沖縄wikipedia検索はごーやーどっとネット検索

wikipedia検索
ホーム > wikipedia検索 > 町井久之
wikipedia検索[町井久之]

町井久之

町井 久之(まちい ひさゆき、1923年7月20日 - 2002年9月18日)は、日本ヤクザ実業家右翼活動家。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。在日韓国人。本名は鄭建永(チョン・ゴンヨン、???)。専修大学専門部卒業。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。

来歴

大正12年(1923年)、東京で町井久之は生まれた。町井久之の父親はソウル出身で町工場を経営していた。
その後、町井久之は専修大学を卒業した。
昭和20年(1945年)の敗戦後、町井久之は、専修大学の大学生を集めて、東京の中野愚連隊を組織し、グループの頭領となった。町井久之の愚連隊は、新宿渋谷銀座と進出していった。
同年10月15日、日比谷公会堂で、在日本朝鮮人連盟(後の朝鮮総連)が結成された。全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。
同年11月16日、在日朝鮮人連盟の左翼化に反対した在日韓国人・在日朝鮮人の青年が集まり、朝鮮建国促進青年同盟を結成した。町井久之は朝鮮建国促進青年同盟東京本部副委員長となった。
昭和20年(1945年)代に、町井久之は事件屋の「中央商会」、興行会社の「中央興行社」を設立した。これらの会社をベースに、愚連隊・町井一家(関東町井一家)が形成された。
昭和21年(1946年)2月27日、永田町国民学校で、在日本朝鮮人連盟の第2回臨時全国大会が開催された。大会は「朝鮮人民共和国支持問題」で紛糾した。在日本朝鮮人連盟の右派は「共産主義者を在日本朝鮮人連盟から追い出せ」と書かれたビラをまいた。これを切っ掛けに、町井久之の朝鮮建国促進青年同盟ら右派と在日本朝鮮人連盟の左派とが乱闘となった。右派の鄭哲が、左派の若者の腹部を銃撃した。
昭和32年(1957年)、町井久之は、東京・銀座で、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに、在日本朝鮮人連盟や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として、反共産主義の思想団体・東声会を結成した。東声会の母体となったのは、町井一家であった。
昭和34年(1959年)9月11日、新宿区歌舞伎町の路上で、東声会系三声会組員の少年が、港会系組員を含む数人に刺殺された。この組員の葬儀は、港会東声会が合同主催した。警察は、この合同葬を、港会東声会の手打ちとみていた。
昭和36年(1961年)4月、町井久之は東亜相互企業株式会社を設立した。会長には右翼活動家・児玉誉士夫が就いた。東亜相互企業株式会社は、銀座で、料亭「秘苑」を営業した。
同年10月31日深夜、新宿区歌舞伎町の深夜喫茶「スワン」で、東声会幹部・陳八芳と三声会・三木恢会長が、港会会員・福岡幸男に撃たれて死亡した。その場に居合わせた東声会組員2人も重傷を負った。事件後、港会との関係は緊張した状態となったが、同年10月中旬に手打ちとなった。
その後、東声会は、東京、横浜藤沢平塚千葉川口高崎などに支部を置いた。構成員は1600人となった。
その後、急速な勢力拡大により、他のヤクザ団体が結束し、東声会は四面楚歌の状態に陥った。さらに、警察の取り締まりにより、東声会の幹部多数が逮捕された。
その後、町井久之は、元右翼の平野富士松を、東声会副会長に迎え、東声会内部の立て直しを断行した。
昭和37年(1962年)夏ごろから、右翼児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、町井久之らに根回しを始め、同意を取り付けた。
昭和38年(1963年)、町井久之は、児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組田岡一雄組長の舎弟となることを決断した。関東のヤクザ団体はこの兄弟に反対したが、児玉誉士夫が関東ヤクザ団体を説得した。
同年2月10日、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之の兄弟盃が執り行われた。この結縁式には、稲川角二錦政会会長、関根賢・関根建設社長、阿部重作・住吉会名誉顧問、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長が出席した。
同年2月11日、京都市の都ホテルに、稲川裕芳、岡村吾一、町井久之、田岡一雄ら全国の主だった組長が集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。関東の組長を稲川裕芳が、関西中国四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。
同年3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。
同年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫の推し進めていた東亜同友会構想が頓挫した。 同年8月、安藤組幹部・西原健吾(安藤組大幹部・組長代行の花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉め、乱闘になった。これを切っ掛けに花形敬刺殺事件が発生した。 同年夏の終わり、稲川組と東声会の対立事件が勃発した。これにより、稲川裕芳は、井上喜人を破門にせずに堅気にさせた。井上喜人の若衆・舎弟の全員は、稲川組に残った。 同年11月9日午後6時9分ごろ、田中清玄銃撃事件が勃発した。 同年12月8日午後10時30分、赤坂キャバレーニューラテンクォーター」で、住吉一家・村田勝志が登山ナイフで、プロレスラー・力道山の腹部を刺し、逃走した。翌12月9日午前0時40分、リキアパート前の路上で、東声会幹部・野口ら4、5人が、村田勝志に暴行を加えた。同年12月15日、力道山は入院先の病院で死亡した。
