人間(にんげん)とは、
社会的なありかた、関係性、
人格を中心にとらえた「ひと」のことである。また、その存在のありかた全体を指すこともある。
概説
関係性に着目するために「人 - 間(あいだ)」という名称があてられたとされている。人間は「社会にあるひと」を指す言葉である。また「人間」と書いて「世の中」「世間」という意味にもなる。この場合「じんかん」とも読み
明治期までは「人間(じんかん)に交わる」といった表現もよく使われた。人間の社会に属さないヒトは一般に
野人とも呼ばれ、人間の範疇の外にあると考えられる。
アリストテレスは人間を指して
社会的動物と呼んだ。人間については、古くから哲学者らによって考察されていた。人間の心身の本質についての、哲学的考察から近・現代の実証的な研究まで「
人間学」と呼ばれている。これはもともと、宇宙、世界のなかでの人間の位置づけ、
人間の身体、気質、
精神、
魂などの在り方を研究するものである
現在、人間の
学名は「
ホモ・サピエンス Homo sapiens」(知恵のあるヒトの意)で、やはり
言語や
文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている。この学名と同時に作られた名に「
ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「
ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に
社会面から捉えられた「ホモ・○○○(〜するヒト)」といった
造語の元となった。遊びに目を留めた
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』、「
ホモ・エコノミクス(経済人)」などはその典型である。
人間はしばしば人物(じんぶつ)と呼ばれる。また、特筆すべき著名活動を行っている人間のことを特に有名人(ゆうめいじん)或いは著名人(ちょめいじん)と呼ぶ。
性質
人間の特徴として、
社会を形成する傾向、
文化を持っていること、
言葉を使うことなどが挙げられる。
人間は
文字や
言語を抽象的な
シンボル(
象徴)として扱ったり、論理思考(
論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では
知能は
地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。
好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「
知ること」と「
考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。
人間には、知識だけでなく、自らの
精神や
心にも注意を向ける個体がいる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば
瞑想や
内観などを行うこともある。
宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えば
アブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。
道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では
機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(
コスト等)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。
<!-- 生物学的記述は
ヒトに記述するとよい。
その他の生物的な特長としては、
雑食性であることも挙げられる。
農業(
農耕・
牧畜)・
漁業などといった食糧の生産や獲得を組織的に行う事から、
食物連鎖の頂点の一部にいると現在では考えられている。
生活様式は多様で、例えば
食生活に限っても、肉食が多い集団、草食が多い集団、どちらも同程度に食べる集団があり、個々の違いも大きいため一概に言う事は出来ない。活動の時間帯についても、もともとは昼行性動物で暗くなれば殆ど何もしなかったが、
火を使えるようになり、灯りを手に入れてからは夜間も活発に活動するようになった、とされている。この傾向は文明の発達と共に加速する傾向にあり、もっぱら夜間に行動する個体も増える傾向にある。
活動範囲は広く、
熱帯雨林などの温暖な地域から、
シベリア等の寒冷地帯、
砂漠などの乾燥地帯など様々な場所に分布する。また道具の補助により、
海中、空中、さらには
地球外にまで進出している(もっとも21世紀初頭現在では
月が最遠地点である)。
哺乳類の中では唯一、ほぼ全般的に
直立二足歩行をすることができる。
身長は一般的に 140cm から 190cm 程度。ただし
人種によってその傾向は異なる。また体毛は薄く、体温保持の補助などについては、もっぱら
服を着る事で行なっている。ヒトは恒温動物であるので、体温の調節や保持そのものを
被服の役割とするのは誤りである。
-->
歴史
現生人類は、
アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパやアジア、さらに
氷河期などの気候の変動も影響して
南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で
農業が始まり、同時期に
文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている。(初期の文明としては
ナイル川、
ユーフラテス川、
インダス川、
黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「
世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。
生活
の女性 1907年]]
その生息地域は極地を除くほぼ全ての地域である。特にアジアやアフリカに集中している。その中でも
インドや
中国の
人口が特に多く、およそ三分の一を占める。
生活は
民族間の差異が大きく、その中でも
気候で暮らし方が違う。例えとしてみれば、
日本では、
沖縄などの
亜熱帯気候では服が薄く、食べ物も暑さに負けないようなものが多いが、対して
北海道では服を厚く着込み、食べ物は
炭水化物などが多くなる。
そのため、各地域ごとにそれを探るのが適当であるが、最近は
ヨーロッパ、
アメリカから派生した生活が主流となってきていて、違いが少なくなっている面もある。しかし、古い生活を大切にしようというスローライフ運動という運動も盛んとなり、また灯りによって夜間の活動が活発になるにつれ、生活習慣は個別化している。
人間の特徴と人間論
人類を他の生物種から際立たせる特徴は幾つかある。最もよくかつ古くから指摘されるものは
言語の発達使用と
思考の能力である。知性をもつ生物は人間以外にもあるという指摘はあるが、言語の使用が人間が発達した
社会をもつことを可能にした事は確かであろう。社会は大抵の場合人間相互の支配関係によって特徴付けられるため、古くから支配と
権力の形態により社会を分類することが行われてきた。
人間と遊び
人間はその社会において、生存に必要な消費物を余剰生産する段階にまで入っている。この余剰生産分は、非生産的な活動に従事する人間に供される。これら非生産的な活動は、いわゆる
遊びと呼ばれる活動であるが、人間は余暇を遊ぶことで、更なる生産性の維持を可能としている。
この余暇を生み出す生産性によって維持される
遊びは、いわゆる文化と呼ばれる人間を人間たらしめている特長の原点であるともされ、また、多くの人間は
