生涯
生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国
津和野(現・
島根県)で生まれた。代々
津和野藩主、亀井公の
御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。幼い頃から
論語や
孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では
四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の
明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。
廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、私塾の進文学社に入っており、その際に通学の便から、親族の
西周(にし・あまね)邸に寄食した。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。なお、西洋語学を習得する秘訣として、作品内で
語源を学習に役立てる逸話を記した。
ドイツ留学と初期の文筆活動
1874年(
明治7年)、第一大学区医学校予科(現在の
東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学し、
1881年(明治14年)に19歳8か月で卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務。
1884年(明治17年)、ドイツ留学を命じられ、陸軍省派遣留学生として10月にベルリンに入った。留学中は、
ペッテンコーフェル等に就いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けた。また、
北里柴三郎とともに
コッホのもとを訪問したり、
ナウマンを批判したり(論争に発展)した。
1887年(明治20年)、カールスルーエで開催された第4回赤十字国際会議に
石黒忠悳とともに出席し、日本代表として流暢なドイツ語で演説した。
1888年(明治21年)9月に帰国し、
陸軍軍医学校・
大学校教官に任じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性が来日し、滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説『
舞姫』の素材の一つとなっている。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる。
1889年(明治22年)8月、明治詩壇に大きな影響を与えた訳詩集『於母影』(共訳)を発表し、その原稿料をもとに弟の
三木竹二など同人たちと評論専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。外国文学の翻訳も多く始め(『
即興詩人』『
ファウスト』などが有名)、以後、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『
うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって
石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で
坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
1889年(明治22年)7月に東京美術学校(現
東京藝術大学)の美術解剖学講師を、
1892年(明治25年)9月に
慶應義塾大学の審美学(
美学の旧称)講師を委嘱された(小倉転勤時に解嘱)。
1894年(明治27年)8月、
日清戦争に軍医部長として出征。戦後、東京に戻ることなく、台湾に転征し、翌年10月に帰京。翌
1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて
幸田露伴、
斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。また、このころより、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。
小倉「左遷」から歴史小説へ
陸軍内で対ロシア戦の準備が進む中、
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇任し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた
小倉(西部)に「左遷」された(このとき『小倉日記』が書かれる)。世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。「鴎外漁史とは誰ぞ」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「
北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(
矢野竜渓『新社会』の評論で
社会主義などを記述)。
1902年(明治35年)3月、東京に転勤。
1904年(明治37年)2月から
1906年(明治39年)1月まで
日露戦争に
第二軍軍医部長として出征。
1907年(明治40年)には
陸軍軍医総監(中将相当)に任じられ、
陸軍省医務局長に補された。なお同年9月、美術審査員に任じられ、第一回
文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の一員になった。このころまでは翻訳が多かったが、
1909年(明治42年)に『
スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(
木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『
ヰタ・セクスアリス』『鶏』『
青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。その『スバル』創刊年の7月、鴎外は、東京帝国大学から文学博士の
学位を授与された。しかし、直後に『ヰタ・セクスアリス』(『スバル』7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、
内務省の
警保局長が陸軍省を訪れた8月、鴎外は石本
陸軍次官から戒ちょくされた。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。
慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に
永井荷風を推薦)した
1910年(明治43年)は、5月に
大逆事件の検挙がはじまり、9月に
東京朝日新聞が「危険なる洋書」という連載を開始して6回目に鴎外と妻の名が掲載され、さらに
南北朝教科書問題が大きくなった。そうした閉塞感がただよう年に『ファスチェス』(発禁問題)、『沈黙の塔』(学問と芸術)、『食堂』(
クロポトキンや
無政府主義等を記述)などを発表。翌
1911年(明治44年)にも『カズイスチカ』『妄想』を発表し、『青年』の完結後、『
雁』と『灰燼』の2長編の同時連載を開始した。
1912年-
1913年(大正元年-2年)には、『かのように』から『槌一下』まで五条秀麿を主人公にした連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた『鼠坂』などを発表した。このころは、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの三作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説もつづけていた。
なお、1910-1911年、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、件(くだん)の石本次官と医務局長の鴎外とが激しく対立し、鴎外が石本に辞意を告げる事態にまでなった。結局のところ、医学優先の人事が鴎外の退官後もつづいた。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける軍医部の鴎外の主張がとおった背景には、
山県有朋の存在があったと考えられている
1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外独自の小説作品の最初のもの」である『羽鳥千尋』を発表。翌
9月13日、
乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』(初稿)を書き終えた。これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『
