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川崎フロンターレ

川崎フロンターレ(かわさき - 、Kawasaki Frontale)は、日本神奈川県川崎市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。
1955年富士通サッカー部として設立。1997年にJリーグへ準会員加盟し、1999年に同正式加盟。ホームタウン神奈川県川崎市。ホームスタジアムは中原区等々力陸上競技場。練習は同市内麻生区川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用する。
チーム名の「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表現したものである。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズXリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボール富士通レッドウェーブWリーグ・1985年創部)、富士通バレーボール部V・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としている。

歴史

前身(1955年 - 1996年)

富士通サッカー部は中原区の国鉄(現JR東日本南武線武蔵中原駅前にある川崎工場の従業員を中心に設立され、1967年関東社会人リーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年日本サッカーリーグ(JSL)の2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格した。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。
Jリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのまま旧JFLに参加した。1988-1995年には元中国代表の沈祥福2002年W杯中国代表コーチ、2004年アテネ五輪予選中国代表監督)が選手・コーチとして活躍し、他チームのプロ化が進むJFLで中位の維持に貢献した。外国人選手を除くと大学のサッカー部からの選手補強が多く、選手は富士通所属の社員選手となってアマチュア契約でプレーをしていた。
等々力や大和などで主催試合を行い、特にホームタウンを決めずに活動を続ける富士通を母体としたJリーグクラブ創設の動きは水面下で存在し、富士通の工場がある栃木県小山市などでは誘致の動きも噂されたが、結局富士通本社は自らの手による川崎市でのJリーグ挑戦を選択した。1996年シーズンでの「富士通川崎サッカー部」への改称に続いて、10月にJリーグ参入宣言を行い、11月21日に運営会社「富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立。チームを法人化し、大型補強を開始すると共に、ブラジルの名門サッカークラブ・グレミオとの業務提携を行う事も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。また、この年の第76回天皇杯では3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグのクラブを倒した。

1997年 - 1998年(JFL)

1997年には現在のチーム名となり、Jリーグ準会員と認められた。1976年のJSL1部昇格の中心だった小浜が常務として事実上の責任者となり、富士通からの豊富な資金力を利用して、名古屋グランパスエイト中西哲生ベルマーレ平塚ベッチーニョ等、多くの選手をJリーグの各クラブから獲得し、富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰小松崎保・源平貴久などの富士通社員選手を控えに回して、1年でのJリーグ昇格を目指した。リーグの上位グループに着け、後半戦には野口幸司長谷部茂利を追加補強し昇格を狙いに行ったが、同9月の上位チームとの直接対決でコンサドーレ札幌(5月に続きバルデスハットトリック)・東京ガスサッカー部アマラオの4ゴール)・本田技研サッカー部に3連敗。斉藤和夫監督が辞任するなど終盤でチームが傾き、最終成績で札幌・東京ガスに次ぐ3位に留まり、わずか勝ち点1の差でJリーグ昇格を逃した。
捲土重来を期した1998年シーズンには何人かの元Jリーガーが退団する一方、鹿島アントラーズから鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。グレミオ留学から復帰した佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英久野智昭がレギュラーを獲得し、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、JFL準優勝となり、J1参入決定戦に参戦した。しかし、アウェイでの一発勝負となった1回戦のアビスパ福岡戦(東平尾公園博多の森球技場)では、後半ロスタイムに同点とされると、延長前半13分にVゴールにより逆転負けを喫し、再びJ1参入を逃すことになった。(博多の森の悲劇

