産業革命(さんぎょうかくめい、英:
Industrial Revolution)とは、
18世紀から
19世紀にかけて起こった
工場制機械工業の導入による
産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。
市民革命とともに
近代の幕開けを告げる出来事とされるが、近年では産業革命に代わり「
工業化」という見方をする事が多い。ただし
イギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的意義を踏まえ、現在でも産業革命という用語が用いられている。
各国の事例については工業化を参照。
概要
イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および
市場としての
植民地の存在、
清教徒革命・
名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された
資本ないし資金調達が容易な環境、および
農業革命によってもたらされた
労働力、などが挙げられる。これらの条件の多くはフランスでもそれほど変わることはなかったが、唯一決定的に違ったのが、植民地の有無である。
イギリス産業革命は
1760年代に始まるとされるが、
七年戦争が終結し、アメリカ、
インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは
1763年の
パリ条約によってである。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった
地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは
近代世界システムにおける
ヘゲモニー国家の地位を決定づけたのである。
イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した。またイギリスに限らず
西ヨーロッパ地域では「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる
技術革新が存在した。そのため、そもそも「産業革命」のような長期的かつ緩慢で、唯一でもない進歩が「
革命」と呼ぶに値するか、という議論もある。
初期の軽工業中心のころを「第一次産業革命」、
電気・
石油による重化学工業への移行後を「
第二次産業革命」、
原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼ぶ立場があるが、このような技術形態に重きを置く産業革命の理解からは、「産業革命不在説」に対する有力な反論は出にくい。そのため、現在では産業の変化とそれに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、「
工業化」という言葉で表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」という言葉も使われている。
イギリスについて目を向ければ、
労働者階級の成立、
中流階級の成長、および
地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や
消費社会の定着など、1760年代から
1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。また
世界史に目を向ければ、最初の工業化であるイギリス産業革命を期に、
奴隷貿易を含む
貿易の拡大や、現在にも繋がる国際
分業体制の確立といった地球規模での大変化が始まったとも言える。
この世界規模での影響(負の側面も含めて)は、先行するプロト工業化などではなかったものである。そのため、産業革命は単なる技術上の変化としてではなく、また一国単位の出来事としてでもなく、より広い見地から理解される必要がある。
イギリス産業革命の前提条件
毛織物工業と資本
産業革命に先行して、イギリスでは新毛織物と呼ばれる薄手の
羊毛製品の製造が盛んであった。もともとイギリスでは
中世末期から毛織物が盛んで、
フランドル地方などに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれる。
その後、毛織物の主流は新毛織物へと変わり、当初イギリスはフランスや
ネーデルランドなどから新毛織物を輸入していたが、
宗教改革後の
スペインとの関係悪化により
輸入が停止すると、ネーデルランド独立戦争の混乱を避け大陸から逃れてきた
新教徒を集めて、自国での生産を開始する。
地方の地主、いわゆる
ジェントリたちがこの種の産業の担い手であったが、こういった
農村工業の進展はプロト工業化と呼ばれる。毛織物工業で蓄積された資本は、後に
綿織物工業に利用され、産業革命につながったとされるが、初期の綿織物工業にはそれほど大きな
設備投資が必要ではなく、毛織物の担い手であったジェントリ以外にも雑多な
職業の
人間が参入していたことが分かっている。彼らの多くは蓄積された資本ではなく、
借金によって必要な資金を賄ったといわれ、資本蓄積よりも柔軟な資金供給が当時としては問題であったとも言われる。
労働力
18世紀から19世紀にかけて、
西ヨーロッパにおいて一連の農業技術上の改革(イギリスでは特に
農業革命と呼ばれる)があった。休耕地を無くした四輪作の導入、
囲い込みによる集約的土地利用などによって、
食料生産が飛躍的に伸びた一方で、中小の農民は自営農から
賃金労働者に転落した。しかし、賃金労働者となったとは言っても、従来言われたように職を失い都市部に流入したわけではない。
