東海道(とうかいどう、うみつみち)
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五畿七道の一つで、本州太平洋側の中部を指す行政区分。
- 五畿七道の東海道を通る幹線道路。
- 律令時代に整備されたもの。
- 江戸時代に整備されたもの。五街道の一つ。
行政区画としての東海道
道(みち)としての東海道
律令時代
律令時代の東海道は、東海道の諸国の
国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。七道の一つで、
五畿七道の中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。
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平城京(奈良)から東に伊賀国府を経由して鈴鹿関に至る。近江朝時代と平安時代初期には近江国を通り現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に現在のように鈴鹿峠を通り関へ至る経路に変更された。
- 沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る。
- : 当時は「東海道」の本筋であった。800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓かれると「東海道足柄路」と称されるようになった。なお箱根路は急峻なため、足柄路が復興され、中世までは主要な街道筋であった。
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相模国
府以東。海を渡ってから房総半島を北上し、常陸国から菊多関を経由して陸奥国に入り、今の宮城県中部の名取郡で東山道に合する。
相模国では、
多摩川を渡る地点までは現在の
矢倉沢往還(
国道246号)の経路にあたる。矢倉沢往還の旧道では、律令時代の東海道の道筋がそのまま現在でも用いられている箇所がある。
武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったこと、元来武蔵国が北隣の
上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であった(
武蔵国造の乱を参照のこと)ため、当初の東海道は相模国の
三浦半島から海路で
房総半島の
上総国(
安房国分立は
718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。現・
千葉県にある安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と
下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。
武蔵国はその後、各道に派遣された官人が諸国を巡察する際、上野国新田驛から武蔵国府(この間5驛)を経た後に下野国へと逆戻りする旅程より相模国から武蔵国を経て下総国府(この間4驛)へと周る旅程の方が便利であり公私に亘り都合良いとの判断から、太政官の奏上を天皇が許可することによって
771年(宝亀2年)旧
10月27日に東海道経路に組み入れられた(
続日本紀)。当書の中で「東海道」「東山道」は「海道」「山道」と呼ばれており、
江戸時代には
江戸から
水戸に至る
水戸街道は
江戸海道と呼ばれ、このほか水戸から各地に伸びる
棚倉海道、
岩城相馬海道(以上は大道)、
那須海道、
茂木宇都宮海道、
結城海道、
瀬戸井海道、
飯沼海道(以上は中道)なども「海道」であった(新編常陸國誌六十四行路)。呼称の由来については、同書に「東海道に属する諸国の往来の大道を海道と称す」とあるほか、上記の相模 - 上総のルートとともに、
延喜式にも記された
三河国から
伊勢湾を経由して伊勢国に渡る別ルートという海上ルートを含んでいたために、「ヤマノミチ(東山道)」に対する「ウミノミチ」の意味で命名されたと考えられている。
陸奥は
東山道に属するので、陸奥の「海道」は「山道」に対する副線と捉える場合もある。それより北にも各地に東海道と呼ばれる道が断片的に存在し、それが古代の名残りだとすると、さらに北でも支線として存在した可能性が高い。史料に山道に対する海道として現れるものは、「海沿いの地域」の意味で用いられたと推定されるが、また多賀城の国府から海側の
牡鹿郡・
桃生郡へ向かう支路があったとの見方もある。また現在の仙台市にある東海道(あずまかいどう)も、古代に連なる可能性がある。
武士の時代
鎌倉時代の頃、
海道記とあるように、この頃は海道といえば東海道そのものを指していた。
京都から延長して
大坂に至る
京街道(宿駅4箇所)も、東海道の一部とすることがある。江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都には入らずに
伏見宿に入る
伏見街道が
追分駅付近から分岐する。
- 東海道を扱った作品
明治時代以後
清水区付近。 ]]
明治政府は、幹線道路の呼称に番号付きの
国道を用いるようになり、地方制度としての
令制国も廃止した。幹線道路としての実質的機能と位置は現在の
国道15号及び
国道1号に受け継がれ、部分的に異なる経路を歩むが、
東日本と
西日本(
関東地方と
近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。
現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では
磯原、江戸時代以後は
東京(江戸)ということになる。
鉄道の「東海道」
現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、名古屋−草津については名古屋−亀山−草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば
関西本線と
草津線のルートに近いものである。
この名古屋(熱田・宮)から亀山を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち上記の東西幹線から外れた区間は、明治中期になって民間の
関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが国有化されて現在の両線となっている。
東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れたのは、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設するに当たって、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、その結果中山道経由に一時は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に
碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限を考慮して、やはり東海道の方が優れているということになり、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。
計画変更が決まった時には、既に
神戸から
大阪・
京都を経て
大津に至る鉄道と、
長浜から
岐阜・
名古屋を経て
武豊までの鉄道が開業していて、これと
琵琶湖の
鉄道連絡船(大津−長浜)を用いることによって武豊−名古屋−京都−神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。
また
新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで
鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要すること、それに米原が
北陸本線(旧:
北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。
関連項目
外部リンク
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