1999年 - 2000年

Jリーグディビジョン2 (J2) で迎える事になった1999年岩本輝雄の補強が注目されたが、前年の昇格失敗でも契約を延長したベット監督のチームは序盤で出遅れた。しかし、メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得し、そのチームの主将だった八重樫から就任を要請された松本育夫新監督が4月の第6節から指揮を執ると一気に盛り返し、新加入のティンガ柏レイソルから途中補強したDF森川拓巳などが勝利に貢献した。
松本監督の構想から外れた岩本などの出場機会が減ることもあったが、チームは順調に勝ち点を伸ばし、11月5日サガン鳥栖戦(等々力)で浦田尚希が延長Vゴールを決めて2-1と勝利し、J2の2位以内を確定して悲願のJ1昇格を果たした(11月8日にはFC東京大宮アルディージャに敗れ、他力でのJ2優勝も決定)。開幕当初の岩本に代わり、松本新監督により再び主将に任命された中西によるインターネット上の日記は、前年のJ1参入決定戦を取り上げた金子達仁のルポルタージュと合わせて『魂の叫び』として出版され、引退後の中西がメディアで活躍する契機となった。また、この年には初のマスコットとしてふろん太が発表され、5月には練習場が東京都稲城市にある富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させるなど行政の後押しも加わった。
ところが、J1での活躍が期待された2000年シーズンは惨憺たる結果となった。松本監督は社長となり、後任としてブラジル人ヘッドコーチのゼッカが新監督に就任、現有戦力の大幅な見直し(岩本のヴェルディ川崎移籍など)と有力選手の大量獲得(鹿島からの鈴木隆行マジーニョ・鬼木達(再移籍)、パラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表森山泰行等)を行ったが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜との対立が表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜副社長中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。
また、外国人の入れ替えで放出(レンタル移籍)となったツゥットを獲得したFC東京がJ1で躍進した事も、サポーターから生じた厳しい批判の一因となった。チーム再建を目指した二度にわたる監督の交代なども逆に混乱を増幅させ、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となって、わずか1年でJ2へ降格することになった(Jリーグで入れ替え戦始まって以来、初の1シーズン降格チームとなった)。この年の川崎の失敗は大量補強による機能不全の悪例として、その後のJ1昇格クラブへの反面教師となった。
また、この年限りで東京都調布市東京スタジアム(現在の味の素スタジアム)への本拠地移転を表明していたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との「川崎ダービー」がようやく実現したものの、思ったほどの盛り上がりは見られなかった。
しかし、ヤマザキナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、2年目のFW我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。ファーストステージ最終節では当時首位だったセレッソ大阪を浦田の延長Vゴールにより2-1で下して眼前での優勝を阻止した。1stステージでは関西4チームに負けなかったなど、明るいニュースも少しはあった。
そして、このシーズン後に再びチーム改革が行われ、松本社長・小浜副社長のほか、この年の主将だった奥野僚右、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを去った。

2001年 - 2003年

2001年には、チーム再生プロジェクトが始動し、新監督・堀井美晴のもと、前年に札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンサンパウロFCから完全移籍により獲得して1年でのJ1返り咲きを狙った。しかし、前半戦で黒星を重ねて昇格争いから事実上脱落すると、シーズン後半の7月からは石崎信弘新監督の就任、エメルソンの浦和レッドダイヤモンズ移籍で再出発を強いられた。その中で、新人DFの伊藤宏樹がJ2リーグ最終戦の出場停止以外、全ての公式戦にフル出場したのは好材料だった。そしてこの年の11月、約半数の選手を戦力外とする異例の人事を断行したが、その後に行われた第81回天皇杯ではベスト4の成績を収めた。その際に出場したメンバーの半数以上が戦力外通告を受けていたため「リストラ選手の活躍」と話題になった。なお、最終節のモンテディオ山形戦では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇の延長Vゴールにより1-0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した。
一方、クラブでは経営陣のトップが一新された。富士通からの支援資金が削減される中、新社長の武田信平をはじめとした首脳陣は長期的視野に立った運営に着手、2002年には運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社 川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れを実施した。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブの統合などによりクラブとの関係を強化していった。
2002年、ベンチーニョマルキーニョマーロンアレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤にはヴィッセル神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、岡山一成をDFとして獲得し守備力を強化。石崎監督のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、終盤で昇格争いから脱落した。
2003年はブラジルのパルメイラスから獲得したジュニーニョが我那覇和樹とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。またかつての強敵だった元札幌のバルデスを獲得したが、既に高齢だった事もあり十分な活躍は出来ず、シーズン途中で退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分トリニータから石崎監督のためにと移籍し再びJ2でプレーした山根巌、新人ながら主に途中交代要員として全試合でベンチ入りした中村憲剛などのMFが多くの試合に出場した。だが、シーズンを通じての引き分けの多さが響き、最終的にはまたしても「勝ち点1」差での3位に終わり、石崎監督はこの年限りで辞任した。しかし天皇杯ではJ1クラブを次々と倒し、2002年はベスト8、2003年もベスト16とその実力を示し、「カップ戦に強いフロンターレ」を印象付けた。