阿部一族』、「歴史離れ」の『
山椒大夫』『
高瀬舟』などののち、史伝『
渋江抽斎』に結実した。ただし、
1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。
1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、
ロシア革命の翌年
1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
晩年
1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、軍医総監・医務局長を8年半つとめて退き、予備役に編入された。その後、ロシア革命が起こった1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現
東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。さらに1918年(大正8年)9月、
帝国美術院(現
日本芸術院)初代院長となった。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編纂に着手した。しかし『天諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見いだした
吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』を刊行し、元号案「昭和」を提出することとなった。
1922年(大正11年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「
森林太郎ノ墓 」とのみ刻されている。向島
弘福寺に埋葬された。墓碑銘は、遺言により
中村不折によって筆された。
戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、
関東大震災後、
東京都の
禅林寺と津和野町の永明寺に改葬された。
人物評
評論的啓蒙活動
鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする
理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする
写実主義的な没理想を掲げる
坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。
松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。
また、鴎外の論争癖を発端として論争が起きた事もある。坪内逍遥が「
早稲田文学」に
シェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。もっとも三十歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
幅の広い文芸活動と交際
肩書きの多いことに現れているように、鴎外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集『於母影』(共訳)と、1892-1901年に断続的に発表された『即興詩人』とが初期の代表的な仕事である。『於母影』は、明治詩壇に多大な影響を与えており、『即興詩人』は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、同署を片手にイタリア各地をまわる文学青年(
正宗白鳥など)が続出した。
また鴎外は、戯曲の翻訳も多く(弟の
竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、
幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。
翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象となった。単なる訳者にとどまらない鴎外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、
田山花袋にも影響を与えた。その鴎外は、上記のとおり東京美術学校(現
東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門の審査員、帝国美術院の初代院長などをつとめた。
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった
漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人よる共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が
与謝野鉄幹の「新詩社」系と
正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。
伊藤左千夫・
平野万里・
上田敏・
佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の
北原白秋・
吉井勇・
石川啄木・
木下杢太郎、「根岸」派の
斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(
与謝野晶子を含めて述べ22名)。
また、当時としては女性蔑視が少なく、
樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と
平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井婦人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『
人形の家』))。
軍医として
上記のとおり鴎外は、東京大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であり、医学先進国ドイツに4年間留学し、最終的に軍医総監(中将相当)・医務局長にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった
脚気の原因について
細菌による
感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる
高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに
日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣
寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「
予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。
後に
鈴木梅太郎が脚気の特効薬である
オリザニン(=
ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた
志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。
鴎外を擁護する立場からは、
下士官・
兵達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(
脚気の歴史)を考慮すべきとの意見もある平時よりもはるかにストレスの溜まりやすい
戦場において、食事は重要な娯楽のためである。また食事が士気に影響することは軍隊に限らず、スポーツなどの場面でも言われている。しかし、この当時は「海軍のメシはうまい(西欧食中心であったため)」が陸軍兵士の羨望であり、かつ脚気が海軍で少ないこと、栄養に原因がありそうだという噂も一部の上級将校は知っており、ひっそり戦地で麦飯を調達する将校すらいた。ただ、上述のような事情があるため、下士官以下には海軍の健康状況は伏せられた。。
麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「
貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。
加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した
石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。(ただし、当時肉として主に使われていた豚肉には大量のビタミンB1が含まれているため、森鴎外の指示が行われていたら、脚気は発生しなかった可能性が高い。)日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。
