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浅草寺

3年(1820年))]] 浅草寺(せんそうじ)は東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院である。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

歴史

寺伝によると推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがありこの頃に寺観が整ったものと思われる。
浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見である。近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた。
江戸時代後半には境内に「仲見世」の前身である商店や芝居小屋が設けられ、大道芸人が集まるといった庶民の娯楽センターの役割も果たしていた。そうした傾向は近代以降も引き継がれ浅草は庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治初期には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年3月10日東京大空襲で旧国宝観音堂五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし地元商店街のPR活動によって徐々にではあるが過去の賑わいを取り戻しつつあり下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は善男善女で賑わっている。ただし夜間(19時以降)における仲見世や六区の閑散さは過去の殷賑ぶりとは隔世の感がある。

境内

作)]]
雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業寄贈の大提灯がある。年に一度三社祭台風到来の時だけ提灯が畳まれるが、平成20年(2008年)の三社祭は宮出しが無いため畳まれない見込みがある。
宝蔵門
雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に仁王金剛力士)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。
耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。
本堂
本尊の観音像を祀るため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。
内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。毎年12月13日に開扉法要が行われるほか特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像を安置する。
五重塔
再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側の寛永度三重塔付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。現在、その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれている。
二天門(重文)
本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。
浅草神社(重文)
本堂の東側にある。浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。詳細は浅草神社を参照。
伝法院
宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。一般には公開していない。
このほか境内には多くの仏像、記念碑等がある。平成17年(2005年)には秋本治漫画こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が1億3000万を突破したことを記念する石碑が浅草神社に建立された。これは同作品に浅草神社が登場した縁によるものである。

先祖供養

浅草寺では先祖供養も出来る。
霊験あらたかと言われる浅草寺では毎日、家の宗旨と無関係に先祖供養を受け付けている。
毎日6時(10月から3月は6時半)、10時、14時から先祖供養、厄よけ、等の祈祷が行われる。
特定の個人の名前で受け付ける他、○○家先祖代々、という形でも受け付ける。
志納金は3000円から。

おもな年中行事

  • 針供養2月8日淡島堂で行われる。
  • 金龍の舞 - 3月18日の観音示現会(じげんえ)、10月18日の菊供養の際に披露される。
  • 三社祭5月1718日頃) - 浅草神社(三社権現)の祭礼であり、東京を代表する祭りとして有名。豪壮な神輿渡御と、「びんざさら舞」で知られる。
  • 四万六千日(7月910日) - この日に参詣すると4万6000日分のご利益があるとされる。ほおずきが行われる。
  • 万霊燈籠供養会(8月15日) - お盆の先祖供養のためにも営まれている。1体3000円でお願いすることができる。
  • 歳の市(12月1719日) - 毎月18日は観音菩薩の縁日であるが、特に年末の縁日を歳の市と称している。羽子板が行われる。

文化財

  • 二天門(重文)
  • 法華経(国宝)
昭和26年(1951年)指定。平安時代11世紀頃の装飾経。別名「浅草寺経」。金銀泥で装飾した「装飾経」の代表作で『法華経』8巻に『無量義経』『観普賢経』が附属した全10巻が現存し表紙、軸、巻き紐まで含めて制作当初のままに残されている。東京国立博物館に寄託。
  • 元版一切経(重文)
中国・元時代(明治初期、鶴岡八幡宮より伝来)
その他、江戸時代の絵馬が多数保存されており、中には歌川国芳のような著名絵師の作品もある。

浅草寺の発掘

考古学上の遺跡としての浅草寺

古代から中世・近世(江戸時代)と長い歴史を有す浅草寺は、考古学上重要な歴史資料をその地下に包含した浅草寺遺跡でもある。戦災で焼失した五重塔再建に先立ち昭和45年(1970年)には再建地点の発掘調査が行われ、学術的に貴重な成果が得られた。特にこの調査は葛飾区葛西城跡の発掘調査や千代田区都立一橋高校内の発掘調査と並び、それまでの日本考古学では研究対象とされていなかった中世や近世(江戸時代)の遺跡調査の嚆矢となり特に近世考古学の出発点となる学史上の記念碑的調査となった。その後も台東区教育委員会による浅草寺境内及び周辺での発掘調査が地道に続けられ、従来の文献資料研究が描いてきた浅草寺及び浅草の歴史像の大幅な修正を迫る発見が相次いでいる。
関連文献
加藤晋平1971「浅草寺私考」『物質文化』18
小俣悟1996「台東区の遺跡」『武蔵野』74巻2号。
小俣悟2001「加藤先生と台東区の発掘調査」『ツンドラから熱帯まで:加藤晋平先生古稀記念考古学論集』227〜228。
小俣悟2000「浅草寺(浅草寺遺跡)」『東京の中世瓦』第7回中世瓦研究会資料集、中世瓦研究会。
台東区教育委員会・台東区文化財調査会による浅草寺境内及び周辺地での発掘調査報告書
台東区文化財調査会編1994『浅草松清町遺跡調査報告書』
台東区文化財調査会編1999『浅草寺西遺跡』 台東区埋蔵文化財発掘調査報告書第6集。
台東区文化財調査会編2001『浅草寺遺跡:浅草寺病院地点』台東区埋蔵文化財発掘調査報告書13集。
台東区文化財調査会編2002『雷門遺跡』台東区埋蔵文化財発掘調査報告書18集。
※既刊の発掘調査報告書は、台東区内及び都内各公立図書館で自由に閲覧できる。
問合せ先:台東区教育委員会生涯学習課 文化財担当
所在地:台東区生涯学習センター内、東京都台東区西浅草三丁目25番16号
電話:(03)5246-5852(浅草寺の電話番号ではない) -->
関連リンク
台東区教育委員会では、浅草寺遺跡を始めとする区内の遺跡を紹介した少冊子『台東区の遺跡』を年度毎に作成、無償配布している。
台東区の遺跡 http://www.taitocity.net/culture/bunkazai/h10p18.html

関連項目

外部リンク


出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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