中国山地(ちゅうごくさんち)は、日本の
中国地方の脊梁をなす
山地。
東西に長く、東はおよそ
市川・
円山川(いずれも
兵庫県)付近から、西は
響灘海岸(
山口県西岸)までの約500kmに及ぶ。最高峰
大山(標高1,729m)と
氷ノ山(標高1,510m)を除くと高い山でも標高約1,300m〜1,000m程度、その他はおおむね標高約500m〜200m程度の比較的低い山で構成されている。全般的に風化しやすい
花崗岩が多く、侵食を受けて小起伏の多い
準平原地形を呈している。平地部は
津山盆地や三次盆地などごくわずかな範囲に限られている。
中国山脈と呼ばれることもあるが、地質学的な
山脈の定義には当てはまらない。
地勢
最高峰の
大山を除くと、おおむね鳥取・岡山県境および島根・広島県境に沿って、中国山地の脊梁部が並んでいる。脊梁部を境として、北を
山陰地方、南を
山陽地方と区分する(山口県・兵庫県西部は中国山地の南北に県域が広がっているが、山口は全域山陽地方、兵庫西北部(但馬地方)は山陰地方、兵庫西南部(播磨地方)は山陽地方となる)。脊梁部に高い山が集中しており、主要な山には、
扇ノ山(1,310m)、
氷ノ山(1,510m)、
那岐山(1,240m)、
蒜山(1,199m)、道後山(1,268m)、
比婆山(1,264m)、大佐山(1,069m)、
恐羅漢山(1,346m)、冠山(1,339m)、寂地山(1,337m)、青野山(907m)などがある。脊梁部の北側は、冬季の降雪が多い日本海岸気候であるのに対し、脊梁部南側は、年間通して温暖で、降水の少ない
瀬戸内海式気候となっている。
脊梁部を挟んで南北に400m前後の
高原地形が広がっている。特に
島根県西部の石見高原と
岡山県から
広島県東部に至る
吉備高原がその代表である。この高原地帯は、大小河川による侵食が進行しており、平地部に乏しい。顕著な平地部は、
津山盆地、三次盆地程度であり、あとは微少な
盆地が見られるに過ぎない。
生態系
中国山地に棲息する主な哺乳類は、
キツネ、
タヌキ、
イノシシ、
ニホンザル、
ツキノワグマなどが挙げられる。特にツキノワグマは、主な餌である木の実の不足、生息地の分断化と縮小、狩猟圧・駆除圧などにより保護が必要とされている。
地質
古生代以前、中国山地は存在しておらず、
日本列島のある場所は海だった。太平洋海底プレートがアジア大陸プレートの下へもぐっていく際、太平洋プレート上の海底堆積物がアジアプレートに付加していく。これを
付加体という。前にできた付加体は、後からできた付加体に押されて、アジアプレートの下部へと追いやられる。そして、地中深くなると高い圧力により
変成作用を受け、
変成岩となる。
中国山地でもっとも古い歴史を持つのは、古生代
石炭紀(約3億6千万〜約2億8千万年前)にアジア大陸東縁に形成された秋吉帯と呼ばれる付加体だったと考えられている。秋吉帯は、地中深くで低温高圧の変成作用を受けた後、古生代末期〜
中生代初期の秋吉造山運動によって隆起し、陸地となった。秋吉帯を起源とし低温高圧の変成を受けた変成帯を三郡変成帯(さんぐんへんせいたい)といい、現在では主に
山陰地方に分布している。
秋吉造山運動によって一旦隆起した陸地は次第に沈降していき、再び海底となったが、中生代後期の
白亜紀に入ると、アジア大陸東縁で
マグマが上昇して造山運動が活発となり、再び陸地が形成された。これを佐川造山運動という。約1億年前に起こった。このとき、白亜紀の一つ前の
ジュラ紀で形成された付加体が、地中深くもぐるよりも前に、上昇したマグマの熱による高温低圧の変成作用を受けた。これによる変成帯を領家変成帯(りょうけへんせいたい)といい、現在では主に
瀬戸内海沿岸に分布している。
佐川造山運動のとき、上昇してきたマグマは冷えると
花崗岩になった。中国山地に多く見られる花崗岩はこのとき形成されたものと考えられている。中国山地の花崗岩は大きく山陰花崗岩、山陽花崗岩、領家花崗岩に区分される。このうち山陰花崗岩は磁鉄鉱を多く含んでおり、中国山地における
たたら製鉄の盛行をもたらした。
花崗岩は、風化・侵食の作用を受けやすい。そのため、白亜紀以降の中国山地は侵食作用により、
準平原化が進んでいった。
新生代に入ると、日本列島では数100万年単位で隆起期と静穏期が交互に訪れたが、それにより、階段状の大地形が形成された。中国山地では階段状の大地形がよく残存している。道後山付近の標高1,200m前後に準平原地形が見られ、これを道後山面という。その北側には標高800m〜400m前後の石見高原があり、南側には同じく標高800m〜400m前後の