『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜ
ビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「
情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。
医学功績と脚気問題から見た再評価
鴎外の医学業績として、とくに二つの点が挙げられる。一つは、ドイツから帰国した翌年の陸軍兵食試験(1889年8月-12月)であり、その試験は当時の栄養学の最先端に位置した。もう一つは、陸軍省医務局長就任後の臨時脚気病調査会の創設(1908年)である。脚気病の原因究明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。脚気ビタミン説が確定して廃止(1924年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。鴎外が創設に尽力した臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたとして位置づけられている。
もっとも、脚気問題について高木兼寛(海軍軍医総監にまで昇進)は、海軍の兵食改革で海軍の脚気を根絶したとして賞賛されるのに対し、鴎外は陸軍の脚気惨害を助長したとして非難されやすい。しかし、その対照的な評価には、「内実を知らない浅薄な見方にすぎない」との批判がある。第一に海軍で根絶したはずの脚気病が、大正期の中頃から急増した事実がある(たとえば昭和期に入っても1928年に1,153人、また1937年から1941年まで1,000人を下回ることがなかった)。海軍で患者が大幅に増加した理由として、次のことが挙げられる。兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質と炭水化物の比例の失衡)の誤りの影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))である。
第二に、鴎外が陸軍の脚気惨害を助長したという批判に対し、次のような見解がある。まず、陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う野戦衛生長官(日清戦争・
石黒忠悳、日露戦争・
小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問である。次に、鴎外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。最後に、鴎外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したという批判については、兵食試験の内容(当時として正しい試験で正しい結論)を把握せず、しかもビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世への暴論である。ただし兵食試験の成績は、上官の石黒によってゆがめられた。その誤用を看過したことは、階級社会の軍隊でも、部下の鴎外に責任がまったく無いといえない。
以上より、鴎外が脚気問題で批判される多くは、筋違いのものとされる。その筋違いの批判が起こった理由として、海軍の兵食改革を批判しすぎたこと、論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと、上官の石黒に同調して利用されすぎたことが挙げられる。
年譜
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1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。
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1867年(慶応3年・6歳) - 11月、村田久兵衛から論語を学ぶ。
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1868年(慶応4年・7歳) - 3月、米原綱善から孟子を学ぶ。
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1869年(明治2年・8歳) - 藩校である養老館で、四書を一から読み直す。
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1870年(明治3年・9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。
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1871年(明治4年・10歳) - 藩医である室良悦から、本格的にオランダ語を学ぶ。
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1872年(明治5年・11歳) - 6月、父とともに向島小梅村へ上京。その後、向島曳舟通りに移る。ドイツ語習得のため、本郷の進文学社に入る。
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1873年(明治6年・12歳) - 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。
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1874年(明治7年・13歳) - 1月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)へ入学。後に東京医学校へ名称が変更される。
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1877年(明治10年・16歳) - 東京医学校は東京開成学校と合併し、東京大学医学部へ。そして、鴎外は本科生に。
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1880年(明治13年・19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」へ移る。翌年3月、下宿先で火災に遭う。
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1881年(明治14年・20歳) - 春、肋膜炎にかかる。7月、東京大学医学部を卒業。文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。その後、明治政府に仕える。9月、「読売新聞」に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務に就く。
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1882年(明治15年・21歳) - 2月、第一軍管区徴兵副医官になり、従七位の勲等を授かる。5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。
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1884年(明治17年・23歳) - 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。8月、横浜を出航。10月、ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などから学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
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1885年(明治18年・24歳) - 1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を書く。5月、陸軍一等軍医へ昇進。10月、ドレスデンへ移り、軍医監ロートに就く。
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1886年(明治19年・25歳) - 3月、ミュンヘンに移る。大学衛生部へ入学し、ペッテンコーフェルから衛生学を学ぶ。
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1887年(明治20年・26歳) - 4月、ベルリンへ移る。5月、北里柴三郎とともに、コッホを訪ね、衛生試験所へ入る。
