概要
平安京は現在の
京都府京都市中心部にあたる、
山背国葛野・
愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に
大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し
隋・
唐の
長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった。この地の選定は中国から伝わった
風水に基づく
四神相応の考え方を元に行われたという説もある。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40
丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。
道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(
堀川、西堀川)が流れていた。
歴史
桓武天皇は延暦3年(
784年)、山背国に
遷都して
長岡京を造営したがこれは
天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる
大和国から脱して、新たな
天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背国北部に遷都し平安京が成立した。この再遷都は、長岡京で興った
藤原種継暗殺から
早良親王廃太子に至る一連の騒動や長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられている。
平安京の造営はまず宮城(
大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。もっとも右京の地は
桂川の形作る湿地帯にあたるため
9世紀に入っても宅地化が進まず、
律令制がほとんど形骸化した
10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。
貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ
藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて
鴨川の川べりに住み始め鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。
天元3年(
980年)には朱雀大路の南端にある
羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った
中世・
近世の
京都の街が形作られた。
名称
平安京は後世においては
音読みの「へいあんきょう」と読むが、当初は「たいらのみやこ」と
訓読みした。普通、京の名前は地名を冠するのが一般的であるため本来なら「葛野京」(かどののみやこ)としても良かったが、前項で記されている
長岡京での騒動が原因のひとつとして再び
遷都された理由により新京では悪いことが起こらず「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められている。
平安京全体図(仮)
注意:図に描かれているもの以外にも、複数の町にまたがる邸宅などにより小路が途切れていることがある。
平安遷都記念事業
その他
- 「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の年号語呂合わせは有名。
- 「京都市平安京創生館」では平安京復元模型(1/1000:京域・鴨東・北山部分)、豊楽殿復元模型(1/20)、豊楽殿鴟尾実物大模型の他、平安時代の出土品を多数展示している。
関連項目
外部リンク
へいあんきよう
へいあんきよう
へいあんきよう
へいあんきよう
都へいあんきよう
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)