも外来の宗教という点で
廃仏毀釈として弾圧される時代であった。ただし、神仏分離令の主旨は仏教の排斥ではなく、江戸時代までの神仏習合による仏教と神道の混交から両者を分離することであった。また、
キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。
その後、明治2年(
1869年)
12月7日には、信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(
1871年)旧11月、
岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難を浴びて、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(
1872年)に大蔵大輔の職にあった
井上馨は、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。
神道国教化政策との絡みやキリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、宗教界や一般民衆からも『
邪宗門』解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(
1873年)
2月24日禁制の
高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。
外交政策
新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された
不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、まだ時期尚早であった。そのため、
欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀におよぶ不断の努力を必要とした(→
条約改正)。
一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。
清との間には
1871年対等条約である
日清修好条規が締結される。
1874年には台湾における
宮古島民殺害事件をきっかけに
台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。
改革の影響など
明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなったが、やがて日本自身が列強側の国家として、
帝国主義的な領土・権益獲得の立場となったことから、かえって反発を呼ぶことにもなり、中国や朝鮮における
反日運動の元ともなった。しかし、逆の見方をすれば、日本は明治維新によって
列強と化した事により、アジア諸国では数少ない
植民地にならなかった国となったのである。
一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。維新成功の背景として、その前段階たる江戸時代における日本人の労働生産性・教育水準・遵法意識の高さや、近世においてすでに近代的科学(合理)精神を受け入れる素地・教養が準備されていたことなども要因と考えられ、江戸時代の再評価のきっかけにもなっている。
脚注
関連項目
外部リンク
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