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邪馬台国

邪馬台国(やまたいこく)は、『魏志倭人伝』などに出てくるである。

概要

「やまとこく」、「やまだいこく」などとも呼ばれる。また、耶馬台国とも記述される。
弥生時代23世紀日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。
邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70〜80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王封号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。
邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。

「魏志倭人伝」中の邪馬台国

以下は「魏書」東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に記述された邪馬台国の概要である。諸説あり、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らない。

邪馬台国までの道程

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島北部に当時あった郡から邪馬台国に至る道程が記されている。
倭国に至るには、帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。また海を1,000余里渡ると末盧国に至る。東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。
漢書で一般的な1里=約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立って直線距離で考えると、上陸地点から陸行500里の伊都国は、九州北岸から200km東南の宮崎県=日向としか読めない。(江戸時代以前の国学者は、そう考え、後の耶馬台国までの記事は誤記と考えた) そこから単純に100里+100里=200里が不弥国(大隅半島付近?)と考えると、さらに10日南に水行する邪馬台国なるものは日本列島を飛び越えて太平洋上になってしまう。このため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。

邪馬台国の政治

邪馬台国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70〜80年を経たころ、霊帝光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。
女王は鬼道によって人心を掌握し、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もまず男王が立っていることから、これは疑わしい。
邪馬台国の人口は7万余戸。長官は伊支馬で、次に弥馬升、その次に弥馬獲支、次に奴佳碑。
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり、特に男王卑弥弓呼が治める南の狗奴国とは不和で戦争状態にあった。
邪馬台国の北方の諸国には一大率(一支率)という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率の役所は伊都国にあり、魏の刺史のような役目を果たしていた。伊都国は外交の中心地で、魏や韓の国々の使節や通訳は、ここに停泊して文書や贈物の点検を受け女王に送っていた。
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。
女王は景初2年(239年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹与(台与)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壱与を諭しており、壹与もまた魏に使者を送っている。

魏・晋との外交

「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
  • 景初2年(238年)、6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。悦んだ皇帝は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
  • 正始元年(240年)、帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
  • 正始4年(244年)、女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした。
  • 正始6年(246年)、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
  • 正始8年(248年)、女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
  • 女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹与で、魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。

風俗

魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。
  • 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
  • 男子は冠をつけず、髪を結ってをつくっている。女子はざんばら髪。
  • 着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
  • 兵器は、木を用いる。
  • 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
  • 人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
  • 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
  • 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
  • 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
  • 女は慎み深く嫉妬しない。
  • 盗みはなく、訴訟も少ない。
  • 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
  • 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。

邪馬台国のその後

3世紀半ばの壱与の朝貢を最後に、義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国と後のヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。

邪馬台国に関する論争

邪馬台国があったとされる根拠は、「魏志倭人伝」に残されている(参照→Wikisource)ほか、これ以外の中国の史書にも記載がある。ただ、史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、その書物が記された時代の音読として「やまたいこく」が正確かどうかも統一的な理解はない。また、日本国の正史である「古事記」や「日本書紀」に、邪馬台国や卑弥呼の実像を明確にするには記述が不十分であることなどから、その場所や大和朝廷との関係について長期的な論争が続いている。
この論争が始まったのは、江戸時代後期、新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」という立場から、「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州)にあった小国であり、卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長であると説いた。これ以来、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。ここでは、邪馬台国をめぐる様々な論争を紹介する。

邪馬台国の音

「邪馬台国」は「やまたいこく」と読まれるのが現在では一般的である。この「邪馬台」を「やまたい」と読んだのは国学者の本居宣長が最初であると考えられている。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「やまと」と読んでいたことがわかる。しかし本居宣長は国学の立場から大和朝廷との同一性を否定し、あえて「やまたい」と読んだ。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、必ずしも正確な読み方ではない。ましてや古代中国の『三国志(魏志倭人伝)』が記された時代に、どう読まれていたかも正確なところは不明である。
『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では「魏志にいう邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」となっている。表記のぶれをめぐっては、「壹」を「臺」の誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いなかったとする説などがある。
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。しかし、「邪馬壹國」は「やまいこく」であり、「やまと」とは別の国であるとする説も在野に根強く残っている。また、古い日本語では同一語根内に母音が連続しないことから、やまい(ya・ma・i)は不自然とする意見もある。

位置に関する論争

邪馬台国の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。古くは『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代北畠親房らも同様の主張をしてきた。江戸時代には、新井白石本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表した。明治時代に入って論争が始まり、多数の説が提唱されてきた。これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。もともとは学者間の論争であったが、1967年に発表された宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(講談社)という書籍によって邪馬台国論争は「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及した。