2004年

石崎の後任監督として鹿島でコーチを務めていた関塚隆を招聘、また同じく鹿島で長年プレーしたベテランDF相馬直樹を獲得。さらにアルビレックス新潟から2年連続でJ2リーグ得点王に輝いたマルクスを補強し、戦力に厚みを増したこのシーズンは、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。同年9月26日那珂市笠松運動公園陸上競技場での水戸ホーリーホック戦に2-1で勝利し、残り8試合というスピード記録で5年ぶりのJ1昇格を決定した。さらに同年10月2日に地元で開かれた横浜FC戦にも4-0で完勝し、1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を確定。これも残り7試合というスピード記録だった。また同シーズンはジュニーニョがハイペースでゴールを量産、最終的には39試合出場で37得点を記録してJ2得点王に輝いた。
その後は「勝ち点100、得点100」を目標に残りゲームを戦ったが、11月23日のホームゲーム最終戦となるヴァンフォーレ甲府戦での3-0の勝利でこれを達成し、リーグ最終戦となる11月26日の鳥栖戦(鳥栖)も3-0で勝利して、最終勝ち点105、得点104の「ダブル・トリプル」でシーズンを締めくくった。また、この年の天皇杯では4回戦で神戸を3-2で降し、5回戦では鹿島に敗れベスト16に終わったものの、一時は2点差のリードを奪うなどJ1チームを相手に互角の勝負を展開した。

2005年

J1昇格を機に、地域密着にさらに力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。
2000年の反省を踏まえ、前年J2リーグを圧倒的な力で勝ち抜いた現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録し、鹿島に初勝利するなどの快進撃を見せた。その間には、地元川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に招集され、一躍注目を浴びた。最終戦でガンバ大阪に敗れ(この勝利でガンバは逆転優勝を決めた)、最終成績は8位。福家三男GMがシーズン当初に掲げた目標の5位とは勝ち点差3、賞金獲得圏の7位以内には得失点差1でわずかに及ばなかったが、最低条件の「J1残留」を裕にクリアする成績は翌シーズンへの弾みとなった。その後天皇杯でも2年ぶりにベスト8へ進出するなど、昇格初年度としては健闘が目立った一年だった。

2006年

アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退し手薄となった左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇のハットトリックなどにより6-0、第2節の京都パープルサンガ戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7-2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切った。
3月末には所属選手の不祥事が発覚するトラブルがあったもののその後も好調をキープし、ドイツW杯前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中に攻撃の要の1人だったマルクスが東京Vに移籍したが、その補充としてMFマギヌンを獲得し、引き続き厚みのある攻撃力を武器に優勝争いを繰り広げた。ドイツW杯終了後にイビチャ・オシム監督が就任した日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が初招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。J1昇格2年目とは思えない結果を残した。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2ケタ得点を挙げるなど、チーム合計84ゴール(リーグ1位)という圧倒的な攻撃力を全国に知らしめた。中村と谷口は同年のJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点を叩き出した我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。
昨季の天皇杯で優勝し既にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により2007年度のACLへの出場権を獲得した(天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため)。

