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司忍

司 忍(つかさ しのぶ、1942年1月25日 - )は、日本ヤクザ指定暴力団・六代目山口組組長。弘田組組長、二代目弘道会総裁(初代会長)、司興業初代組長である。本名は篠田 建市(しのだ けんいち)。大分県大分市出身。

来歴

昭和17年(1942年)1月25日、大分県大分市で生まれた。
昭和33年(1958年)4月、大分県立水産高等学校(後の大分県立海洋科学高等学校)に進学した。
大分県立水産高等学校卒業後、地元の大手水産会社に就職し、トロール船の乗組員として働いた。しかし、水産会社からの給料が労働組合の保証する最低賃金を下回っていたことに立腹し、水産会社を辞めた。
その後、大阪に移り、工員として働いた。このころから、司忍は賭場に出入りするようになった。
昭和37年(1962年)、司忍は名古屋市に移住した。
昭和38年(1963年)、司忍は、弟分と一緒に賭場に出かけた。司忍は、賭場で、三代目山口組(組長は田岡一雄)鈴木組(組長は鈴木光義。中森光義とも名乗った)若頭・弘田武志と知り合った。
同年、司忍は、弘田武志から盃をもらい、弘田組(組長は弘田武志)組員となった。
昭和39年(1964年)1月 、「暴力取締対策要綱」が設置された。
同年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。 昭和40年(1965年)5月、弘田武志は、司忍を連れて、関西労災病院に入院中の田岡一雄を見舞った。
昭和41年(1966年)5月5日、鈴木光義がヤクザから引退し、鈴木組を解散させた。弘田武志が鈴木組を引き継ぎ、弘田組を結成した。弘田武志は、山口組直参となった。その後、弘田武志は、司忍を、弘田組若頭に据えた。司忍は、司興業を設立した。このころ、司忍は、土井幸政(後の司興業若頭)と知り合い、若衆とした。
昭和44年(1969年)5月29日、弘田組若頭補佐・神谷光雄が賭博容疑で逮捕された。
同日、大日本平和会(会長は平田勝市)山中組(組長は山中武夫)小牧支部の組員2人が、弘田組神谷組(組長は神谷光雄)事務所に殴り込みをかけた。神谷組組員1人が殺害された。
同日、警察は弘田組神谷組事務所で現場検証中に、神谷組事務所で、日本刀と匕首3本を発見し、押収した。
同日、警察は、神谷組事務所に駆けつけた神谷光雄を、銃砲刀剣類所持等取締法(通称は銃刀法)違反容疑で逮捕しようとした。神谷光雄が激しく抵抗したため、警察は神谷光雄を銃刀法違反容疑と公務執行妨害の現行犯で逮捕した。
すぐに、弘田組佐々木組(組長は佐々木康裕)組員・?山清司(後の六代目山口組若頭)は、服役中だった佐々木康裕に面会し、大日本平和会山中組小牧支部への報復を相談した。佐々木康裕は、?山清司に、司忍に相談するように指示した。?山清司は、司忍、司興業(組長は司忍)若頭・土井幸政に相談し、大日本平和会山中組小牧支部への報復計画を練った。
その後、神谷組に殴り込んだ大日本平和会山中組小牧支部の組員2人は、大阪府警に自首した。山中組は、小牧支部事務所を閉鎖した。司忍は、神谷組殴り込みに対する報復の標的を、大日本平和会豊山一家(組長は豊山王植。大日本平和会春日井支部長)に変更した。しかし、豊山一家の組長および組員は、すでに姿をくらませていた。
数日後、土井幸政、?山清司、司興業組員、佐々木組組員の4人は、豊山王植の隠れ家を発見し、豊山王植を刺殺した。?山清司は懲役4年の実刑判決を受けた。豊山王植刺殺の現場指揮を執った土井幸政は、懲役13年の実刑判決を受けた。豊山王植殺害を指示した司忍は、殺人教唆で、懲役13年の実刑判決を受けた。 昭和50年(1975年)、?山清司は、佐々木組若頭に就任した。
昭和51年(1976年)、佐々木組は菱心会と改名し、?山清司は菱心会理事長に就任した。
同年、?山清司は、?山組を設立した。
昭和53年(1978年)、?山清司は、弘田組直参になった。
昭和55年(1980年)、?山清司は、弘田組若頭補佐に就任した。
昭和56年(1981年)2月、司忍が出所した。
同年7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里胃腸病院で、山口組若頭山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。
同年6月5日、山口組若頭補佐筆頭・山本広は、組長代行に就任した。
同年6月15日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣中西一男竹中正久中山勝正、溝橋正夫が主席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木道雄、溝橋正夫、北山悟、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍が、弘田組を引き継ぎ、弘道会を設立した。司忍は、?山清司を、弘道会若頭補佐兼渉外委員に据えた。
昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。 平成元年(1989年)4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中組竹中武組長は、態度を保留した。山口組若頭・渡辺芳則と山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。
