改元
出典
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算にして11度目にして採用された。同時に
一世一元の詔も併せて出され、在位中の改元は行わないものとした。
明治年間の流れ
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明治天皇が即位、新政府は
天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指し、新たに
江戸を
東京と改め、天皇が東京に
行幸してここを日本の新しい政治の中心にすえた(
東京奠都を参照)。
尊皇思想に基づき、
天皇は親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は
大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝を真似て
一世一元制を定めた。天皇の名を
元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。
明治維新
新政府は
欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、
天皇を中心とした
中央集権国家の構築を目指した。新政府は、には各藩に
版籍奉還を命令し、には、
廃藩置県を行った。
地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い
四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。
一方、下野した5人の参議は以下の行動を取った。西郷隆盛は故郷鹿児島に戻り、
私学校を建設した。また、板垣、後藤、江藤、副島らは、に
民選議院設立建白書を政府に提出して
有司専制を批判し、議会開設を主な要求とする
自由民権運動の嚆矢となった。その後、江藤は故郷の佐賀に戻り、明治維新によって特権を失った不平士族をも巻き込んで
佐賀の乱を起こしたが鎮圧された。
内政面では、大久保はに
内務省を設置し、殖産興業を後押しした。また、明治政府の財政難の原因となる不労所得者である士族の特権(秩禄、
賞典禄)を削減したり(
秩禄処分)、
廃刀令を出したりした。相次ぐ改革により不平士族は反発、佐賀の乱を皮切りに、
神風連の乱、
秋月の乱、
萩の乱が起き、最後に西郷隆盛が挙兵した(
西南戦争)がいずれも政府により鎮圧された。西郷の死により、武力による政府転覆ではなく、言論による政府批判へと時代は変わっていく。
その後、、大久保利通は暗殺され(
紀尾井坂の変)、前年の西南戦争のさなかに木戸孝允も病没した為、明治新政府は、
伊藤博文、
大隈重信を中心に運営されることとなる。
自由民権運動
自由民権運動の発展に対し、、
開拓使官有物払下げ事件に端を発した
明治十四年の政変で、伊藤博文は即時国会開設を唱えていた急進派の大隈重信一派を政府から追放する一方、「
国会開設の詔勅」を発し、に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は
自由党を、大隈重信は
立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
また、大隈重信失脚後、経済政策面で実権を掌握したのが薩摩藩出身の
松方正義であった(
詳細は松方デフレを参照)。松方デフレにより、農民層は貧困することになり、これに自由民権運動が連動、に
秩父事件が発生した(自由民権運動の先鋭化)。
その後、には太政官制を廃止し、
内閣制を導入し、初代
総理大臣には伊藤博文が就任した。
大日本帝国憲法
- 憲法制定に至るまで
-
伊藤博文は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、枢密院を設置した。そして、、黒田清隆内閣の時、君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された(欽定憲法)。
- この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された(具体例としてエルヴィン・フォン・ベルツが挙げられる)。
- 大日本帝国憲法の内容
- 同憲法は、天皇は、第三条で神聖不可侵と規定され、第四条で統治権を総攬する元首と規定された。三権に関しては以下の通りである。第一に、立法権であるが天皇は第五条において帝国議会の協賛を以って立法権を行使すると規定された(つまり、帝国議会は天皇の協賛機関)。しかしその職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議院と華族から成る貴族院の二院で構成された。第二に、行政権であるが、後の日本国憲法と異なり連帯責任ではなく、第五五条で各国務大臣は天皇を輔弼し、個別に責任を負うものであった。第三に司法権であるが、第五七条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
- 同憲法の問題は、主なものに以下の二つが挙げられる。第一は、第一一条に規定されている天皇は陸海軍を統帥するという規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対し直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こすこととなる)。第二は、第二一条で規定された法律の範囲内において自由であるという臣民の権利であった(後に治安維持法などで権利の制限を行うようになる)。
- また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢(超然主義)」を示し、議会と対立した。
- その後、の大日本帝国憲法公布にともない、衆議院議員選挙法が公布され、直接国税15円以上を納税した25歳以上の男子のみ(当時の全人口の1.1%)に選挙権を与えた制限選挙を実施し、に最初の帝国議会(第一議会)が開会された。
- その後も徐々に選挙権の制限条件を緩和していき、また政府と政党との対立も緩和されていった事もあって、明治時代末期から民主主義的な思想が民衆に広まりはじめ、大正デモクラシーへとつながって行く。
日清・日露戦争
植民地化されずに自力で
近代化への改革をなした日本は、には
英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに江戸時代末期以来の
不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは
韓国併合以降である。
条約改正交渉の詳細の通史
、木戸孝允]]
日清戦争
下関条約の結果、清の朝鮮に対する
宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった
冊封体制は終焉を迎えた(
李氏朝鮮は
大韓帝国として独立した)。しかし、
遼東半島は露仏独の
三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。
結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた
清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は、の
金本位制施行の源泉となり、
八幡製鉄所造営(開設)の資金となるなど、戦果は経済的にも影響を与えた。
日露戦争
日清戦争終了後、
ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の
旅順、
大連を租借した。また、
シベリア鉄道及びその支線である
東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、
義和団事件以降、ロシアは満州に軍隊を駐留させ、利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、には、
日英同盟を締結した。当時世界第一の大帝国で「
栄光ある孤立」を貫いていた
英国が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に
日露戦争が勃発した。
ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村寿太郎は米大統領
セオドア・ルーズベルトに仲介を頼み、講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させた
ポーツマス条約の内容は以下の通りである。
- ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める。
- 清領内の旅順、大連の租借権及び、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。
- 北緯50度以南の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡する
-
オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本に認める。
日露戦争における日本の勝利は、白色人種の大国に対する有色人種の小国の、また絶対主義国家に対する立憲君主国家の勝利であり、世界史上の意義も大きかった(ちなみに
第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があり、白色人種国家に対する有色人種国家の近代初の勝利というわけではない)。
韓国併合
その後
第一次世界大戦の講和により完成した
ベルサイユ体制の世界で、に設立された
国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。
年表
西暦との対照表
※ 茶色は小の月を示す。
関連書籍
- 湯沢雍彦、奥田都子、中原順子、佐藤裕紀子 『百年前の家庭生活』 クレス出版 2006年 ISBN 4877333363
関連項目
明治を名乗る主な企業・団体・学校など
これらのうち、明治製菓・明治乳業・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。
外部リンク
めいし
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