2007年

シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1リーグ開幕戦(等々力)で鹿島アントラーズを下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水エスパルスに勝利、続く4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和レッズのホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。
ところが、浦和戦でシーズン初ゴールを決めた我那覇和樹が、試合後の23日に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の第12節・大分トリニータ戦から復帰したが、その後も精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になった(「我那覇ドーピング問題」で詳述)。
勢いに冷水を浴びせられた川崎は、以後のリーグ戦で不安定な戦いを強いられた。多摩川クラシコとして共同キャンペーンで盛り上げたりしたFC東京戦の2試合(5月6日、第10節(等々力)で5-2、10月28日、第30節(味の素スタジアム)で7-0)など大量点で圧勝する試合と、守備が耐えきれずに接戦で勝ちきれない試合が錯綜した。名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12ゴールと飛躍、22ゴールのジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝いたが、我那覇のゴール相当分が減少しながら66得点でリーグ2位の攻撃力と、リーグ11位の48失点のアンバランスが解消できず、8月から9月の不調でリーグ優勝から遠ざかった川崎は前年を下回る5位でシーズンを終えた。
一方、初出場のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグでは順調に勝ち点を重ねた。5月11日の第5節、等々力でのアレマ・マラン戦に3-0で勝利し、F組1位でJリーグ勢初のグループリーグ突破を決めた。しかし、9月19日と26日の準々決勝ではセパハンにPK戦で敗退した(国際試合の項も参照)。 また、この合間に行われた9月23日のJ1リーグ第26節・柏レイソル戦では、アウェー・イスファハンでのセパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0-4と大敗した。イランからの帰国時にUAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していたJリーグの鬼武健二チェアマンはベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為と怒り、この批判は選手起用への越権介入だと反発した川崎サポーターとの溝は我那覇問題もあってさらに深まった。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。
J1リーグ優勝が難しくなり、ACLチャンピオンズリーグでも敗退が決まると、ナビスコ杯と天皇杯が残された。準々決勝から登場したナビスコ杯ではヴァンフォーレ甲府と横浜F・マリノスを破って7年ぶりに決勝に進んだが、11月3日の決勝(国立)ではガンバ大阪の安田理大にゴールを奪われて0-1で敗れた。その直後から始まった天皇杯でも6年ぶりのベスト4進出を果たしたものの、12月29日の準決勝で鹿島アントラーズに0-1で敗れ、シーズンの大きな目標だった「タイトル獲得」はあと一歩でならなかった。
川崎の選手は日本代表でも注目された。中村憲剛はオシム監督から厳しい指摘をされながらも起用され続け、7月のAFCアジアカップでは準決勝まで5試合連続で先発起用された。また、川島永嗣もこの大会に招集され、出場はなかったが、チームを支えた。また、強化合宿に森勇介黒津勝が初招集されたが、正式メンバーに選ばれての公式戦出場はならなかった。また、鄭大世は本人が強く希望していたサッカー朝鮮民主主義人民共和国代表(北朝鮮代表)に初選出され、6月の東アジアサッカー選手権2008予選大会では3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。

地域密着

富士通川崎サッカー部は1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことを大テーマに掲げた。選手には「プロだから」という特別な意識・扱いをせず、地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロースは毎年恒例の奉仕活動として定着しており、社会的な評価も高い。なお、フロンターレでは地域密着活動への参加については選手との契約条件に盛り込まれていると言われている。
一方、ホームタウンである川崎市も、「プロスポーツの根付かない街」の汚名を返上し、市民意識の一体化を進める目的で、このようなクラブの働きかけに呼応すべく2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。
2006年はクラブ創立10周年に当たり、記念行事を通じてより一層の地域密着を図ろうとしている。その一つとして、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布し、川崎市民全体へのアピールと地元からの支援体制強化を図っている。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。
また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。 川崎競馬場2006年11月2日JBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた。(地方競馬全国協会ニュースリリース川崎競馬場ニュースリリース

