現役時代は
中日ドラゴンズで
投手として活躍し、現役引退後は、
NHKの野球解説者を経て、中日・阪神の監督を歴任。監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たすがいずれも日本シリーズ敗退。優勝3回で
日本一なしは
西本幸雄に次ぐ。また、現役時代にも2度リーグ優勝しているが、日本一経験はない。2008年には
北京オリンピック野球日本代表日本代表監督を務めたが、4位。
経歴
アマ時代
父は戦前、三菱航空機製作所(後の
三菱自動車工業水島製作所)の工場長を務めていたが、仙一出生の3か月前に
脳腫瘍で死去。母は工場の寮母として働く傍ら、仙一と2人の姉を育てた。
阪神タイガースコーチの
筒井壮は甥(筒井の実母が仙一の2番目の姉)にあたる。
大学時代は
島岡吉郎監督の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。当時の
全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同僚と共にバリケードへ殴り込んだというエピソードもある。
プロ時代
1968年、
水原茂監督率いる
中日ドラゴンズから
ドラフト1位指名され入団。少年時代から阪神タイガースの
村山実投手に憧れており、村山と同じ背番号11を付けたかったが、空いていなかったため数字を倍にした22を希望した。後に中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。入団3年目の
1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、かわりに変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。
与那嶺要監督時代の
1974年には初代
最多セーブのタイトルと
沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。
近藤貞雄監督時代の
1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。
ドラフト会議に際しては、
巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし巨人は
島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったエピソードがある。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、
長嶋茂雄・
王貞治らが活躍した
V9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。
巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、
川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったらしい)。そのことを現役引退後に
川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。
逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。
1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利をあげた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」とど真ん中ばかり投げていた。しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。
珍プレーの先駆けともいえる、
宇野勝による
ヘディング事件時の投手としても知られる(
1981年8月26日、対巨人戦(
後楽園球場)、打者は
山本功児)。宇野のエラーにより得点を許したため星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の
小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾談)。
1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた
阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合になり、先発として登板。先頭打者の
福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。その際、マウンドへ花束を届けに行ったのは、親友である歌手の
小田和正だった。
中日監督時代
1997年には
ナゴヤドームが完成。球場が広くなった事でチームの体質改善が求められたが間に合わず星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木監督時代の
1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。翌年、関川らをトレードで獲得し2位と持ち直す。
1999年、
1954年の西鉄以来45年振りとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝はチーム史上初。
2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で
山田久志投手コーチ兼ヘッドコーチに禅譲し退陣。
中日の第2次監督時代から選手補強に関してはかなり積極的で、中でも当時
FA制度や
逆指名制度で補強をしていた巨人に対しては、対抗意識を燃やしていた。
宣銅烈、
レオ・ゴメス、
サムソン・リー、
李鐘範ら有力外国人選手、明治大学の後輩である
武田一浩、
川崎憲次郎といったFA選手の獲得は、もちろんチーム補強の意味合いが第一とはいえ、「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではと言われている。
武田一浩や
川上憲伸、
小笠原孝など明大の後輩をよく自球団に誘っていたが、
鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにも関わらず、
福岡ダイエーホークスに放出されてしまった。鳥越は1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました、拝啓・星野仙一様」と発言、物議を醸した。鳥越によれば、放出された悔しさをバネにダイエーで頑張ろうと決めていたという程度の意味合いとのこと。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、
小松辰雄が
最多勝を争っていた際は、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。1991年には、
最優秀防御率のタイトルがかかっていた
今中慎二を、既に優勝が決まっていた広島戦の
ダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも今中を登板させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し
日本シリーズ出場が決まっていたが、最多勝まであと1つと迫っていた
野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト)に中4日登板させた。また、「MVPは優勝球団から」を記者にアピールし、成績で勝る
上原浩治への投票を牽制した。
1987年6月11日、
熊本・藤崎台県営球場での
読売ジャイアンツ戦で、
宮下昌己投手が
ウォーレン・クロマティ選手の背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の
