紅山文化の名は、
内モンゴル自治区の
赤峰市にある紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。
1908年、満蒙調査を行っていた考古学者の
鳥居龍蔵が発見し、
1935年に
濱田耕作(浜田青陵)や水野清一らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は
1954年、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
石器および陶器
紅山文化の主な遺跡は西遼河上流の支流、潢水および土河の流域に広がっている。その年代は現在から5000年以上さかのぼり、南の
黄河流域の
仰韶文化の中期および晩期に相当する。発見された
石器は
打製石器・
磨製石器・
細石器などであり、そのほとんどは農具で、石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。
紅山文化の陶器は、泥質紅陶および夾沙灰陶の2種類に分けられる。泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は煮炊きや食事などに使われ、紋様が刻まれた夾沙灰陶は食事の盛り付けなどに使われた。そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土している。紅山文化では
仰韶文化のような彩陶文化は発達しなかったが、
龍山文化の黒陶の洗練された造形には近いものがある。また後期の遺跡からは
青銅の環も発見されている。
生活
紅山文化では
農業が主で、家畜を飼育しての
畜産も発達しておりブタやヒツジが飼われた。一方では
狩猟や採集などで野生動物を狩ったり野草を採ったりすることもあった。
玉石と精神文化、牛河梁遺跡
紅山文化の墳墓からは、
ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。
ブタ、
トラ、
鳥のほか、
龍を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり、龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に
中原で始まった龍への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。
女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた。これらの像はおそらく神像であるが、現在の中国文化では類を見ないものである。
牛河粱で発見された記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる。
女神廟では彩陶も発見されている。付近の60以上の
墳丘墓も発掘が行われたが、これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られており、中から玉などの遺物も発見されている。近くの2箇所の丘の上には
ケアンが発見され、その近くには
石灰岩を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある。これらの墳丘墓の中からは龍や亀の彫刻が発見された。紅山文化ではいけにえが捧げられたという指摘もある。
仰韶文化初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも初期の
風水の証拠とされるものが見つかっている。牛河粱遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、
天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している。
遼河流域の文明
すでに長江流域から新石器時代の独自の文化(
長江文明)が発見されて
黄河文明中心の中国史に一石が投じられているが、黄河から北へ離れた
東北(
満州)の
遼河流域の地からも中国の精神文化へ繋がる文明が発見されたことは大きな反響を呼んだ。この後も、遼河流域から
興隆窪文化などの新石器文化が発見されている。
これに対し、韓国の一部では、満州にあった
扶余が
高句麗や
百済などを建国したという伝承に紅山文化が関連付けられている。これまで神話や伝説でしか存在しなかった「
古朝鮮」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている。
関連項目
脚注
外部リンク