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1888年(明治21年・27歳) - 3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務に就く。9月、日本へ帰国。10月、陸軍大学校教官へ就任。12月、『非日本食論将失其根拠』を自費で出版。
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1889年(明治22年・28歳) - 1月、『東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞で『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。5月、東京美術学校専修科美術解剖学講師に就任。8月、訳詩編『於母影』を「国民之友」に発表。10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。
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1890年(明治23年・29歳) - 1月、『医事新論』を創刊。「舞姫」を「国民之友」に発表。8月、「うたかたの記」を「しからみ草紙」に発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。9月、長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚。10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。そこを、鴎外は「千朶山房」と呼ぶ。
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1891年(明治24年・30歳) - 1月、『文づかひ』を刊行。8月、医学博士の学位を授与される。9月、「山房論文」を「しからみ草紙」に発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす。
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1892年(明治25年・31歳) - 7月、小説翻訳集『美奈和集』を春陽堂から刊行。8月、医学、文学の論争からしばし離れて、休息を取るために「観潮楼」を建設。11月、アンデルセンの「即興詩人」を「しがらみ草紙」に連載。
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1893年(明治26年・32歳) - 11月、陸軍一等軍医正(大佐相当官)になり、軍医学校長に。
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1894年(明治27年・33歳) - 8月、日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)へ上陸。10月、広島に執務後、11月大連へ上陸。
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1895年(明治28年・34歳) - 5月、日清講和条約成立に伴い、日本(宇品)に帰国後、台湾へ赴任。8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になる。9月、日本に帰国。
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1896年(明治29年・35歳) - 1月、「めさまし草」を創刊。3月、幸田露伴、斎藤緑雨らとともに「三人冗語」を「めさまし草」に連載。4月、父静男死去。
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1897年(明治30年・36歳) - 1月、中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに「公衆医事会」を設立、「公衆医事」を創刊。
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1898年(明治31年・37歳) - 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。]]
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1899年(明治32年・38歳) - 6月、第十二師団軍医部長になり、九州・小倉に赴任。
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1902年(明治35年・41歳) - 1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。3月、東京に転勤。
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1903年(明治36年・42歳) - 1月、長女茉莉誕生。
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1904年(明治37年・43歳) - 2月、日露戦争開戦。4月、第2軍軍医部長として、宇品から、中国へ渡る。『うた日記』を書く。
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1905年(明治38年・44歳) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。翌年、1月帰国。
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1906年(明治39年・45歳) - 6月、山県有朋らとともに歌会「常磐会」を設立。賀古鶴所らとともに幹部に。
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1907年(明治40年・46歳) - 3月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと「観潮楼歌会」を開く。6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。8月、次男不律誕生。10月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。
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1908年(明治41年・47歳) - 1月、弟篤次死去。2月、次男不律死去。5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。
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1909年(明治42年・48歳) - 3月、「スバル」に、口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。5月、次女杏奴誕生。7月、文学博士の学位を得る。『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。
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1910年(毎時43年・49歳) - 2月、慶應義塾大学の文学科顧問となる。
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1911年(明治44年・50歳) - 2月、三男類誕生。5月、文芸委員会委員になる。9月、「雁」を「スバル」に連載。
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1912年(明治45年・51歳) - 1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。10月、鴎外にとって、初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を「中央公論」に発表。
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1913年(大正2年・52歳) - 1月、「阿部一族」を「中央公論」に発表。
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1914年(大正3年・53歳) - 1月、「大塩平八郎」を「中央公論」に発表。2月、「堺事件」を「新小説」に発表。
