港
品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港である。
1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは、河口は現在より北、品川浦付近にあった。突端は州崎と呼ばれ、利田神社が建っていた。
品川湊のある品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型
廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁才船など)の積み替えが行われた。現在の
東京港品川埠頭から
天王洲にかけての一帯がこれにあたる。小型廻船は河川を通じて
北関東や
香取海にまで至り、西国との流通路を形成した。
明治時代に作成された「大日本海岸実測図」によると、品川以北の海底には浅瀬が広がっており、東京に向かって航行可能なのは、2つの細い水路だけだった。
歴史
古代
中世
鎌倉時代には、鎌倉との関係が深くなった。御家人として
品川氏が置かれた。北条氏得宗が掌握する、武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている。
品川湊は伊勢・熊野と結ぶ、太平洋航路で栄えた。中世の太平洋水運を担っていた
伊勢神宮(
伊勢大湊)や、
熊野三山とのつながりが強い。
金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(
1392年)1月から9月までの間に、伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。これらの物流は、
鈴木道胤や榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人)が担っていた。
近代
江戸時代、品川湾は
品川沖と呼ばれ、
菱垣廻船や
樽廻船などの貨物船でにぎわった。一方、旅客の海上輸送は
宿場を保護するため、規制されていた。江戸と木更津(木更津船)や、江戸と品川宿など一部の例外のみが認められていた。
幕末、
品川台場の外側は
品川泊地として、外国船に公開された。幕府の軍艦も停泊するようになった。
1868年(慶応4年)、江戸が陥落すると
榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて脱出した。明治時代になってからも、軍艦の停泊地としても利用された。
町
中世
「千葉妙見大縁起」によると、
鎌倉時代末期の
1275年には、品川宿が形成されていた。
室町時代には有徳人の寄進などにより、妙国寺(現天妙国寺)など多くの寺院が建てられ、都市化がすすんだ。高層建築が立ち並び、東国の玄関港としての威容を誇っていた。中世の品川は、川を境として南北に分かれて町場が形成されていた。北品川には清徳寺、南品川には海晏寺があった。「
都市的な場」には、多くの宗教者や
連歌師が訪れた。
日蓮宗が積極的に活動した事が知られている。
- 海晏寺
- 「龍燈松」の伝承があり、灯台的な機能を持っていたと考えられる。榎本道琳の後援を受ける。本尊は鮫洲の由来である。鮫は鈴木氏・榎本氏・宇井氏など熊野三党(三苗)の家紋である。
近世
参考文献
-
岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』 ISBN 978-4316357508
- 綿貫友子『中世東国の太平洋海運』 ISBN 978-4130260671
- 『中世の風景を読む〈2〉都市鎌倉と坂東の海に暮らす』 ISBN 978-4404021571
- 『品川区史 通史編 上巻』
脚注
関連事項
外部リンク
しなかわみなと
港しなかわみなと
しなかわみなと
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)