来歴・人物
以後強打の1番打者として活躍、西武ライオンズに入団以来、チームの隆盛とともに選手生活を送る。「盟主決戦」と謳われた1983年の巨人との日本シリーズでは第6戦で1点ビハインドの9回裏1死満塁で同点打を放つなどの活躍を見せる。1986年は攻守にわたりチームを引っ張り、2年連続3度目の三冠王に輝いた落合博満を押しのけMVP獲得。1988年の中日との日本シリーズでは全5試合で遊撃手としてフル出場。打棒が冴え渡り、日本一を決めた第5戦では1点リードされた9回裏、リリーフエース
郭源治からバックスクリーンへ起死回生の同点本塁打を放つ。シリーズMVPに輝いている。
1985年の阪神タイガースとの日本シリーズで遊撃後方へのフライを捕ろうとして左翼の
金森永時と石毛が衝突し、右膝の靭帯を痛める。1986年は気力で遊撃手をこなすものの、結局これがきっかけで1987年以後は三塁手となる。
1990年からはトップバッターの座をしぶとい打撃が売り物の
辻発彦に譲り6番打者になり、
秋山幸二、
清原和博、
オレステス・デストラーデのAKDトリオのクリーンナップが残したランナーを還す役割を担った。デストラーデの抜けた1993年はシーズン途中から3番バッターを務める。しかし1994年はスタメンを
鈴木健に譲ることが多くなった。同年オフ、辞任した
森祇晶監督の後任監督を打診されるも固辞し、
FAを行使して1995年に
ダイエーホークスに移籍。翌年の1996年、引退。
引退後はダイエーに残り指導者としての経験を積み、1998年に2軍監督を務めるも1年だけで事実上解任される。その後は、
NHK野球解説者・
スポーツニッポン評論家として活動する。
2002年から
オリックス・ブルーウェーブの監督に就任。しかし1年目最下位、2年目も開幕から最下位で、20試合過ぎた4月23日に解任される。この時の采配振りから、監督としての資質に疑問が投げかけられたが、解任自体に対してはオリックスも積極的に補強を講じていないとして石毛に対する同情の声もあった。
元プロ野球選手である
石毛博史は血縁関係はないが、高校の後輩に当たる。
年度別打撃成績
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太字はリーグ最多。
- 初出場・初安打・初盗塁 1981年4月4日ロッテ戦(川崎) 1回村田から中前安打・同回に二盗
- 初打点・初本塁打 同上 5回村田から左越ソロ
タイトル・表彰・記録
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新人王(1981年)
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MVP:1回(1986年)
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ベストナイン:8回(遊撃手=1981年 - 1983年、1985年 - 1986年 三塁手=1987年、1992年 - 1993年)
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ゴールデングラブ賞:10回(遊撃手=1981年 - 1983年、1985年 - 1986年 三塁手=1987年 - 1988年、1991年 - 1993年)
- 月間MVP:3回(1981年6月、1986年6月・8月)
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日本シリーズMVP:1回(1988年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1986年、1992年)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回(1985年)
- 日本シリーズ17試合連続安打(1985年第5戦 - 1988年第1戦)※シリーズ記録。
- 通算初回先頭打者本塁打:30本(表18本、裏12本)※歴代4位。
- シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1986年)※パ・リーグタイ記録。
- 1イニング2本塁打(1994年6月11日)
- 23試合連続安打(1986年7月29日 - 8月27日)
- シーズン守備率:.991(1990年)※三塁手としてのパ・リーグ記録。
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オールスター出場:14回(1981年 - 1994年)
- オールスターMVP:1回(1987年第2戦)
エピソード
- 1980年代後半に、東京都練馬区内に一軒家を建てた。本人は「東京都内」と喜んでいたが、同僚の東尾修は、「03(東京の市外局番)は03でも、次が9じゃね…」と、埼玉県境に近いことを冷やかしていた。ただし、言った本人の東尾は、西鉄時代以来福岡市内に居を構えていて、西武時代は単身赴任の形だった。
- 森監督時代はキャプテンとしてチームを引っ張っていく役割を担っていた。管理野球といわれるライオンズのなかで常に明るく振舞い、首脳陣と若手選手のまとめ役を努めていた。チームプレー第一を心がけており、状況に応じて長打を狙うバッティングをするかと思えば、ランナーを確実に進めるための送りバントを自在にこなすなど、勝利のためには自ら捨石となるプレーをすることも厭わなかった。また、苦境に立たされても決してあきらめることはなく、彼のワンプレーで試合の流れが変わったことも多い。そのためチームからの信頼は厚かった。そのような彼の姿勢を辻や秋山、伊東、工藤、清原などの選手が習い、ライオンズの黄金時代を築いていったといえる。彼がライオンズにもたらした貢献は非常に大きい。
- 広岡や東尾からは選手としては大成しても、監督としては不向きだと現役時代から批判されていた。監督解任について、広岡は「石毛は監督に向いていない。ファンの意向を無視している」と石毛とオリックスの首脳を批判した。東尾も「石毛は監督に向いていない」と明言している。
- 西武時代の応援歌はウルトラセブン。
- ダイエーの2軍監督時代、スタメンをあみだくじやジャンケンで決めていたことが発覚し、解任された。ただし、「プロとして自分で考え、行動できる選手を育成するため」という意図があったともいわれ、のちに石毛自身も講演にて同趣旨の発言をしている。
- オリックスの監督時代、サンケイスポーツの紙面において石毛のコメントの「オレ(俺)」という箇所が「ポレ」と誤植ないし誤記されていたことがある。これがきっかけで、インターネットの電子掲示板等において一部のプロ野球ファンが石毛のことを「ポレ」と呼ぶようになった。
- IBLJ設立時の活動資金は、オリックスの監督解任から契約満了予定まで1年8ヶ月分の監督報酬だったという(出典:「明日へ 地域独立リーグ 1」2008年7月31日付読売新聞大阪版夕刊)。
- 四国アイランドリーグの発足後はリーグの事務局が置かれた高松市を拠点とし、香川県の観光ポスターに起用されたこともあった。しかし、運営会社であるIBLJの社長を退いてからは松山市に活動の中心を移している。リーグのコミッショナー退任後の2008年1月に、愛媛マンダリンパイレーツのシニア・チームアドバイザーに就任することが明らかになった。
- アイランドリーグのコミッショナー退任について、自身のブログで「自分から言い出したものではなく、リーグ側で契約の更新を行わないと決めた」と説明した。今後は日本の全都道府県に独立リーグチームを1つ作ることを目標に活動していくと述べている。2008年3月には新たに近畿地方を拠点とする関西独立リーグの構想を表明した。
- かつて野茂のドジャース在籍当時、主砲として君臨したエリック・キャロスは、石毛をこれまで出逢った人物のなかでは最高レベルの人間と評している。
背番号
監督としてのチーム成績
- ※2001年から2003年までは140試合制
- 2003年に途中解任、( )内の成績はその年のシーズン記録。
関連項目
外部リンク
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 2003年は4月23日限りで辞任。
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)