チーム成績・歴代監督

川崎フロンターレ

  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。

富士通サッカー部

  • 1996年は「富士通川崎」。
  • 「勝」「敗」内の(A/B)は勝敗のうちの(延長試合数/PK試合数)。「-」はそのシーズンに適用規定が無かった方式。延長・PKともに適用されなかったシーズンは( )を省略。

公式戦対戦通算成績(2007年シーズン終了時点)

対戦通算成績と得失点

対戦チームとの相性

  • ヴィッセル神戸には2007年までカップ戦などを含め負けがなく、2000年には降格争いをしているクラブ同士の対戦で唯一90分で2連勝を挙げたが(同年の他の連勝カードはセレッソ大阪戦(1試合は延長)のみ、2008年J1第2節でホームズスタジアムで敗れ(1-4)連勝はストップした。なお、JFL時代の1996年にはヴィッセル神戸のホームゲーム全15試合中、唯一の土をつけている。
  • コンサドーレ札幌には1997年にはホーム、アウェイともにVゴール負けを喫している。特にアウェイの厚別では、ロスタイム突入時に2点差でリードしていながらの敗戦であり、その後の「ロスタイムが苦手」という意識が生まれる原因のひとつとなった。しかし、1998年以降、負けがなかったが、2008年3月23日のナビスコ杯で久々の敗戦を喫した。
  • 東京ヴェルディにも、川崎ダービーとして対戦した2000年の初対戦で敗れたが、それ以降は負けがない。天皇杯では2001年準々決勝で快勝(3-0)し、戦力外通告選手の活躍が話題となった。また、これが味の素スタジアムでの初勝利である。ヴェルディは2005年シーズンにJ1復帰後の初勝利を飾った相手となった。2008年シーズンは最終節アウェーで勝利し、ヴェルディをJ2に再降格させた。
  • 横浜FCには初対戦の2001年J2第11節でエメルソンの4ゴールで圧勝(6-0)してからわずか1敗と相性が良い。J1での初対戦となった2007年J1第3節も同じく6-0で川崎の大勝となった。
  • セレッソ大阪も勝ち越しチームの1つである。2000年には1stステージ優勝の夢を打ち破り(長居の悲劇参照)、2006年には最終節で3-1と勝利し、J2に降格させた。なおこの勝利でクラブ史上最高のJ1リーグ2位が確定し、翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
  • 横浜Fマリノスについては、2000年での初対戦で敗れた後は無敗だったが、2007年にはJ1リーグ戦で連敗した。ナビスコ杯では川崎がJ2にいた2001年にナビスコ杯で対戦し、2連敗していた。その後J1同士の対戦となった2007年シーズンは川崎の2連勝でお返しした。
  • サンフレッチェ広島に関しても、2000年の2ndステージ以降、2005年前半戦を除いて負けが無い。特に、J2時代の2003年は2勝2分けと完全に圧倒していた。それと、2007年はホームゲームで3-0で勝ったことで広島をJ1・J2入れ替え戦濃厚に追いやった。ただし、同チーム所属のFW佐藤寿人には、彼のかつて所属したジェフユナイテッド市原(現市原・千葉)やベガルタ仙台時代から多くのゴールを許している。
  • アビスパ福岡にはJ1・J2入れ替え戦で敗れ、Jリーグでも2000年のJ1昇格初戦を含めて3連敗したが、2002年にJ2での2試合目で初勝利を挙げてからの対戦成績は川崎が完全に圧倒している。
  • 反対に清水エスパルスには初対戦から6戦して1度も勝てなかった。2006年はこの清水エスパルスに負けたことで優勝争いから脱落した。2007年現在、清水との通算対戦成績はわずか1勝と、大変苦手としている。
  • 同じ静岡のジュビロ磐田もホームで全敗と苦手にしている。2000年には藤田俊哉にPKのみでのハットトリック達成を許す珍記録も産み、前田遼一のプロ初出場まで試される惨敗(1-5)を喫して、試合後にゼッカ監督の辞任が発表された。ただし、アウェイ戦ではこれまで4勝1敗と勝ち越していて、2005年のJ1復帰以降はアウェイ戦では4連勝中である。
  • ガンバ大阪もリーグ戦では苦手チームであるが、2006年以降はホームの等々力で勝利している。特に2008年はこのホームで4-0大勝し、ここ数年ホームでは苦手意識を払拭している。2005年度は最終節ホームで負けたことで、このガンバ大阪にJリーグ優勝という初タイトルを与えてしまった。カップ戦などでは2002年シーズンの天皇杯、1998年(旧JFLから参加)や1999年(J2)のナビスコ杯で勝っていた。ちなみに、ガンバが日本3大タイトルを獲得した時の相手が共にこのフロンターレである。