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1915年(大正4年・54歳) - 1月、「山椒大夫」を「中央公論」に、「歴史其儘と歴史離れ」を「心の花」に発表。11月、大嶋次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の研究を始める。
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1916年(大正5年・55歳) - 1月、「高瀬舟」を「中央公論」に、「寒山拾得」を「新小説」に発表。「渋江抽斎」を「日日新聞」に連載。3月、母峰子死去。
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1917年(大正6年・56歳) - 12月、帝室博物館総長に就任。高等官一等に叙せられる。
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1918年(大正7年・57歳) - 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。
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1919年(大正8年・58歳) - 9月、帝国美術院の初代院長に就任。
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1920年(大正9年・59歳) - 1月、腎臓を病む。
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1921年(大正10年・60歳) - 6月、臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。
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1922年(大正11年・61歳) - 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。6月29日、萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月9日、午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される。
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1927年(昭和2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。
主な作品
小説
戯曲
翻訳
史伝
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渋江抽斎(1916年1月 - 5月、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」)
家族 親族
妻子
- 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)
- 長男 於菟(おっと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
- 後妻 - 志け
- :小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌「青鞜」の賛助員になっている。
- 長女 森茉莉(まり、随筆家・小説家)
- 次女 小堀杏奴(あんぬ、随筆家)
- 次男 不律(ふりっつ、夭折)
- 三男 類(るい、随筆家)
4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。
弟妹
- 弟 森篤次郎(三木竹二)
- : 明治期を代表する劇評家で、内科医。演劇雑誌「歌舞伎」を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』岩波文庫、2004)。
- 妹 小金井喜美子
- : 明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999。『森鴎外の系族』岩波文庫、2001)。
- 義弟 小金井良精
- : 喜美子の夫。初期の文部省派遣留学生(鴎外の前年に留学)。24歳で帰国し、27歳のとき高給の外国人教師に代わって東京帝国大学医学部教授に就任。
傍系
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西周
- : 鴎外の曾祖父の次男、森覚馬が西家を継いで生まれた子で、幕末明治維新の西洋法学者。上京後の一時期、鴎外少年は西周邸から進文学社に通学した。
系譜
玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎
┣篤次郎
┣喜美子
┗潤三郎
その他
- 常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。
- 軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。得意満面の鴎外を、あこがれの目で見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげると、「なーんだ、軍医かあ」と言いながら子供たちは散ってしまった。あとには呆然として立ち尽くす父娘が残され、がっかりとした鴎外は帰宅するまで、一言もしゃべらなかったという。
- 鴎外が軍医総監にまで上り詰めた背景には、長州閥との接触にあった。鴎外の出身地である津和野は石見の中でも長州と関係が深く、
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1892年に東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。
- 細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、どんな食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。その一方で、風呂嫌いでもあった。
- 大の甘党でもあり、娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭を茶漬けにして食べていたという。これは潔癖症も原因で、食品を砂糖漬けにしたり、熱湯をかけたりすれば細菌は死滅するから、という考えもあったようだ。
関連項目
<!--以下、「森鴎外」へのリンクなし
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飛行機 - 森鴎外が初めてこの単語を考案、使用した。
脚注
参考文献
- 池内健次『森鴎外と近代日本』ミネルヴァ書房、2001。ISBN 4-623-03559-X
- 猪瀬直樹「元号に賭ける」『天皇の影法師』著作集10、小学館、2002。ISBN 4-09-394240-4
- 植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』 新潮選書 2000年
- 金子幸代『鴎外と〈女性〉』大東出版社、1992年。ISBN 4-500-00588-9
- 金子幸代(編・解説)『鴎外女性論集』不二出版、2006。ISBN 4-8350-3497-X
- 小平克『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』同時代社、2006。ISBN 4-88683-577-5
- 小堀杏奴『晩年の父』岩波文庫、1981。ISBN/ASIN 4003109813
- 小堀桂一郎『森鴎外 批評と研究』岩波書店、1998。ISBN 4000252836
- 末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008。
- 長島要一『森鴎外 文化の翻訳者』岩波新書、2005。ISBN 4-00-430976-X
- 新関公子『森鴎外と原だ直次郎』東京藝術大学出版会、2008。
-
平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄 編『講座 森鴎外』第一巻〜第三巻、新曜社、1997。
- 松本清張『両像・森鴎外』文春文庫、1997。ISBN 4-16-710684-1
- 森まゆみ『鴎外の坂』新潮文庫、2000。ISBN 4101390223
- 山崎國紀『評伝 森鴎外』大修館書店、2007。
- 山下政三『鴎外森林太郎と脚気論争』日本評論社、2008。
- 吉村昭『白い航跡』上下、講談社、1994。ISBN 4061856790(上) ISBN 4061856804(下)
外部リンク
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