第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、
1914年から
1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘は
アフリカ、
中東、
東アジア、
太平洋、
大西洋、
インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。
第二次世界大戦が勃発する以前は
大戦争(The Great War)、
諸国民の戦争(War of the Nations)、
欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれる。当初には
諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった。
概要
各国は
ドイツ・オーストリア・
オスマントルコ・
ブルガリア王国の
中央同盟国(同盟国とも称する)と、
三国協商を形成していた
イギリス・
フランス・
ロシアを中心とする
連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、
日本、
イタリア、
アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に(「
クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。大戦初期の戦闘は、昔ながらの歩兵・騎馬戦が主流であった。しかし、その後採用された
機関銃の組織的運用等により、防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために
塹壕を掘りながら陣地を進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着した。また、この大戦で特筆すべき点は、これまでにない武器が投入されたことにある。毒ガスの使用や、
戦車及び航空機が戦場に投入され、主要交戦国は互いに開発・改良を競い合ったこともあり、戦争は長期化の一途を辿ることになる。この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する
国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。
国力に劣る中央同盟国は長期戦により経済が停滞した。
1918年に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、11月にドイツの
キール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝
ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された(史上一位は
太平天国の乱)。またこの戦争によって当時流行していた
スペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。
軍事的側面
19世紀後半以降、
鉄道が軍事的に重要な意味を持つようになった。鉄道網が整備された国では、平時には徴兵制度を施行して国民に訓練を施し、戦時には鉄道を使って国民を総動員することで、短期間のうちに国境線に大部隊を集結させることが可能となった。総動員下令のタイミングの遅れは戦争の敗北に直結しかねないため、列強の参謀本部は鉄道ダイヤまでを含む綿密な戦争計画を研究した。
戦術的には鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。
タンネンベルクの戦いでは、
東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道を効果的に活用することで各個撃破に成功した。
さらに、19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長い
ライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、
ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた
騎兵突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入された
飛行機、
戦車などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても
歩兵だった。
このような防御側優位の状況の中、
西部戦線では
塹壕戦が生起した。
スイス国境から
イギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や
機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて
毒ガス兵器が使われた。開戦時にイギリス海軍大臣だった
ウィンストン・チャーチルは、「第一次世界大戦以降、戦場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評した。また、職業軍人に限らない膨大な死者が発生したことと戦時統制による一般市民レベルへの生活の影響の増大によって、戦争を単なる政治の一手法として捉える事が少なくなったことがあげられる。
背景
オーストリア=ハンガリー帝国と東方問題
1867年、
アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。
ハプスブルク家の家長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、ハンガリー(トランスライタニア)は軍事・外交・財政を除いて非常に広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。
二重帝国の最大の関心は
東方問題にあった。帝国各地で台頭する
スラブ人の民族主義運動は、二重帝国の政府を主導するドイツ人とマジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われた
バルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家である
セルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族の動きを非常に警戒していた。一方で
セルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。
ドイツ帝国とシュリーフェン・プラン
ドイツ参謀総長
アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段として
シュリーフェン・プランを立案した。これは広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国
ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩くという計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、またベルギーの中立侵犯という国際的汚名や
イギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。
イギリスの対ドイツ政策
イギリスは伝統的に
ブリテン島対岸の
低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーの独立と中立を保証していた。ベルギーの中立を守るためには、フランスであれドイツであれ、先にベルギーの中立を侵犯した側の敵側に立って参戦すると表明していた。
だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って
建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して
英仏協商を締結し、他にも1902年に
日英同盟を、1907年に
英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。
開戦
サラエヴォ事件とロシア総動員
(右端)]]
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝
フランツ・ヨーゼフ1世の世継、
フランツ・フェルディナント大公が、
ボスニアの首都、
サラエヴォでセルビア人民族主義者
ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆる
オーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。
ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、軍部は戦争準備を主張し皇帝
ニコライ2世へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝
ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。
シュリーフェン・プランの発動とイギリス参戦
ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長
小モルトケはかねてからの
シュリーフェン・プランに基づいて8月1日総動員を下令し、同時に
ベルギーに対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。
ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定したプラン17と称される戦争計画を発動した。8月4日、首相ヴィヴィアンは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけた。議案は全会一致で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。
イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの英国遠征軍 (BEF) の派遣を決定した。また、1867年に自治領となっていた
カナダも、宗主国イギリスに従い参戦した。同様に
オーストラリアや