  • また、対アルビレックス新潟では、J1昇格後はホームゲーム3戦3勝でアウェーゲームは3戦3敗。J2時代はホーム・アウェー共に2勝6敗の計16戦4勝12敗と苦手にしていた。
  • 浦和レッドダイヤモンズとの対戦は因縁めいた結末になることが多い。
    • 初顔合わせとなった2000年のJリーグカップ(ナビスコ杯)では、ホームでの1戦目を3-0で圧勝した。アウェイでの2戦目は2点を先行される苦しい展開となったが、ギド・ビルギリオ・アルバレンガのPKで1点を挙げ試合を終了した。この結果2戦合計で1勝1敗となったが総得点を4-2とし、辛くも2回戦に進出した。なお、同シーズンの天皇杯でも対戦した。その時は既に来シーズンの1・2部入れ換えが決まっており、試合も1-2で敗れた。
    • J1復帰後の初対戦となった2005年の第2節は、前評判を覆し後半途中まで3-1と優位に試合を展開するも、終盤に追いつかれ引き分けた。第29節での対戦ではFW都倉賢が相手GKの都築龍太と小競り合いとなり一発退場(都築は警告)になるなど荒れた展開になり2-3で敗戦、関塚隆監督が「我々を勝たせない何かが働いた」とだけ発言し試合後の記者会見を切り上げる異例の事態となった。
    • 2006年のJリーグカップ(ナビスコ杯)は決勝トーナメントの1回戦で対戦、アウェイでの1戦目に3-4で敗れたものの、ホームでの2戦目で2-1と勝利を収めた。この結果1勝1敗、総得点5-5となったが、この年から決勝トーナメントで採用されたアウェーゴールルールが初めて適用され、準決勝に進出した。
    • 2007年第7節の対戦はアウェイであったが2-1で勝利した。この勝利は、浦和のホーム連続無敗記録を25でストップさせるものだった。
  • 柏レイソルとの対戦成績も不利である。特にアウェーの日立柏サッカー場では4試合で未勝利で、2000年ナビスコ杯1回戦第2戦アウェーは引き分け(1-1)で第1戦での1-0での勝利でベスト8進出、2000年2ndステージ第13節は敗北(0-1)でJ2降格が決定、2005年第1節はJ1復帰初戦でロスタイムに追いつく引き分け(1-1)、2007年第26節はAFCチャンピオンズリーグ準々決勝の狭間で出場選手を大幅に入れ替えて大敗(0-4)と、注目度の高い試合が続いている。
  • FC東京とは長年のライバル関係が続いている。
    • お互いの前身である富士通と東京ガス時代から激しい順位争いを続け、1997年と1998年は川崎フロンターレに東京ガスが立ち向かった(「歴史」の項目を参照)。旧JFLの通算対戦成績は川崎(富士通)の6勝1分7敗、1997年以降は2勝2敗となる。
    • 1999年は川崎の2勝2分で終わったが、J1に同時昇格した2000年には川崎が2敗し、年間成績も明暗を分けた。川崎のJ1復帰後もFC東京の優位が続いたが、2007年第10節では川崎がこのカードで8年ぶりに勝利した(5-2)。同年第30節も川崎が7-0で圧勝した。
    • 互いのホームタウンが多摩川を挟んで隣接し、旧JFL時代からの関係も深いことから、2006年第30節では両クラブが協力して、ホームのFC東京が川崎市内にポスターを貼る集客キャンペーンを実施した(4-5で川崎が敗北)。これを発展させ、2007年からは「多摩川クラシコ」と命名し、伝統の一戦として盛り上げることになった。(参照:日本のダービーマッチ)なお、ここでは1999年のJ2時代から対戦回数をカウントしている。
  • 鹿島アントラーズには初昇格の2000年のシーズンはナビスコ杯の決勝を含め全く勝てなかった。前述の2004年度天皇杯で対鹿島戦初勝利になるところだった。しかしここ最近は互角の成績で苦手意識を払拭し、対戦成績をひっくり返す勢いである。
  • 大分トリニータのホームである九州石油ドームではJ1のリーグ戦では未勝利である。2006年、2007年と当時の関塚監督が退席処分になり、2008年は前半から数的有利ながらスコアレスドローに持ち込まれている。
  • 2007年以前にJリーグに在籍したチームの中で、川崎がJリーグで対戦した事がないのは横浜フリューゲルスザスパ草津愛媛FC徳島ヴォルティスの4チームである。ただし、横浜フリューゲルスとは1998年のナビスコ杯で敗戦(0-1)、徳島ヴォルティスの前身の大塚FCヴォルティス徳島とは1997年と1998年の旧JFLで4戦4勝、愛媛FCとは天皇杯(第84回第87回)で2戦2勝の対戦成績が残っている。ザスパ草津との公式戦対戦はないが、2004年のシーズン開幕前に、ファンクラブ会員を等々力へ無料招待してプレシーズンマッチに準じた練習試合を行い、川崎が勝利している(6-1)。
  • 2008年からJリーグに参入したFC岐阜ロアッソ熊本とは、熊本の前身のNTT西日本九州など含めても、フロンターレは公式戦での対戦経験がない。