王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を握って「これ(暴力)はいかんぞ」という抗議の意味であったと釈明している。
阪神監督時代
中日監督を退任した直後の2002年、
阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった
島野育夫を中日から半ば強引に引き抜きヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
2003年の日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には
岡田彰布守備走塁コーチが就任。
監督退任後
アメリカンホームダイレクトや
キリンビバレッジ、
大和證券、さくら不動産などの
コマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務めている。2004年10月からは
大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。野球解説者としては放送局に契約しないフリーランスの形で各局のテレビ中継に出演している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート、しかし2008年には閉鎖。
2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。これに関して
江夏豊は「(阪神に籍を置いている身分でありながら)星野サイドからの売り込みがあった」と週刊誌で暴露している。しかし、
9月10日に巨人入り拒否を公式に表明。
北京五輪
2007年
1月25日、
2008年北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を星野仙一名義で登録商標出願した。しかし「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第一回WBC体制検討会議において、星野が
2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に
鹿取義隆・
武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人の
原辰徳監督が引き受けることとなった。
人物
過去、中日の監督時代には「失敗してもチャンスは与える」反面、「プロは結果を残さなければ去るべし」という冷徹なポリシーを持っていた。
1995年にドラフト1位で入団した
金森隆浩が
1996年10月9日の対阪神最終戦(
甲子園)にプロ初先発し、日本プロ野球のタイ記録である1イニング2本の満塁ホームランを打たれ10失点で降板したときは、「これを記念に消えてなくなれ。もう二度と俺の目の前に姿を見せるな!」と言い放ち、その後一度も一軍に上げることなく、翌年のオフに戦力外を通告した。また、負け試合で登板して7失点した入団2年目の
山田貴志を、その年限りで解雇したこともある。なお金森に関しては、台湾球界で実績を積み、
1999年に中日へ復帰したものの、またも1年で解雇されている。
当時は主に外野手として出場することが多かったとはいえ、自身の関わった
1995年のドラフト1位で内野手として獲得した荒木雅博に対して、「内野はできるか?」と聞く。
アメリカの新聞記者から「日本にも
ビリー・マーチンがいるのか?」という声もあったほどの熱血漢で、監督就任当初はよく乱闘を起こしていたため「暴れ星野」と呼ばれていた。「乱闘のときベンチにいるやつは罰金だ。止める役割でもいいから全員グラウンドに出て来い!」と発言している。
よい監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた。マスコミを味方につけパフォーマンスを売りとする星野について、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評している。
また、「肉体的な暴力に訴える」星野の監督としての資質について、
マーティ・キーナートは星野の下でプレイした
アロンゾ・パウエルの発言をひきながら「野球において認められるべきではない」と批判している。この記事においてパウエルは、「野蛮なだけ」の星野の下で選手は「いつも、星野の顔色をうかがい」、「どうしようもないほど怯えて」いる状態で、「だから監督としては頂点をきわめることはないだろう」と語っている。
1999年の日本シリーズでは「ミスをした方が負け」との発言を繰り返していながら選手のミスによる自滅の形で敗退しており、TV解説をしていた
落合博満も「ああいうことは言わなかったほうが良かったと思う」と評している。
落合博満の大型トレードや、西武黄金期のGM的な存在だった
根本陸夫管理部長とのパイプ作りを主導、阪神時代にはアメリカのマイナーリーグを買収など、「政治屋」とも評される。
中日監督時代から「ジジ転がし」の達人と称されるほど地元財界と交流があり、中日時代・阪神時代ともに後援会が存在する。なお、星野自身は
近藤貞雄会長の時に阪神監督就任を契機として中日OB会からは除名処分が下された。(当該項目参照)
人脈・交友関係
中日投手時代の先輩にあたる
板東英二は、板東の方が6歳年上であるにも関わらず、監督勇退後も星野を「監督」と呼んで敬意を表し、敬語で話しかける一方、星野は先輩の板東のことを「板ちゃん」と呼び、敬語を使わずに気軽な付き合いをしている。
政財界やマスコミ、芸能界との交流も深い。
発言
2003年を最後に監督業から退いた後、アテネオリンピック選手派遣問題に関して「五輪球団枠を撤廃せよ」「球団枠撤廃は夢がある」と盛んに発言するようになった。選手の派遣に消極的だった中日の
落合博満監督に「世の中には不公平が付きものだ」と選手の派遣を促したが、当事者の一人であるヤクルトの
若松勉監督からは「監督を辞めた人だからこそ言えるんだ」と反論された。中日監督時代、シドニー五輪のときは中日・
鈴木郁洋選手(控え捕手)がレギュラー選手の代役として選出されており、五輪で負けた後には「あれがシドニー五輪の捕手なんだから、そりゃ負けるわな」と発言。阪神監督時代には、阪神のエースであった井川慶が理由もなくアテネ五輪出場を辞退した際にそれを容認して、マスコミに対しては無言を貫いた。
2006年6月、
村上ファンドの
村上世彰社長の逮捕以前から親交があり彼の行動も承知していたにも関わらず「天罰が下る」と発言していた。これに対し村上側から抗議を受けたが、直後に村上は逮捕された。
北京五輪の結果が4位に終わった事についてはテレビカメラに向かい「すまん」の一言で済ませ、その後自分の采配、選手選考について居直りとも取れる発言を繰り返したことが批判の対象となった。
タイトル・表彰
年度別投手成績
監督としてのチーム成績
- ※1 1987年から1996年は130試合制
- ※2 1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)
- ※3 2001年から2004年は140試合制
監督通算成績
背番号
-
22(1969年〜1970年)
-
20(1971年〜1982年)
-
77(1987年〜1991年、1996年〜2003年、2008年)
歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- 街の灯がゆれる(1981年12月20日発売)
参考番組
- 『勇退〜星野仙一・激闘の半生』(2003年11月3日 毎日放送)
- 『人間・星野仙一〜もう一度ユニホームを!!』(2004年3月 毎日放送)
星野仙一役を演じた俳優
ドラマ
アニメ
脚注
関連項目
外部リンク
- ※カッコ内は監督在任期間。*長嶋が脳梗塞のため、アテネ五輪では中畑清ヘッドコーチが代行(登録上は監督)