ニュージーランドも参戦することとなる。
各国の対応
日本は
日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。
内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、
御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した為、23日宣戦を布告した。
イタリアは1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、オーストリアとの領土問題からイギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。
オスマントルコは数度にわたる
露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。
北欧諸国は大戦中一貫して
中立を貫いた。1914年12月18日
スウェーデン国王
グスタフ5世は、
デンマーク、
ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただし
ロシア革命後の
フィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
アメリカ合衆国は当時
モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国において
メキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも
孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後に
ルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、
ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。
経過
序盤戦・ロマンティシズムから塹壕戦へ
1914年の開戦時、
普仏戦争以来ヨーロッパで40年振りの戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿で描写され、両陣営の国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、少数の戦闘からなる短く、敵国の首都へ入城して終わり、「クリスマスまでには」凱旋して普段の生活に戻れるだろう、と多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。
しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリスの
ホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集による
キッチナー陸軍を構想した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。
オーストリア軍の緒戦での混乱
中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、
シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模な再移動を行わざるを得なくなり、各地で鉄道輸送のための混乱が生じた。
オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、以後ロシア戦線やイタリア戦線などの多正面作戦を強いられることになる。
シュリーフェン・プランの頓挫
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、
リエージュ東方で国境を突破しベルギーと
ルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍は
リエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギー軍は鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。
イギリスは陸軍大臣にキッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した第1軍と第2軍をもって
東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いて
パウル・フォン・ヒンデンブルクと
エーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、
タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。
9月、ドイツ軍は
パリ東方の
マルヌ川まで迫ったものの、
マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、フランス軍は
タクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。
植民地での戦闘
アフリカでは、8月8日、英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在の
トーゴ)に侵入した。8月10日には
ドイツ領南西アフリカのドイツ軍部隊がイギリス領南アフリカ(現在の
南アフリカ共和国)を攻撃した。このとき南アフリカの
ボーア人がドイツ軍の攻撃に呼応して反乱を起こしている。
カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、最終的に中立国であった
スペイン領の
赤道ギニアに退避し同地で武装解除した。
ドイツ領東アフリカでは
パウル・フォン・レットウ=フォルベックが率いる部隊が巧妙なゲリラ戦法で大戦終結まで交戦を続けた。太平洋では、8月30日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現在の
サモア)を占領した。また9月11日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在の
ニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に連合国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。11月7日には、ドイツの中国での拠点
青島を日本・イギリス連合軍が攻略した(
青島の戦い)。
塹壕戦の始まり
第一次
マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に
塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。西部戦線での戦闘は、1914年のクリスマスを過ぎても終わらなかった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続けられた。数百万の兵士が塹壕に貼りつき、いずれの側も敵軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年の
ヴェルダンの戦い、そして1916年夏の
ソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春の
ニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。
中東戦線
ガリポリ上陸作戦
HMS E14とE.ボイル艦長]]
1915年]]
オスマントルコは戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。トルコの背中を押したのはドイツの
巡洋戦艦ゲーベンと
軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れて
イスタンブルに逃げ込むことに成功した(
ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたトルコはこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に、トルコは中央同盟国側に立って参戦した。
1915年2月、
ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のトルコ軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、トルコ軍は粘り強く抵抗し、3月18日にはトルコ軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。4月25日、連合軍はガリポリ半島へ上陸したが、後にトルコ革命の指導者となった
ムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。
カフカース戦線
ロシア軍はカフカースに精鋭部隊を置いていた。トルコ軍最高司令官
エンヴェル・パシャは野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは1914年12月にカフカースのロシア軍を攻撃したが、山岳地帯のロシア陣地に対する正面攻撃を強行して兵力の大半を失った。
1915年秋、新しいロシア軍前線指揮官ニコライ・ニコラーエヴィチ大公が戦線を再構築し、1916年にトルコ軍を現在の
アルメニアの大部分から駆逐した。トルコ政府は
アナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、
アルメニア人虐殺問題を引き起こした。
ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。もし攻勢が予定通り進められたなら、かなりの確率でトルコは1917年夏に敗北していただろう。しかし、ロシア革命のためにニコライは解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。
アラブ反乱
イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援して
アラブ反乱を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのがアラビアのロレンスこと
トーマス・エドワード・ロレンスだった。メソポタミアでは1917年3月イギリス軍が
バグダードを攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー率いるエジプト遠征軍が1917年12月に
エルサレムを占領した。1918年10月、イギリス軍とアラブ軍は
ダマスカスに入城、アラブからトルコ勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。
海の戦い
連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で
大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス
本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ
北海への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけて
ユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。
1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、
ホルヴェーク首相を説き伏せて、
Uボートによる
無制限潜水艦作戦を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり500,000トンまで達し、4月に860,000トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した
護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。
イタリア戦線
イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと
三国同盟を締結していたが、いわゆる「
未回収のイタリア」と呼ばれた
南チロル、
イストリア、
ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。
伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりの
ルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいた
イタリア陸軍だったが、
第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫や
ブルシーロフ攻勢の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破って
ゴリツィアを占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地を占領した。
しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は
東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に突撃歩兵を含む援軍を派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日にドイツ軍指揮官オットー・フォン・ベロウはロシアの
ブルシーロフ攻勢を模倣した
浸透戦術を用いて、イタリア陸軍に大打撃を与えた(
カポレットの戦い)。これにより12マイル後方のタリアメント川に下がったイタリア軍は、新たな指揮官
アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、勢い付いたオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで破って進軍を押しとどめた。ディアズは
ヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。
カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアの
ラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。
東部戦線
ロシアの撤退
西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領
ガリツィアおよびドイツ領
東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンでは
タンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。ロシアの遅れた経済と軍事組織では、ドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日に
ワルシャワを占領、ロシア軍は
ポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。
ルーマニア軍の大敗
1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいて
浸透戦術を用いた
ブルシーロフ攻勢を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍の攻勢は独墺軍によって短期間のうちに撃破され、ブルガリア軍の反攻で主要拠点を喪失する大敗を喫した。初めはルーマニア軍を懸命に支援していたロシア軍も最終的にはモルダビアの防衛に徹し、12月6日に
ブカレストが中央同盟軍によって攻め落とされた。
セルビアの敗北とテッサロニキ戦線の開拓
セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、
ブルガリアが中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍が
ドナウ川を渡河し
ベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王は
アルバニアと
ギリシアへの逃亡を余儀なくされた。
セルビア軍の敗北の末、英仏軍は
テッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコールフ島を占拠して、新たに戦線を開げた。これはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月〜6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。
1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であった
フェルディナンド1世は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。
ロシア革命
1917年3月、首都ペトログラード(現在の
サンクトペテルブルク)で起こった
デモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派
臨時政府が成立した。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。
ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼
ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した。
12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した、初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していた
ウクライナ国民共和国が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全
ウクライナを奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日に
ブレスト=リトフスク条約に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、
バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。
シベリア出兵
ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへ出兵した。連合軍は
バレンツ海に面した
アルハンゲリスクと、太平洋側の
ウラジオストクに上陸した。出兵は第一次世界大戦の終結後も継続され、1925年の日本軍の北
樺太撤収を最後に終了した。
終盤戦
アメリカ参戦
大統領の演説
ドイツのとの外交関係断絶を発表している]]
の被害を受けたイギリス兵
フランダース 1918年]]
アメリカ合衆国は長い間
モンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが
無制限潜水艦作戦を再開したこと、さらに
ツィンメルマン電報事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。さらに大統領
ウッドロウ・ウィルソンは連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。
アメリカ陸軍と州兵はメキシコの「山賊」
パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。アメリカ海軍は連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍指揮官
ジョン・パーシング将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。
ドイツ軍の春季攻勢
ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。皮肉なことではあるが、
ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。
ドイツ参謀次長
エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫して
ドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、
