1975年、
愛奴のメンバー(
ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時から
サングラスがトレードマーク。
1976年にソロ・デビュー。
メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。その為、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されている
バラード楽曲の他にも父親の
被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最も
プロテスト色の強いアーティストである。また、ロック=英語という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは、以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。
来歴
誕生からデビューまで
プロデビューと不遇の時代
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1974年、再び上京し、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は1年程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。
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1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコードデビュー。当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながらウェイターなどの仕事もしていた。
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1976年
4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』とシングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また、竹内まりやとジョイント・コンサートも行っている。他にも歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃の全国巡業での観客は30人から多くて200人程度で、描いた夢にはほど遠かった。
- 70年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいく。
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1979年8月、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」がスマッシュ・ヒット(オリコン25位、10万枚)。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。
音楽性の転換と成功への道
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1980年、6thアルバム『HOME BOUND』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。
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1982年
1月12日、日本武道館での初コンサートを開催。そのときの模様を収録したライブアルバム『ON THE ROAD』を発売し、以降はコンサートツアーのタイトルを「ON THE ROAD」とする。
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1983年
4月1日に所属事務所であったホリプロダクションから独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「Road and the Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、90年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義等が所属することになる。
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1983年
8月13日、福岡・海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。
- この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。80年代は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。
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1985年7月27日 - 28日、つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。
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1986年に発売された2枚組アルバム『J.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(5週連続)を獲得。名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。
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1988年
8月20日の静岡県浜名湖・渚園での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。
トップアーティストとしての苦悩から現在まで
エピソード
- 自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、ビートルズ、ボブ・ディラン、モハメッド・アリ、ジャクソン・ブラウンの4組。ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという。
- 広島出身ということもあり、大の広島カープファン。ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。
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1974年に吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、同郷の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が叩いていたドラムだったという。当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった。
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サングラスをかけだした由縁は、好きなミュージシャン達(ボブ・ディラン、スティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノン等)がサングラスをかけてたから、真似をしてかけたため。また、ドラムは目立たないから何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。
- 無名だった頃、ギターを持ってタクシーに乗った時「ミュージシャンなの?」と運転手に聞かれて、「はい、浜田省吾って言います」と答えると、運転手は「あぁ、知っているよ。サングラスしていたから分からなかったよ」と答えた(浜田はこの手の話をライブで披露するが、相手がレコーディング・スタジオの警備員のパターンもあり。この話を浜田のネタと捉えるファンも多い)。
- ラジオ番組では、かつて『浜田省吾のロッテリア・ホットホットヒット』(北海道放送、1979年10月〜1980年)と『セイ!ヤング』(文化放送、1980年1月〜9月)でDJを務めたことがある。『セイ!ヤング』では音楽の話はもちろん、野球ネタや映画ネタ、そして当時のバンドの生ライブなどで人気となった。他に吉田栄作が浜田の大ファンだった経緯で当時、吉田が持っていたラジオ番組『吉田栄作Take Off』(ニッポン放送)にゲスト出演したり、やはり浜田のファンという『福山雅治のSUZUKI TALKING F.M.』(TOKYO FM)にもゲスト出演(2005年6月19日)している。