趣味と呼ばれる非生産的な活動様式をもっており、自身の生活を購う
労働とその生産物を消費する活動とは別に、この趣味を行うことを求めている。
動物では
遊びを通して自身の能力を開発する様式を持っているが、これは
成長の上で実利的な意味を持つのに対して、人間の遊びは実利的側面が無い場合も多い。人間の遊びや趣味は生物的に成熟した後でも続けられ、特に社会的な価値観(→
常識)においては、趣味が有る人間の方が尊重される傾向すら見られる。
なお、人間は
貨幣経済によりその生産力を
貨幣単位に換算し、この単位を消費することで
遊ぶことが出来る。
人間を活動面から特徴付けている要素として、この
遊びに注目する学問も多い。詳しくは
遊びの項を参照されたい。
人間観の遷移
旧約聖書
旧約聖書では、すべては
神というフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や
世界観が語られている。殺人、不倫、近親相姦、大量殺人、権力抗争といった(聖なる書物とは思えないような)人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある。
創世記には以下のような記述がある。
- 「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配させよう」神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記 I章26-27)
旧約聖書以前の時代、
古代エジプトや
バビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、されたのである。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられているのである。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている、とも言われる。
古代ギリシャ
キリスト教
キリスト教では、すでに説明した、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)神の眼、神の視点である。さらに、4〜5世紀の神学者
アウグスティヌスによって
原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった。 キリスト教では、
イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の
同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。
中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した。
1400年代以降
1400年代〜1500年代のころになり、
ガリレイ・
ケプラー・
ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって
人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。
1700年代になると、
ラ・メトリがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代には
ダーウィンが
自然選択に基づく
進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた。
今日の生物学は自然選択説も含めた
生物の進化を基盤として成り立っているため、先進国の知識人や自然科学者など、現代生物学を受け入れている人々は、我々人間は猿からネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきたと見なしている。こうした観点を端的に表現した概念としては、
社会生物学の「
利己的遺伝子」の概念などが挙げられる。
現代
ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人は今でも必ずしも多数派というわけではなく、例えば
アメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ちつづけている人のほうがむしろ多数派であることなども知られている。
時代、人間(
科学者、
技術者、
政治家、
軍人ら)は、一瞬にして10万人以上の人々を殺戮するような原子爆弾をつくり出してしまった(写真:「
ファットマン」のキノコ雲)]]
かつては、人間自ら最も進化した生物として「万物の霊長」と称していた時代があったが、皮肉なことに
大量殺戮兵器を使用した世界レベルの戦争は人間の知能の所産である
科学技術が自らに牙を剥きうる事を如実に示した。また人間は
産業革命の時代から続いた大量消費によって
自然破壊、
環境問題などを引き起こしている。今も、人間のあるべき姿は問い続けられている。
人間の線引き
人同士の差別
近代以前の言語では、日本語の「人間」に相当する表現が、現在の「自由人」の意で用いられ、筆者自身はそのことを意識さえしていない、ということもあった。つまり、
奴隷や
農奴などの存在が自明当然のこととして扱われ、人間と言う時に彼らが除外されていたことがあるのである。一部の文献の解読に際しては注意しなければならないことである。
また、かつては各国において、他民族を排斥する時など、相手の民族を貶めるため、「彼らは人間ではない」「野生の動物である」などとする発想や表現が存在していた。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考え方がありふれていた時代もある。その後、
人権思想も広まり、このような差別的な考え方、
人種差別的な考え方は現在では世界的に嫌悪されることが多くなり、公に表明されることは少なくなった。現代では文字通り非人間という観念はなく表立って表れることはないが、
ナショナリズムなどが絡む問題では
レトリックとして他民族・他人種を動物に擬する、或いは結びつける言葉が飛び出すことがあり注意を要する。
個人攻撃も参照。(もっとも
第二次大戦後は
ナチズムの反省もあり大規模な傾向は減少している)
日本での問題としては、
被差別部落民を指し「
非人」と称していた事があった。「人非人」という表現もあったが人であって人に非(あら)ず、と言うのは矛盾しているため人という言葉はここでは2つ、生物学的な人と(自分たちの)社会に入ってない人を使い分けていた事が窺える。。
様々な基準と概念的な戯れ
人間の基準のひとつとして社会性が挙げられることが多いが、他にも文化の継承という観点から人間を把握することもある。一般に「人間」という言葉は生物学的なヒト以外を指すことはまず無い。これは文化を(部分的にではなく、包括的に)継承し得るのはヒト以外には無いためでもある。
知能を備えていれば人間とする考え方も古くからあったので、今日のようにコンピュータが普及し
人工知能も徐々に実現してくると、どこまでが人間でどこまでが機械装置か、というテーマも浮上してきた。それに関する哲学的問答が存在している(→
チューリング・テスト)し、そういったテーマを織り込んだSF作品(フィクション)も最近では少なくない。
また主として
サイエンス・フィクションなどのフィクション類をよく読む若者世代の一部などに、空想を逞しくし、いわゆる「宇宙人」なども絡めた上で人間の線引きを話題にする者もいる。
脚注
関連項目
- 視点
- ありかた、ありさま
- 行動
- 関係性
- 写真
- 擬似人間
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