経歴
プロ入り前
日本ハム時代
1991年の
ドラフト2位指名で日本ハムファイターズに入団。入団の際に大学の卒業単位が不足していたが、1年留年し、1年目のシーズンオフに残存単位を取得し卒業した。1年目からレギュラーポジションを奪取し、独特の打法から繰り出される
ヒットや、走り打ちと呼ばれる外角球の捌きで
ビッグバン打線の不動の3番打者として活躍。
ホームラン数は21本が自己最多であるものの、
東京ドームの2階席まで飛ばすほどの飛距離を秘めた長打もあり、最多
四球を2回記録する(そのうち1回は
パ・リーグ最高数)など選球眼の良さは抜群で、さらに
最高出塁率のタイトルも獲得するなど、チームの柱となる存在であった。
日本ハム時代は、選手会長としてチームを引っ張る立場だった。
岩本勉はテレビ番組で「マウンド上でくじけそうになったときも、片岡さんが後ろから励ましてくれて有り難かった」と話している。また、
小笠原道大がまだルーキーだった頃、その才能を見抜いて熱心に指導を行い、小笠原本人も「いつも片岡さんの背中を追いかけていた」と語っている。後に小笠原が
FA宣言し、日本ハムに残留するか
読売ジャイアンツに移籍するか迷ったときに、最初に相談した相手は片岡であった。
阪神時代
2001年オフにFA宣言し、阪神タイガースに入団する。このオフに結婚。夫人は当時大学4年だった。その後2児をもうける。
移籍初年度の
2002年は
セ・リーグのバッテリーの配球に苦しみ不振に陥ったが、翌
2003年には
規定打席には到達しなかったものの勝負強い打撃で復活し、阪神のリーグ優勝に貢献した。チームが優勝を決めた日の
広島東洋カープ戦では、途中出場の8回裏に同点ソロホームランを放ち、
赤星憲広による9回裏のサヨナラ勝ちを引き出した。ちなみにファンファーレは
日本ハム時代からあったが、阪神ファンの応援団が「右投げ左打ち、実家は檜風呂リフォーム リフォーム片岡篤史」とアレンジしていたが、「実家は檜風呂ではなくて、サウナが檜製である」と言っていた。本人もしばらくこの応援歌が気になって打席に集中できなかった為、2003年度の契約更改のときに「実家は檜風呂というファンファーレをやめてほしい」との申請をした。よって応援団も翌年から片岡のファンファーレを自粛していた。
2004年以降は相次ぐ故障で
代打での出場が多くなったものの、
2005年には代打で6打席連続ヒットを記録するなど、ここぞという時の切り札として活躍し、この年のリーグ優勝に貢献した。
2006年は
関本健太郎らにポジションを奪われ、さらに相次ぐ故障からホームランがわずか1本にとどまるなど打撃不振に陥り、体力的な限界からこの年をもって現役を引退した。引退試合となった
10月12日の
中日ドラゴンズ戦では6番サードで
スタメン出場し、盟友の立浪が守るレフトを越える二塁打を放つなど2安打で有終の美を飾った。胴上げには阪神選手のほか、中日から立浪、
谷繁元信、
井上一樹、PL学園の後輩である
福留孝介、日本ハム時代のチームメイトである
奈良原浩、
上田佳範も加わった。引退セレモニーでは立浪が花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交わした。
現役引退後
出演番組
プロ時代の戦歴
生涯成績
※太字はリーグ最高
タイトル・表彰・記録
- 初出場・初安打 1992年4月4日西武戦(西武) 7番三塁手として先発出場、工藤から右前安打
- 初打点 1992年4月8日近鉄戦(藤井寺) 6回山崎から中前適時打
- 初本塁打 1992年4月9日近鉄戦(藤井寺) 7回入来から右越2ラン
-
最高出塁率 1回(1998年)
-
ベストナイン 2回(1996年一塁手部門、1998年三塁手部門)
-
ゴールデングラブ賞 3回(1996年一塁手部門、1997年〜1998年三塁手部門)
-
オールスターゲーム出場 6回(1993年、1997年〜2000年、2002年)
-
最多四球 2回(1998年、2000年) ※1998年に記録した113四球はパリーグ史上最高数。
関連項目
脚注
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)