同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。英組英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲男は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於小西音松伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
その後、?山清司は、弘道会若頭に就任した。
平成2年(1990年)6月28日午前2時すぎ、山波抗争が勃発した。 中京戦争の後、瀬戸一家運命共同会導友会稲葉地一家、平野一家は、中京五社会を結成した。
平成3年(1991年)、運命共同会の中の鉄心会の一部の組員が、運命共同会に対して、五代目山口組弘道会への移籍を求めた。運命共同会は、移籍を求めた鉄心会組員全員を破門にした。
同年1月26日、名古屋抗争が勃発した。 その後、運命共同会は瓦解した。また、中京五社会も、瓦解した。
同年3月、瀬戸一家・渡辺啓一郎総裁は、五代目山口組渡辺芳則組長から盃をもらい、山口組直参となった。
平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。
同年9月20日、司忍と山口組若頭補佐・滝澤孝は、山口組本部で行われる山口組最高幹部会に出席するために、大阪駅前のホテルを出発しようとした。司忍と滝澤孝の一行は、大阪府警曽根崎署の職務質問を受けた。このとき、司忍と滝澤孝に同行していた組員4人が、拳銃不法所持の現行犯で逮捕された。防弾チョッキを着ていた組員も、銃砲刀剣類所持等取締法(通称は銃刀法)違反容疑(共同所持)の現行犯逮捕されたが、その後処分保留で釈放された。拳銃不法所持の現行犯で逮捕された組員4人は、警察の取り調べに対して、司忍と滝澤孝の関与を否定した。
同年11月28日、大阪府警は、「司忍と滝澤孝が、ボディガードの組員4人に、応戦用の拳銃を所持させていた疑いが強い」として、拳銃不法所持の共犯容疑で、司忍と滝澤孝を指名手配した。
平成10年(1998年)5月25日、司忍は、大阪府警に出頭し、逮捕された。
同年9月、大阪地方裁判所(略称は大阪地裁)で、裁判が始まった。司忍は起訴事実を全面否認して、無罪を主張した。
平成11年(1999年)9月、司忍は、保釈金10億円を支払って、保釈された。
平成13年(2001年)3月14日、大阪地裁は、司忍に無罪判決を言い渡した。
同年3月26日、検察側は、大阪地裁の判決を不服として、控訴した。
平成14年(2002年)7月、大阪高等裁判所(略称は大阪高裁)で、控訴審の審議が始まった。」
平成16年(2004年)2月24日、大阪高裁は、司忍に、銃刀法違反で、懲役6年の有罪判決を言い渡した。司忍は、最高裁判所に上告した。
同年11月28日、山口組緊急直系組長会が開かれた。山口組執行部から、渡辺芳則の休養が発表された。山口組執行部が、合議制で、山口組を運営していくことが決定した。
平成17年(2005年)3月、司忍は弘道会総裁となり、再度弘田組を復活させた。
同月、?山清司は、二代目弘道会会長(兼?山組総裁)に就任した。
同年4月、?山清司は、山口組直参となった。
同年、弘道会総裁・司忍が、弘田組組長を名乗った。弘田組には実体がなかった。山口組には「1つの直系組織からは1人の直参だけ」という原則があったため、弘道会から司忍と?山清司の2人が同時に直参になれないためだった。
同年5月、司忍は、山口組若頭に就任した。
同年6月、?山清司は、山口組若頭補佐に就任した。
同年7月29日、五代目山口組・渡辺芳則組長がヤクザから引退し、司忍は六代目山口組組長に就任した。
同年8月7日、中野太郎がヤクザから引退した。中野太郎の代理人が、大阪府警に、中野会(会長は中野太郎)解散届けを提出した。
同年8月27日、司忍の六代目山口組の襲名披露が行われた。
同年9月、四代目國粹会が山口組に加入した。四代目國粹会・工藤和義会長は、山口組最高顧問に就任した。
同年8月、?山清司は、山口組若頭に就任した。
同年8月、司忍は、二代目健心会・江口健治会長、茶谷政一家・茶谷政雄総長をそれぞれ山口組直参にした。
同年11月、司忍は、木村會木村阪喜会長、大同会・森尾卯太郎会長、二代目小西一家・落合勇治総長をそれぞれ山口組直参にした。
同年11月24日、最高裁判所第1法廷は、二審の大阪高裁の判決を支持した。司忍の懲役6年の実刑判決が確定した。
同年12月、司忍は、四代目山健組・井上邦雄を、山口組若頭補佐にした。
平成18年(2006年)2月、司忍は府中刑務所に収監された。

脚注

参考文献

  • 芹沢耕二、鴨林源史『実録王道ヤクザ伝 山口組六代目司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9
  • 東史郎、二ツ木哲郎『実録王道ヤクザ伝 真説 山口組六代目司忍 飛翔編』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6672-8
  • 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
  • 山口組 50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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