参勤交代(さんきんこうたい)は、
各藩の
大名を定期的に
江戸に出仕させる
江戸幕府の制度である。参勤は一定期間主君(この場合は
将軍)のもとに出仕すること、交代は暇を与えられて領地に帰り政務を執ることを意味する。
名称
「参勤交代」が一般的。江戸に出仕(勤)した時は将軍にまみえる(覲)のが通例であるため、参勤は「参覲」とも書かれる。また、交代は「交替」と書かれることがある。
と書かれており、「参勤」と「交替」が用いられている。
沿革
起源
戦国時代には
戦国大名の一部は自身の居城の
城下町に服属した
武士を集めるようになり、
豊臣秀吉が
大坂城・
聚楽第・
伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった。1年ごとに行き来していた。
制度の完成
寛永19年(
1642年)には
譜代大名にも参勤交代が義務付けられ、原則として幕府の役職者を除く全ての大名が参勤交代を行うようになった。
その後
参勤交代制度は、8代将軍・
吉宗のときに財政窮乏を理由に部分的緩和が行われた時期を除き、江戸時代を通じて堅持された。
概要
寛永12年(1635年)の参勤交代制度のもとでは、諸大名は1年毎に江戸と自領を行き来し、妻子は人質として江戸に常住しなければならないと同時に、その旅費や江戸の滞在費を全て大名に負担させていた。ただし、
水戸徳川家などの一部の
親藩・譜代大名は、領地が江戸に近かったり領地が小さいことから、例外として交代を行わずに江戸に常駐し、“
定府”と呼ばれた。また、
交代寄合と呼ばれる格式の高い
旗本は大名に準じて参勤交代を行った。
参勤交代制度の目的は、諸大名に出費を強いることでその勢力を削ぎ、
謀反などを起こすことを抑止するためだったとされる。ただし、幕府としても本来の趣旨は軍役奉仕であったため、藩財政が破綻して軍役が不可能となることは、参勤交代の趣旨を根底的に否定する事になるため、
大名行列の制限を行うなどの措置を採っている。
参勤交代は軍役であるから、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れて江戸に出仕し、領地に引き上げねばならないため、移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫することとなった。
参勤交代のために、
街道や
宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって繁栄した。同時に、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の
文化が全国に広まる効果を果たした。例えば、
天保12年(
1841年)の
紀州徳川家11代藩主
徳川斉順の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁した。道中の
枚方宿では、準備のために七里飛脚や紀州藩士が藩主が到着する数ヶ月前から来宿したという。数千人規模の行列であり、その準備まで含めれば多額の出費であったことが窺われる。
御三家紀州候の大名行列は格式と威光を感じさせる大行列だったため、多くの農民が見物に訪れるほどであった。紀州候の場合でなくとも、行列の周辺への経済効果(出費等)や文化的効果(格式等)は大きかった。
それほどの財力の無い藩では、大きな宿場町を通過する際のみ、臨時雇いで
家来の「水増し」を行い、行列の威厳を保ちつつ、経費を節約したといわれる。
なんらかの事情で参勤交代が免除される事があり、これを“用捨”と言った。用捨が許される理由としては、居城の
火災、
飢饉、藩主の
病気、代替りなどがある。
参勤交代で江戸に
単身赴任する各藩の家臣はかなりの数に上り、この結果、江戸の
人口の約半数が武士となっていた。
脚注
参考文献
-
山本博文『参勤交代』(講談社現代新書、1998年) ISBN 4-06-149394-9
- 丸山雍成『参勤交代』(吉川弘文館日本歴史叢書、2007年) ISBN 978-4-642-06664-8
- 忠田敏男『参勤交代道中記 加賀藩史料を読む』(平凡社ライブラリー、2003年) ISBN 4-582-76463-0
関連項目