同年12月21日、東声会は、錦政会住吉会松葉会日本国粋会、義人党、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。
同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。松葉会・藤田卯一郎会長が、関東会初代理事長に就任した。児玉誉士夫、児玉誉士夫らが昭和36年(1961年)に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、三代目波木一家・波木量次郎総長が関東会結成披露に出席した。
同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。
昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
昭和39年(1964年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。 昭和41年(1966年)9月1日、町井久之は東声会の解散声明を発表した。
同年9月8日、東京の池上本門寺で、東声会解散式が行われた。町井久之は、やくざ社会の表舞台から去った。
昭和42年(1967年)4月、町井久之は、東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合」として再建した。町井久之は名誉会長となった。町井久之は、この東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。なお、関東会も関東二十日会として復活した。間もなく、「東亜友愛事業協同組合」は「東亜友愛事業組合」と改称された。
昭和43年(1968年)、町井久之は国民勲章・冬栢章を受勲した。
昭和44年(1969年)、町井久之は、資本金60万ドルの釜関フェリー株式会社を設立した。本店を釜山市に置いた。
昭和45年(1970年)、釜関フェリーが就航した。
昭和46年(1971年)、町井久之は在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。同年7月、東亜相互企業株式会社は、城園観光株式会社に、資金を提供した。東亜相互企業株式会社は、城園観光株式会社が経営する韓国料亭「城園」の名称を「湯島秘苑」に改めた。同年9月20日、町井久之は、第8代在日本大韓体育会会長に就任した。
昭和47年(1972年)11月、東亜相互企業株式会社は、城園観光株式会社の名称を「秘苑観光株式会社」に改めた。その際、秘苑観光株式会社の代表取締役には、元横浜入国管理事務所所長・高木民司が就任した。
韓国外換銀行東京支店は、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。東亜相互企業株式会社は、60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受けた。東亜相互企業株式会社は、33億円を那須・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSK・CCCターミナルビル建設につぎ込んだ。
昭和48年(1973年)7月、東亜相互企業株式会社は、六本木に、TSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。
昭和51年(1976年)7月5日、東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県県知事木村守江に対する500万円の贈賄容疑で逮捕された。同年8月6日、福島県県知事・木村守江が収賄容疑で、福島地検に逮捕された。町井久之も任意で取調べを受けた。
昭和52年(1977年)、「湯島秘苑」が、風俗営業違反で警察の強制捜査を受けた。同年6月1日、東亜相互企業が不渡りを出して、倒産した。
平成14年(2002年)5月20日、釜関フェリー株式会社は、新たな航路船として豪華船「星希号」を就航させた。同年5月22日、釜山広域市で就航記念式が開かれた。就航記念式には、柳正錫海洋水産部長官、釜山広域市下関市などの釜関航路関係部署の代表、民団中央本部の金宰淑団長が出席した。
平成14年(2002年)9月14日午前5時ごろ、東京都内の病院で、心不全のため死去。 同年9月17日、通夜。同年9月18日、東京都港区六本木の自宅で、近親者だけで葬儀・告別式が行われた。

脚注

町井久之関連の書籍

  • 真樹日佐夫、笠原倫『実録 東声会 初代町井久之 暗黒の首領』コアマガジン、2007年、ISBN 4-86252-213-0
  • 真樹日佐夫、笠原倫『実録 東声会 戦後最大の黒幕 町井久之』コアマガジン、2008年、ISBN 4-86252-305-6

町井久之関連の映画・オリジナルビデオ

参考文献

まちいひさゆき まちいひさゆき まちいひさゆき まちいひさゆき まちいひさゆき まちいひさゆき まちいひさゆき

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.


Copyright© 2012 Goyah.net Inc. All Rights Reserved.