農業革命による新農法は広い土地を必要としたものの、依然耕作のための人手も必要としており、自営農であった者たちは同じ土地でそのまま農業労働者となった言うのが正しい。むしろ食料生産の増加によってもたらされた
人口の増加によって、産業革命に必要な労働力は賄われたといえる。
この人口増加は、イギリスに限らず西ヨーロッパ全域でおこっており、人口革命とも呼ばれる。またこの他にも
アイルランドからの人口流入も労働力需要に応えたが、競争にさらされることとなった
プロテスタント系イギリス労働者との間に軋轢を引き起こし、
1780年に
ロンドンで発生した反
カトリック暴動の原因ともなった。
海外植民地
資本の蓄積にしろ、人口増加にせよ、イギリス固有というよりも
ヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われる様に、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりも
ヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。
フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスに無かったもの、つまり広大な海外
植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられた事からも産業革命における海外植民地の重要性を見て取る事ができる。
需要と市場保護
インド産
キャラコによって綿織物に対する
需要が生み出されたが、ほどなく産地を問わずキャラコの輸入は禁止された。この措置は国内綿織物産業の保護策として働き、国産綿織物の躍進へつながった。さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。
産業革命の進展
織機・紡績機の改良
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1733年ジョン・ケイが、
織機の一部分である
杼を改良した飛び杼を発明して織機が高速化された。これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の
糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。そのため、
1764年ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本(のちに16本に改良)の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であった。
1769年
リチャード・アークライトの水力紡績機を開発した。これは綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力では動かない大形の機械であったので、水力を利用したものである。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより、
大量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。
そしてこれらの特徴を併せ持った
サミュエル・クロンプトンのミュール紡績機が
1779年に誕生し、綿糸
供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとしてうまれたのがミュール紡績機であった。ミュールとは
ラバのことで、要するに
ウマと
ロバの長所を採ったという意味である。
これらを受けてアメリカのエドモンド・カートライトが
蒸気機関を動力とした力織機を
1785年に発明し、さらに生産速度は上がった。
製鉄技術の改良
繊維業とならんでイギリス産業革命の推進役となったのが
製鉄業である。イギリスでは既に16世紀頃から鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は製鉄には
木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに
木材が深刻に不足し、17世紀には
ロシアや
スウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。
しかし18世紀に入り、
コークス製鉄法がエイブラハム・ダービーによって開発されたことで状況は一変する。コークスは
石炭から作られ、イギリスには石炭が豊富に存在したからである。その後更に改良が加えられ、19世紀始めには良質の
鋼鉄も作られるようになった。
この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や
鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業機械は、海外へ輸出され、ドイツなどの工業化を進めることとなった。
動力源の開発
1785年、
ワットが蒸気機関のエネルギーを
ピストン運動から円運動へ転換させることに成功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で
過密による住環境の悪化を招くこととなる。
移動手段の発達
河川や既存の運河を利用できる蒸気船はともかく、蒸気機関車を利用するためには線路を敷設する必要があったため、その効果が現れるまで時間がかかったが1830年代後半になると鉄道網の整備が進み始め、1850年までには6000マイルの鉄道が開通した。これらの移動手段の発達は「交通革命」と呼ばれる。
関連事項