吉備高原があるが、いずれも起伏の小さい準平原地形である。双方とも新生代
第三紀後期(約1600万年前)ごろに、当時の海面に近い高さで形成されたと考えられている。これを吉備高原面という。その後、中国山地全体が隆起したが、吉備高原の南側は隆起が活発でなく、侵食を受けて小起伏化が進んだ。これを瀬戸内面という。このように、中国山地は道後山面、吉備高原面、瀬戸内面といった階段状の大地形となっている。
中国山地の花崗岩は、風化してマサ(真砂)と呼ばれる砂粒となる。マサの地盤は非常に不安定で、
土砂崩れを引き起こしやすい。そのため、中国山地は砂防区域が多い。河川に大量に流れたマサは、海へ出ると
砂浜や
砂丘を形成する。
鳥取砂丘や瀬戸内海の白砂青松は、花崗岩を起源とするマサによるものである。
人文史
中国山地における人間活動の痕跡は、
旧石器時代にさかのぼる。
帝釈峡(広島県)の遺跡から、旧石器時代のものと考えられる遺物が出土している。その後の
縄文時代についても、帝釈峡を中心に複数の遺跡が発見されている。
弥生時代の中国山地の遺跡からは、
竪穴式住居跡、
銅剣・
銅鐸などの祭祀具、
高地性集落跡などが発見されている。さらに、
古墳時代になると、津山盆地や三次・庄原盆地に
古墳が作られている。このことは、中国山地においても首長層が出現するだけの社会が形成されていたことを意味する。古墳時代ごろに大陸から
製鉄技術が伝来したとされているが、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を資源として、中国山地でも製鉄が始まっていたのではないかと考えられている。
当初、中国山地の製鉄は
鉄鉱石を原料としていたが、
平安時代ごろから
砂鉄原料へ変わっていった。そして、砂鉄を使用した製鉄は、
たたら製鉄という方法に発展し、
中世から
近世まで続いた。映画『
もののけ姫』は中世の中国山地を舞台としており、たたら製鉄も物語の重要な要素として登場している。
中国山地におけるたたら製鉄は、川底の砂をかごでさらい、砂鉄のみを抽出していた。この川砂さらいは河口付近の砂浜形成の原因となったとも言われ、斐伊川の河口が
出雲大社付近から
宍道湖へ移動したこと、日野川河口付近から
弓ヶ浜が伸びていることなどの原因の一つに、製鉄のための川砂さらいがあったとする見解もある。
平安時代に始まった
山岳仏教は、中国山地の特に山陰側で栄えた。投入堂で知られる
三仏寺や大山山麓に建てられた
大山寺などがその代表である。
鎌倉時代になると、中国山地の各所で
荘園が開発され、関東
武士たちが
新補地頭として移住し、土着化した。その一例が、安芸の
毛利氏であり、
戦国時代には
毛利元就が出て中国地方を統一した。
江戸時代には、中国山地にも新田が開かれ、多くの水田が見られるようになった。それでも江戸期における中国山地の主産業は製鉄であり、次いで高原地形を活かした牛の牧畜だった。
太平洋戦争の終結後、日本では産業の著しい発展が見られたが、中国山地は平地に乏しく、交通も不便であり、近代的な産業の発展は見込めなかった。高度経済成長期ごろから、若年層を中心に人口流出が著しくなり、
廃村となった箇所も多く、
過疎化が中国山地の大きな問題とされた。併せて、高齢者人口の割合が高くなり、
高齢化も問題として浮上してきた。
20世紀末において、日本で最も
過疎化・
高齢化が進んでいた地域の一つである。
その中で、21世紀に入ると
グリーンツーリズムなどの方策で地域の活性化を図ろうとする動きも出てきている。
交通
現状
中国山地における交通は、中国山地を南北に横断して山陰地方と山陽地方を結ぶ連絡路、すなわち
陰陽連絡路が重視されてきた。
歴史
古くは
律令制で定められた美作駅路があった。これは播磨と美作を結ぶ駅路であるが、現存する史料からは、古代における中国地方の交通の状況は、これ以上判明しない。
江戸時代に下ると、出雲街道や銀山街道、尾道街道などが整備されているが、これは山陰地方と山陽地方を結ぶ陰陽連絡路としての性格が強かった。明治時代以降に敷設された
鉄道も、陰陽連絡路の整備が主眼に置かれた。
しかし、昭和期になり、中国地方において最初に整備された高速道路(中国自動車道)は、中国山地を東西に縦貫するルートを通った。これにより、従前、中国山地の住民は、陰陽連絡路(一般道や鉄道)から山陽の主要都市に出てから大阪または九州方面へ向かっていたのが、直接、大阪や九州へ行くことが可能となり、従来の陰陽連絡路、特に鉄道のシェアを奪った。
21世紀前期には、高速道路の陰陽連絡路が整備される予定である。
関連項目
ちゆうこくさんち
ちゆうこくさんち