二大仮説

邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は畿内説」九州説」の二説に大きく分かれている。九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。
概論
かつて、畿内説は「魏志倭人伝」の方角表記が誤っていると考える研究者(「連続説」、主に京都大学系)に多く見られ、九州説は距離表記が誤っていると考える研究者(「誤記説」、主に東京大学系、白鳥庫吉及び内藤湖南を参照)あるいは榎一雄に代表される「放射説」を取る研究者に多く見られた。また、最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「魏志倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。
畿内説で用いられる「連続説」(連続読み)とは、魏志倭人伝に記述されている方角や距離に従って比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対馬国・一支国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。一方、九州説で用いられる「放射説」(放射読み)は、伊都国までは連続読みと同じだが、その先は伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。
なお、宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。
また、近年の考古学的成果、特に年輪年代学による新しい年代観により、大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代の2世紀頃までさかのぼるとの説が有力になっている。これを踏まえ、現在ではプレ大和王権と邪馬台国と直接結びつくのか(あるいは初期の大和王権と邪馬台国が同一のものなのか)が論争の焦点となっている。他方、新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成されているために、独立した検証が不十分なためである。
畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち大和王権がこの時期既に成立していたとの見方ができる。
一方の九州説の立場を取ると、邪馬台国は九州の地方王権に過ぎないことになり、3世紀に大和王権が存在していたかどうか疑わしくなる。邪馬台国の位置を巡る論争は、日本国家の成立を解き明かす上でも重要な位置を占めている。
畿内説
畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。
  1. 年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期〜古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。
  2. 吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること。
  3. 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
  4. 卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること。
  5. 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
  6. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
  1. 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する。
  2. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。
  3. 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読めること。
かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
  1. 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊が「全て漢鏡ではない」と発表していることなどから、九州説の側から「全て偽作である」という反論を受けている。。
  2. 邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説もあるが、大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
九州説
九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。
  1. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。
  2. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。
  3. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を棺と見なす見解に基づき、北九州地方に棺が多数出土していること。
  4. その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。
  5. 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権のあずかり知らないことであるとするものがある。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
  1. 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと。
  2. 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
  3. 古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。
  4. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと。
  5. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したのものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
    1. 現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
    2. 紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
    3. の年号である「青龍3年」、の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
    4. また三角縁神獣鏡を、の鏡またはの工人の作であり、の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしもの作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。
    5. また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。
  6. 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
    1. 放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
    2. 仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
  1. 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
    しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
    また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。

それ以外の説

上記の二大説に加えて、吉備出雲四国尾張千葉県甲信越岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ケ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。
それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」にまとめられている。
一方、『魏志』の記述を元に候補地を探す諸説に対し、そもそも記述に作為があるため、それをもとに邪馬台国の位置を探るのはナンセンスである」という指摘もある。

注釈

関連項目

外部リンク

題材創作

  • 手塚治虫の『火の鳥 黎明編』(1967年)は邪馬台国を舞台としている。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、そこまで海を渡る描写があるため、畿内説とも解釈できる)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族に滅ぼされた。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の天皇家の始祖と解釈している。
  • 安彦良和の『ナムジ』(1989年-1991年)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主)を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の『神武』(1992年-1995年)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征ヤマト王権の祖となる東遷説を採っている。(この漫画は、原田常次のトンデモ学説の影響を大きく受けていると、偽史研究家の原田実は著書、「トンデモ日本史の真相」で述べている)
  • 作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画『雷火』(1987年-1997年)は、邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
  • 矢吹健太朗による漫画『邪馬台幻想記』(1998年-1999年、連載前の読みきり分を含む)。卑弥呼亡き後、その意思を継ぎ倭国統一を目指していた壱与(台与)と、国王を暗殺し国を滅ぼす「国崩し」を行っていた少年、紫苑との出会いと触れ合い、壱与を亡き者にしようと企む敵との戦いを描いている。短期打ち切りの為、様々な伏線を張っていたにも関わらず、その伏線を回収することなく唐突な終り方をしている。SF的な要素が強い作品。
  • 鋼鉄ジーグおよび鋼鉄神ジーグに登場する架空の国家「邪魔大王国」は、女王ヒミカ、ハニワ幻人など明らかに邪馬台国がモデルである。

邪馬台国論争関連書

  • 佐伯有清 『邪馬台国論争』 岩波新書 岩波書店 ISBN 4004309905

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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