来歴
帰国後、帝国大学文科大学(田中稲城自身の卒業した東京大学文学部の後身)の
教授に任ぜられ、ついで東京図書館の館長兼務を拝命、
1893年には図書館長専任となって本格的に日本における国立図書館の整備・経営の仕事に取り組んだ。
田中が館長に就任したとき、東京図書館はきわめて貧弱な予算と施設しか持っていなかった。文部大臣
森有礼の学校教育改革の煽りを受けて文部省の社会教育にかける予算は削減されていたうえ、折から
朝鮮情勢の緊迫化から政府全体が
日清戦争に向けて軍備拡充に予算をつぎ込んでいたため、教育・文化行政の一分野に過ぎない図書館は全く重視されなかったためである。そこで、田中は政界、官界の有力者や関係各所に向けて陳情活動を行うとともに、欧米諸国における国立図書館政策を紹介したり、国立図書館が国の教育・文化政策の要であることを広く説いて世論に国立図書館拡充を訴え、東京図書館を新たに帝国図書館に発展させる運動を行った。
こうした田中の活動が実り、日清戦争終結後の
1896年に
帝国議会両院で帝国図書館設立の建議が可決され、翌
1897年に帝国図書館官制が公布されて帝国図書館が創立をみた。帝国図書館は東京図書館の機構を受け継ぎ、東京図書館長田中稲城が帝国図書館の初代館長となった。
また、帝国図書館の施設は、帝国図書館創立と同時に設置され、田中館長も加わった帝国図書館新築設計委員において検討が進められ、完成すれば東洋最大の規模となる大図書館が計画された。しかし、政府の財政難から第一期工事のみが当初計画を大幅に縮小して
1898年に着工、建築に8年を要して
1906年にようやく竣工した。新築なった帝国図書館は建築当初の規模こそ全体計画の4分の1でしかなかったものの、総閲覧席数300席、地上8層・地下1層で収蔵能力50万冊におよぶ書庫を有し、現在も
国際子ども図書館として現役で使われている。
この間、田中稲城は海外における図書館界の協力体制を見習って
1892年に創設された日本文庫協会(
日本図書館協会の前身)の設立を発起し、日本初の図書館法令である
図書館令の検討にも携わるなど、日本における近代的図書館の発展に尽力した。彼の館長在任は、東京図書館時代から通算して30年以上に及び、帝国図書館をはじめて真に国立図書館と呼びうる組織に発展させた。
しかし、帝国図書館は田中の計画通りに発展することを果たせなかった。大正に入ると、帝国図書館は早くも書庫と閲覧室が逼迫し始めていたが、当初計画通りに増築することはかなわなかった。そして
1921年、図書館員教習所(
図書館情報大学の前身)の開設に際し、田中は手狭な帝国図書館内に教室を設けることを拒否したことから、図書館の近代化のために司書の専門職化のための教育機関の必要性を唱える
乗杉嘉壽(文部省普通学務局第4課長・日本の
社会教育の祖とも言われる)と対立、田中が設置の条件に図書館の増築を求めたことから文部省本省とも対立して間もなく退官した。事実上更迭に近かったといわれる。
田中稲城が没したのはその4年後である。
脚注
参考文献
- 石井敦(編)『図書館を育てた人々 1: 日本編』日本図書館協会、1983年。
- 『上野図書館八十年略史』国立国会図書館支部上野図書館、1953年。
- 『近代日本図書館の歩み 本編』日本図書館協会、1992年。
外部リンク
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)