来歴・人物
三重県
四日市市北浜田にある
浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で
住職を務める父・教開の長男として生まれた。母・こうは、文雄が4歳のときに旅役者の後を追って出奔した。この母への思慕と追憶が、文雄の作品世界には投影されている。
三重県立富田中学校(
三重県立四日市高等学校の前身校のひとつ)を経て、
早稲田大学第一高等学院に入学。本来であれば、父のあとを継いで
僧侶となるため浄土真宗系の上級学校に進学するべきところ、文雄はすでに文学への志望をもっていたため、父や檀家には仏教に関連の深い哲学科に進学するためであると偽って、早稲田高等学院へすすんだ。
高等学院在学中に、上級生であった
尾崎一雄と知り合い、文学面でも大きな感化を受け、さらに尾崎の紹介で
火野葦平らが発行していた
同人誌『街』に加わり、小説「秋」を寄稿した。『街』が廃刊したのちは、尾崎らと同人誌『新正統派』を創刊し、精力的に小説を発表した。
1929年に
早稲田大学文学部国文科を卒業後、生家の寺で僧職に就く。同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が
永井龍男によって評価され彼の依頼で書いた「鮎」が
文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、大学時代の同棲相手の家に住んだ。
戦後は東京・
銀座などを舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となる一方、『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、
瀬戸内寂聴や
吉村昭たちを育てた。
また
ゴルフをこよなく愛した人としても知られ、文壇にゴルフを広めた人でもある。
源氏鶏太、
柴田錬三郎、
阿川弘之といった文士たちが丹羽と共にゴルフを楽しむ為に集ったことも多かったことから、いつしか『丹羽学校』という呼び名も付けられた程である。また、ゴルフ関連の
エッセイなども書いている。また、やはりシングル・プレイヤーであった
石川達三と二人が、「文壇ではずば抜けている」と言われた。
1987年から
1990年にかけて痴呆の症状が表れる。後に娘・本田桂子が
瀬戸内寂聴のすすめで、介護生活を「
論座」に連載、献身的な介護が話題となったが、桂子が先に病に倒れ急逝してしまった。<『父・丹羽文雄介護の日々』
中央公論社、夫による同文庫版のあとがき>
故郷の三重県四日市市の四日市市立図書館には『丹羽文雄記念室』が設けられ、丹羽文雄の文学に触れられるようになっている。
受賞歴
著書
小説
など多数
エッセイ
- ゴルフ談義
- ゴルフ上達法
- エイジ・シュート達成
- 私の小説作法(各、潮出版社)
- わが母、わが友、わが人生(角川書店)
- 人間・舟橋聖一 (新潮社)
- ひと我を非情の作家と呼ぶ (光文社、のち光文社文庫)
- をりふしの風景(学芸書林)
- 絆(学芸書林 1990年) - 最後の著書
ほか多数
関連項目
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)