獲得タイトル

国内タイトル

個人タイトル

ベストイレブン
得点王
ヤマザキナビスコカップ

国際試合

ユニフォーム

現在のユニフォームスポンサー

なおスポンサーではないが、2004年から右袖にはJリーグのロゴのほかにホームタウン名「KAWASAKI」の文字が書かれたワッペンが付けられており、選手やスタッフ用にはさらに「市の花」であるツツジ刺繍が添えられている。
左袖スポンサーのノエルは2005年途中にCIの変更によりロゴが変更になったが、2005年シーズンは旧ロゴのまま変更せず、2006年シーズンより新ロゴに変更になっている。
なお、AFCチャンピオンズリーグについては規定によりスポンサーは1社のみとされているため胸ロゴ (Fujitsu) のみが表記され、左袖に大会のロゴ、背番号上には選手名(アルファベット表記)を入れている。

過去のユニフォームスポンサー

ただし1998年のみ「FUJITSU GENERAL」とアルファベット表記

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

  • 1997年、niftyは英語大文字の"NIFTY" (NIFTY-serve) として事業を展開。
  • ユニフォームスポンサー時期の富士通エフサス (Fsas) の会社名は「富士通サポートアンドサービス」。
  • 2007年9月30日施行の金融商品取引法に伴い、日興コーディアル証券はユニフォームでの掲示名を商品名の「ピーカブー」から自社名に変更。
  • この他、1997-98年は旧JFL、1999年以降はJリーグのロゴが右袖に付く。

