略歴
武州
児玉郡保木野村(現在の
埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自。近世に帰農した、
百姓の家系であるという。父は宇兵衛、母は
加美郡木戸村の
名主斎藤家の娘きよ。
口承に拠れば幼少の頃から視力が弱く、7歳のとき失明した。少年時代には草花を好んでいたという。
宝暦7年(
1757年)には母が死去。宝暦10年(
1760年)、15歳で
江戸へ出て盲人の職業団体である
当道座の雨富須賀一
検校に入門し、名を千弥と改め、
按摩、音曲などの修行を始めた。しかし生来不器用でどらちも上達せず、絶望して自殺しようとしたと伝えられる。
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。歌学を荻原貞辰(百花庵宗固)に、神道・国学を川島貴林に学んだ。塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。宝暦13年(
1763年)に衆分になり、名を保木野一と改めた。
明和6年(
1769年)に晩年の
賀茂真淵に入門した。
安永4年(
1775年)には塙姓に改め、名も保己一と改めた。
天明3年(1783年)に
検校となり、
寛政5年(
1793年)、幕府に願い出て和学講談所を開設。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『
群書類従』である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの
東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『
大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、
文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(
1821年)2月には総検校になり、同年9月に死去。四男
忠宝が跡を継いだ。
生家は国指定遺跡で、記念館も置かれている。墓所は
東京都新宿区若葉の愛染院。
エピソード
- 昭和の名人と呼ばれた落語家、桂文楽がなくなる十数年前、胸をわずらったことがある。不吉なものを感じた文楽は、四代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思いだし、彼女にところにいって占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は、保己一の墓にいってすっかり汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳をみせてもらうと、同行していた五代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊のときの自分の上官です。随分なぐられました」と語った。(宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)より)
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群書類従の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている。
外部リンク
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)