- テレビには殆ど出演したことはないが1979年、日清食品からの指名で日清カップヌードルのCMソングに起用され、シングル「風を感じて」が初のスマッシュヒット。この関係で、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や、日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送に出演している。この時の事をのちのインタビューで述べているが、朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだったという。結局『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回の地上波のテレビ出演がある。
- 近年は若いアーティストも早いうちから曲作りを始めることが話題となるが、浜田が本格的に曲作りを始めたのは、神奈川大学に入ってから、20歳の頃である。それまでは、作詞を浜田が手掛け、作曲は町支がしていて、自分に曲が作れるという発想があまりなかった。夏の暑い日、大学の正門の前にあった下宿で、好きだったザ・ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」に影響を受け「二人の夏」を作ってみた。町支らに聞かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウエストコースト風のサウンドに「これはいいよ」と絶賛され、その気になった。あの時、町支らがけなしていたら曲作りは止めていたかも知れないと言う。
- 自分の初期のシングルやアルバムに対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。
- 1970年代後半の長い下積み時代、小さな街で数百人を集めてのライヴに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『ザ・ベストテン』がやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライヴはカウンターカルチャーだと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達はていねいにすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。
- 若いとき、音楽評論家・渋谷陽一のラジオ番組にゲスト出演。このとき議論が白熱し浜田が激怒し「結局なんでしょ、あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜省を支援し続けている。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーティストと述べている。
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尾崎豊、福山雅治、桜井和寿ら浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」と言う内容のようである。
- スポーツ界にもファンが多く、三浦知良やラモス瑠偉、高木琢也らが挙げられる。カズは20年来の友人で2006年の浜田の2枚組アルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1.2』のCMにも出演している。現在ヤンキースの松井秀喜もファンであり、コンサートで楽屋を訪問した。
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1999年夏、北海道での野外コンサートに向かうメンバーとスタッフを乗せたANA61便がハイジャックに遭遇。浜田自身は前日に北海道入りしていて無事だった。
- メディアに登場しないためあまり知られていないが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。
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名瀬市でコンサートを行った際、「南海日々新聞」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載され、ステージで早速ネタにする(「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ!」と笑いながら語った)。後日、同新聞に『あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした』と記事が掲載される。
- コンサートでは、お客さんの年齢層を毎回確かめる「年代別チェック」が恒例になっている(「10代の人、手を叩いてみて」というように)。現在は30代と40代のオーディエンスが圧倒的に多い。
- あまりにもテレビに出演しないのと、動いている姿をコンサートでしか見られないため、観客から「動いてる!」と言われ、笑いながら「俺だって生きてるから動くよ!」と返したことがある。
- コンサートで「HELLO ROCK & ROLL CITY」を歌うときは、歌詞の一部(都市名)をコンサート開催地に変えて歌う(例、Hello 大阪 City~など)。
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2000年、黒磯でのコンサート中、開始二曲目で「脹脛断裂」してしまう。それでもコンサートはやり遂げた。この事はワイドショーでもニュースになったほどである。しかし、このときのニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは「風を感じて」であった。本人はこのことが一番ショックだったと語っている。
- 大きなヒット曲と言えるものは「悲しみは雪のように」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ。オリコンでは10週1位を獲得し、平成以降ではCHAGE and ASKAの「SAY YES」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。
- 2008年4月2日の発売された『ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"』(DVD)は男性単独アーティストのDVDで最も内容の多いDVDとして(540分を越す)ギネスに載っている。
ディスコグラフィー
アナログシングル
CDシングル・マキシシングル
アルバム
映像作品
- 1989年5月21日 ON THE ROAD "FILMS" (VHS/LD)(後にDVDで再発売)
- 1996年2月29日 ROAD OUT "MOVIE" (VHS/LD)(後にDVDで再発売)
- 2002年7月31日 ON THE ROAD 2001 (DVD)
- 2002年8月21日 WE ARE STILL ON THE ROAD (DVD)
- 2005年8月31日 SHOGO HAMADA Visual Collection "FLASH&SHADOW" (DVD)
- 2008年4月2日 ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"(DVD)
コンサート数
- 1976年 15回
- 1977年 50回
- 1978年 53回
- 1979年 70回
- 1980年 96回
- 1981年 88回
- 1982年 122回
- 1983年 119回
- 1984年 87回
- 1985年 76回
- 1986年 64回
- 1987年 38回
- 1988年 90回
- 1989年 10回
- 1990年 55回
- 1991年 54回
- 1993年 37回
- 1994年 58回
- 1995年 3回
- 1996年 16回
- 1997年 13回
- 1998年 52回
- 1999年 61回
- 2000年 48回
- 2001年 35回
- 2002年 2回
- 2003年 10回
- 2005年 26回
- 2006年 28回
- 2007年 55回
ツアータイトル
- 1986年 I'm a J.BOY
- 1988年 FATHER'S SON
- 1991年 ONE AND ONLY
- 1993年 OCEAN AVENUE 7493
- 1994年 THE MOMENT OF THE MOMENT
- 1996年 Tender is the night
- 1998年-2001年 THE MONOCHROME RAINBOW
- 2001年 THE SHOGO MUST GO ON
- 2005年 MY FIRST LOVE
- 2006年-2007年 MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL
脚注
参考文献
関連項目
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)