クラブ名称の変遷

  • 1955年 - 1995年: 富士通(株)サッカー部
  • 1996年: 富士通川崎サッカークラブ
  • 1997年 - 現 在: 川崎フロンターレ

運営会社

  • 1997年 - 2001年: 富士通川崎スポーツマネージメント(株)
  • 2002年 - 現 在: (株)川崎フロンターレ

応援番組

コラボレーション・パロディー

2007年のホームゲーム開催時(等々力スタジアム)に様々なパロディーやコラボレーションを実施。
  • エースをねらえ!4月15日清水エスパルス戦。Jリーグ加盟以来勝利を挙げていなかったエスパルスを相手に「エース」ならぬ「エス(パルス)をねらえ!」と題して初勝利を目指そうという企画を行った。この時はアニメの「エースをねらえ!」で岡ひろみ役を演じた高坂真琴が「このゲームは絶対に負けられない!! 打倒オレンジ、ついに完結よ!!」といったフレーズの宣伝を行った。
  • 川崎麻世(タレント)/6月30日ヴィッセル神戸戦で、川崎市のスポンサードマッチ(7月1日の市制施行記念日に合わせた記念試合)を実施。その試合で川崎麻世が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をハーフタイムショーとして熱唱。2006年までは西城秀樹が、川崎市内在住の縁でほぼ毎年招聘されていた。
  • 朝日放送テレビ・パネルクイズアタック258月25日ガンバ大阪戦の試合において、同番組とのコラボレーション「アタック25日」を開催。博多華丸児玉清の物まねで「フロンターレ!! 大事なアタックチャーンス!!」とPRした他、同番組の特徴である回答者のカラーの入れ替わり(ガンバの青からフロンターレの水色)のパフォーマンスをバックスタンドのフロンターレ応戦席で行った。
  • あいのり5月11日のAFCチャンピオンズリーグ・アレマ・マラン(インドネシア)戦で、同大会初出場・初の決勝ラウンド進出決定の時にサポーターがそれをパロディー化した「はつのり」のTシャツを着用し祝福。
  • プロジェクトX〜挑戦者たち〜9月に行われるアウェーでの鹿島アントラーズ9月1日)、柏レイソル9月22日)の試合を、ホームタウンの頭文字が全て「K」(川崎=Kawasaki、鹿島=Kashima、柏=Kashiwa)で始まるということ、更に「決戦の9月」という意味合いも込めて、大応援団を川崎から繰り出そうという「プロジェクトK(打倒!! 鹿島&柏)」なる試みを行った。なお、2006年のホーム鹿島戦ではスキージャンプ競技の極限点になぞらえた「K点越え」キャンペーンを実行した。
また、こういったコラボレーションで、スポンサーの一つであるとんかつ和幸協賛の下、パロディー弁当が発売された。
  • 清水エスパルス戦/「カツのよ!!フロンターレ弁当」(オレンジデザート入りのとんかつ弁当)
  • ヴィッセル神戸戦/「マヨわずカツ弁当」(とんかつにタルタルマヨネーズソースが添付されている)
  • ガンバ大阪戦/「アカッツ!! チャンス!!弁当」(当日発売されたカツ弁当の半数に幸運をもたらすといわれる「ラッキーメンチカツ」が挿入されている)
※このパロディー弁当が発売されると必ずチームは勝利を挙げている(2008年8月25日現在)。

選手・サポーターによるイベント

近年、等々力競技場での試合で勝利した場合、試合後に選手たちがサポーターの前で、イベントを行うことが恒例となっている。これは、2002年から3年間在籍したDF岡山一成が試合後、「岡山劇場」と呼ばれる試合後のマイク(メガホン)パフォーマンス(これは後に岡山が在籍する柏レイソルベガルタ仙台でもやっており、サポーターからの評価を得た)をやって以降、試合後のイベントは定着。等々力競技場はピッチとの間にトラックがあるため、そこまで近くないものの、選手とハイタッチが出来るほどにサポーター席が低い事などが影響し、選手とサポーターが一体化しており、現在でもイベントを盛り上げている。

関連項目

脚注

外部リンク

*

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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