占領地から独立へ
以降、ドイツの分割占領]]
西ドイツは
1955年5月5日に
主権の完全な回復を宣言し、
ドイツ連邦軍を編成して
再軍備を行い、
北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
経済の奇跡
で破壊されたケルン市街(1945年)]]
(ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった]]
西ドイツは
欧州経済共同体(EEC)や
欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。また、
マーシャル・プランや
朝鮮戦争特需によって急速に成長し、
Wirtschaftswunder(経済の奇跡、1950年にイギリスの
タイムズ紙がドイツ復興をこう表現した)と呼ばれる劇的な復興を遂げた。西ドイツは
ヨーロッパのみならず世界有数の
経済大国となり、ヨーロッパ各地や
トルコなどから
移民を受け入れた。一方この時期、農業集団化や物資不足により自営農や一般国民が大勢西ドイツへ流出した東ドイツとは徐々に経済格差が開いていった。
戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、
モーゲンソー・プランに基づきドイツを脱工業化するため
1950年まで続いた、
連合国軍による石炭産業・鉄鋼業の解体も大きかった。また、ドイツが持っていた知的財産の没収、たとえば国内外にドイツ企業が持っていた高価値の
特許を連合国が没収し自国産業強化に使わせたり、ドイツの研究者がソ連やアメリカに連行されたりといった苦難もあった。
一般にはマーシャル・プランが西ドイツを復興したように考えられているが、同様の援助は西欧諸国も受けており、西ドイツの経済の奇跡の完全な説明にはならない。西ドイツがマーシャル・プランで受けていた金銭的貸付は、西ドイツが連合国に行った戦争の補償や、連合国軍の駐留経費の支払いに比べると小さなものだった。さらに
1953年から
1971年まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。
「経済の奇跡」の原因は究極的には、1948年の
通貨改革によりライヒスマルクがドイツマルクに置き換えられ、インフレーションが終わったことが大きい。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。1950年に勃発した
朝鮮戦争は世界的に物資の需要を高めたが、これによる物資不足で、ドイツ製品を忌避していた国々も西ドイツ製品を買うようになった。当時、西ドイツには
オーデル・ナイセ線以東の旧領土や東ドイツからの避難民が溢れていたため、他国と比較して賃金の安い熟練労働者を多く抱えており諸外国の輸入需要にこたえることができ、結果ドイツの
輸出は急激に伸びた。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきたため、
1950年代末から
1960年代にかけて、ガストアルバイター(Gastarbeiter)と呼ばれる
移民が
トルコや
韓国など諸外国から呼ばれ、人手不足や経済成長の加速を支えた。
政治
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西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から
憲法(Verfassung) がなく、
基本法(Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。
東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の
1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に
徴兵制が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。
環境保護運動同様に
反戦運動も盛んであり、
1983年には、
1979年調印の
第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに
核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な
反核運動が起こっている。
対東ドイツ政策
欧州の協調と対独抑止
第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(
モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な
国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。
こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の
1950年、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍」の創設準備を始めた。
一方、周辺の西欧諸国は
ブリュッセル条約を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、
欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは
北大西洋条約機構(NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「
欧州防衛共同体」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は
1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしない
ド・ゴール主義者たちの反対により
1954年に当のフランス議会で否決され、
批准に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は
1955年11月12日に正式に誕生した。
国内政治
1966年までの政権は
キリスト教民主同盟(CDU)と
キリスト教社会同盟(CSU)の二つの保守政党の連立であり、これに中道の小政党
自由民主党(FDP)が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「
大連立」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。
大連立下の議会では、論議の的となってきた
非常事態宣言法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し
学生運動や
労働組合は反対の声を上げたが、
1967年には学生デモに対する警察の射撃で死者が出て運動は過熱し、1968年には学生運動の指導者ルーディ・ドゥチケ(Rudi Dutschke)に対する暗殺未遂事件が発生した。
1960年代にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルーディ・ドゥチケら学生運動家、
ペトラ・ケリー、
ハインリヒ・ベル、
ヨゼフ・ボイスら社会運動家は環境保護運動に結集し
緑の党が結成された。
1979年の
ブレーメン州選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義と反国家主義が西ドイツの基本的な価値観となった。
1982年には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、
ヘルムート・コールが第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊にともない東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数ヶ月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。
地域分散
戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが
飛び地となった西ドイツでは政治の中心はボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・
証券取引所など経済政策の中心が
フランクフルト・アム・マインに置かれ、
連邦憲法裁判所と連邦最高裁判所といった司法の中心が
カールスルーエに置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、
東ベルリンへの一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。西ベルリンはドイツの中心としての地位を喪失したものの、三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、
コスモポリタン的な文化が繁栄した。
ドイツ再統一
欧州の中央に強大な統一ドイツが誕生することに対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「
ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の
平和条約)により、統一後のドイツの地位と
国境が確定、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、
1991年3月15日、米英仏ソ四カ国の軍はドイツから撤退した。
関連項目
外部リンク
にしといつ
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