第二次世界大戦が終わるまでは史書(『日本書紀』)には載っていたが、所在地は不明なままであった。1913年(大正2)
大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、
1953年(昭和28)同所付近から
鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり
山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。そればかりでなく、
1958年(昭和33)にはそれよりも一時代古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、
686年(朱鳥元)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。これらを「前期難波宮」という。
1961年(
昭和36年)、
山根徳太郎らの発掘により、
聖武天皇時代の「後期難波宮」の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。
山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という発言を残した。
前期・難波宮
後期・難波宮
784年、
桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
史跡難波宮跡
- 現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。
- 難波宮の遺跡は周辺にも及んでおり、NHK大阪・大阪歴史博物館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。
- 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
- 2006年には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。
- 難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
関連項目
外部リンク
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)