毒ガスの大規模な使用が図られた。
1918年3月21日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門の
クルップ製超大型
列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。
連合軍の最終攻勢
ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官として
フェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュによる巧みな戦線の再構築によってルーデンドルフが意図していた突破の可能性は消滅し、従来と同様の消耗戦の様相を呈してきた。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までには毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。
フォシュはドイツ軍の攻勢によって
マルヌ付近に形成された突起部に対する攻撃を企画し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘では全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になると
ジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。
戦争終結
ドイツ革命
ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。
反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督
ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任した。
しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特に
マティアス・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような
社会主義革命の危険性を減らすと信じた。
社会民主党の
マックス・フォン・バーデン公爵が責任者になり、和平交渉が彼の所掌下に置かれた。フォン・バーデンは立憲君主制か帝政の完全な廃止かの間で迷っていたが、1918年11月9日に
フィリップ・シャイデマンが
帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツを
共和国であると宣言すると、フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表した。帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これが
ワイマール共和国である。
休戦協定
中央同盟国の中で最初に
休戦協定に署名したのはブルガリアだった(1918年9月29日)。トルコは10月30日に降伏した。オーストリアとの休戦は11月4日午後3時に発効した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルグ体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。
ドイツでは11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌日ヴィルヘルム2世は
オランダへ亡命した。11月11日にパリ郊外
コンピエーニュの森に置かれた
食堂車2419Dの車内において、ドイツは連合軍との休戦協定に署名し、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。公式には戦争は
ヴェルサイユ条約の締結により終わった。
日本の参戦
戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍
捕虜を丁重に扱った。青島で捕獲した捕虜約4,700名は
徳島県板東など12か所の収容所に送られたが、特に板東捕虜収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理や
ビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。
ベートーベンの「
交響曲第9番」はこのときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。
影響
犠牲者
古い思想の戦争のまま始められた第一次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結果をもって終了した。長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していた
スペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。
これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの
賠償金によって取り戻すことが普通だったが、第一次世界大戦による損害はもはや敗戦国に負わせられるようなものではなかった。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎悪し、敗戦国に過酷な条件を突きつけることとなった。
ヴェルサイユ体制
国際平和への努力
第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がった。戦後の国際関係においては平和協調が図られた。1920年にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である
国際連盟が設立され、1925年には
ロカルノ条約、1928年には主要国間で
不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。
しかしながら、これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、
世界恐慌による経済危機により、
共産主義がさらに勢力を得て、それに伴い
イタリアでは
ファシズムが、
ドイツでは
ナチズムが台頭する。戦争終結のわずか20年後、人類史上類のない被害をもたらす世界大戦が再び繰り返されるのである。
年表
。]]
が第一次世界大戦における犠牲の象徴とされている]]
- 1914年
- 1915年
- 1916年
- 1917年
- 1918年
- 1919年
-
1月28日 - パリ講和会議開会。
-
6月28日 - ヴェルサイユ条約調印。第一次世界大戦終結。
- 9月19日 - サンジェルマン条約(対オーストリア講和条約)調印。
- 11月27日 - ヌイイ条約(対ブルガリア講和条約)調印。
- 1920年
-
1月10日 - ヴェルサイユ条約発効。国際連盟発足。
- 6月4日 - トリアノン条約(対ハンガリー講和条約)調印。
- 8月21日 - セーヴル条約(対トルコ講和条約)調印。トルコ議会、批准を否決。
第一次世界大戦を題材とした作品
小説
映画
脚注
参考文献
-
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- ジェームズ・ジョル(池田清訳)『ヨーロッパ100年史 1』(みすず書房、1975年)ISBN 4622016990
-
バーバラ・タックマン(山室まりや訳) 『八月の砲声 上・下』(筑摩書房、2004年)ISBN 4480088679
-
リデル・ハート(上村達雄訳)『第一次世界大戦 上・下』(中央公論新社、2001年)ISBN 4120031004
-
A・J・P・テイラー(倉田稔訳)『目で見る戦史 第一次世界大戦』(新評論、1980年)ISBN 4794823215
- ピエール・ルヌーヴァン(西海太郎編訳)『ドイツ軍敗れたり』(白水社、1987年)ISBN 4560029466
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-
江口朴郎『帝国主義の時代』(岩波書店、1969)
- 中山治一『新書西洋史7 帝国主義の展開』(講談社、1973年)ISBN 4061157175
- 義井博『カイザーの世界政策と第一次世界大戦』(清水書院、1984年)ISBN 4389440489
- 関榮次『日英同盟 日本外交の栄光と凋落』(学習研究社、2003年)ISBN 4054020194
- 片岡覚太郎, C.W. ニコル『日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(河出書房新社、2001年)ISBN 4309223729
- 斎藤聖二『日独青島戦争 秘 大正三年日独戦史 別巻2』(ゆまに書房、2001年)ISBN 487802058
- ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、小林章夫監訳)『20世紀の歴史13 第1次世界大戦・上 政治家と将軍の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495133
- ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、深田甫監訳)『20世紀の歴史14 第1次世界大戦・下 兵士と市民の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495141
- 毎日ムック編集部『毎日ムック20世紀の記憶 第1次世界大戦 1914-1919』(毎日新聞社、1999年)ISBN 4620791156
- 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・上 1914-16 開戦と塹壕戦』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050233
- 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050516
関連項目
外部リンク
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