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諸国の産業革命
イギリス
世界初の産業革命を起こした国。ただし
イギリスで産業革命が起こった事によって、他国での自発的な産業革命の可能性が摘み取られてしまったとの理解も可能である。
一般的にイギリスにおける産業革命は1760年代から1830年代にかけて起こったとされ、自発的であるが故に産業革命は長期に渡っているが、先行する技術改良などを視野に入れて更に長い期間を「産業革命期」と見なす見方もあり、そのあまりの期間の長さから産業革命不在論などの論争も起こった。
当初は
アメリカを綿花の生産地としていたが、独立と
米英戦争を経て、アメリカが経済的に自立を始めると
インドを原料供給地とする様になる。この様にイギリスの産業革命は原料供給、市場ともに海外植民地の存在を前提としており、フランスとの植民地争奪戦において勝利を収めた事がイギリスにおいて産業革命が起こった要因の一つとなっている。
イギリスは繊維工業で世界的な覇権を握ったが、その後、19世紀後半の重化学工業への転換に遅れ後発の
ドイツやアメリカに猛追を受ける事となった。この要因として、軽工業での成功が大きかったため新規事業の必要性が少なかった事。また中小資本が無数に存在するという産業構造のため巨大資本を必要とする重化学工業への転換が遅れた事。国家的な政策の下、市場の保護と産業の育成が行われたドイツなどとは異なり、
自由主義の下、関税障壁などの保護政策が一切行われなかった事などが挙げられる。この状況に対して、イギリス産業界からイギリス帝国以外の地域からの輸入に対しては保護関税をかけるべきだとの声も上がり、
チェンバレンが中心となって帝国関税改革同盟などの団体を組織しキャンペーンを展開したが、
自由貿易を基本方針とするイギリス政府はこれを採用する事はなかった。イギリスは自らの繁栄を築いた自由主義によって自らの首を絞めたとの見方も可能であるが、帝国特恵関税の失敗の裏にはイギリスにおける
産業資本と
金融資本の断絶がある。諸外国の工業化への資本投下を進めていた金融資本にとっては、イギリスの市場を開放し発展を支えるほうが利益となったためである。
19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済は
貿易収支が赤字であったものの、
海運業や
保険業、
国際金融部門の手数料収入によりサービス収支が黒字であった。さらに、海外投資の配当や利子などの増加で所得収支が黒字であったため、
経常収支は黒字であった。
イギリスは最初の工業国であるが故に、世界の市場、特に軽工業製品で圧倒的なシェアを誇ったが、必ずしも他国の産業の発展を阻害した訳ではなく、上述の資本投下という形以外にも、高価・高品質な製品を輸出し潜在的な需要を生み出す事によって市場を拡大し、安価な低番手品の製造者であった新興工業国の
工業化に寄与していたという見方も可能である。
ドイツ
ドイツ関税同盟などを背景に経済的な領域を確立したドイツでも産業革命が起きた。イギリスの例と対比されることも多い。
- 銀行資本の出資による積極的な拡張投資:ハイペースな事業拡大
- 独占企業の発生:シェアと利潤の確保
- 研究に基づく技術革新:科学者との協力で技術を生み出す
化学や軍事の分野で成果を挙げ、イギリスと伍する大国になり覇権を争うこととなる。
アメリカ
南北戦争での勝利後、工業地帯である北部の
保護貿易による躍進で産業革命が起きた。広大な大陸の東西両端に大都市があるアメリカでは
大陸横断鉄道建設のブームにより産業化が進行した。また、各産業で独占企業が発生した。また、実業家への賞賛と羨望が、有能な人間を国内のみならず海外からも惹きつけたことが発展の大きな原動力となった。
日本
幕末に
佐賀藩で
反射炉が建設され、洋式の製鉄が始まった。また、
田中久重等によって蒸気船、蒸気機関車の雛型(模型)が作られ後に我が国における産業発展の礎となる。
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社会への影響
社会政治
大量生産により物価が下がった反面、単純な労働が増えることによって非熟練工でも可能な労働環境が生み出され、劣悪な環境での労働といった労働問題、都市のスラム化による衛生面の悪化などの社会問題の発生が生じた。
産業革命により工場労働が一般化し、
労働者階級が形成される事となった。階級意識に目覚めた労働者たちは第一回選挙法改正によって選挙権を与えられなかった事に反発し、
参政権を求めて
チャーティスト運動を展開した。
また資本主義の悪弊を是正しようとする
社会主義が生まれたのもこの時代である。チャーティスト運動は結局失敗に終わったが、高まる労働者の要求に1867年第二回選挙法改正が行われ、都市の労働者に選挙権が与えられる事となった。
都市化
工業化による都市への労働力の集積で、各地で
都市化が進行し、住環境の悪化、過密、
治安の悪化などの新しい社会課題を生み出した。
経済構造
産業革命により極度に発展した資本主義は、
金融資本と
産業資本の融合した
独占資本を生み出した。
独占資本は政治にも深く関与し、活動範囲としての「
市場」の拡大を政府とともに進めようと考えるようになる。当初の工業諸国は国内市場が貧弱で、貿易に依存せざるを得なかった事情もあり、
植民地は単なる原料供給地としてではなく、市場と余剰資本の投下先として見られるようになり、重要性が再認識される。こうして
帝国主義が生まれ、世界分割をめぐる二度の
世界大戦を引き起こす原因となった。
脚注
関連項目
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