株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、
タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。
愛称は「
エモやん」。あるいは「
エモさん」「
エモ」。最終学歴は
法政大学経営学部中退。
経歴
高校・大学時代
その後、
西鉄ライオンズからドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、
法政大学経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の
浜村孝であった。4番でピッチャーの自分が4位指名で、3番バッターの浜村が1位指名であることに納得できなかった、と江本は後に著書で語っている。大学時代は1年生の春からベンチ入りするも、
松永玲一監督の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ、半ば退部状態となった(のちに松永とは和解する)。法大の1年先輩には
田淵幸一と
山本浩二、同期には
六大学リーグで史上最多の通算48勝
山中正竹がいる。
社会人野球からプロ野球へ
期待の証に背番号
16を与えた野村監督のもと、移籍初年度の
1972年に背番号と同じ16勝をマーク。先発・中継ぎを無難にこなし、
1973年にはリーグ優勝に貢献した。優勝決定の試合では、最終回に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、
高井保弘を迎えたところでリリーフ、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで抑えの切り札
佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。
読売ジャイアンツが
V9を達成する
同年の日本シリーズでは
大阪球場での第1戦で3失点完投勝利。
1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。
阪神タイガースの
江夏豊と投げ合い、翌
1975年オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に
島野育夫も放出)。その際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、
1993年に江夏が
覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い、服役中も度々刑務所に面会に訪れて江夏をサポートするという間柄になった。
南海時代「ノムさん(
野村克也)のリードのせいで打たれた試合で腹が立ったのでベンチでノムさんをヤジった」とのエピソードがある。
阪神タイガースへ移籍
阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。
阪神では先発投手として活躍するも、
1978年オフに起きた
江川事件で巨人からトレード移籍してきた
小林繁にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人だったという。その後、
中西太監督の起用に不満を募らせ、
1981年8月26日の対
ヤクルトスワローズ戦で、
「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。
この「ベンチがアホ」発言について、本人は発言自体を否定している。また、江本同様プロ野球選手から芸能界へ転進した
板東英二も著書の中で「『ベンチがアホやから…』は江本の言葉を小耳に挟んだ記者による創作だ。江本はその記者に辞めさせられたようなものだ。辞めて結果が良かったから良いようなものの、もしそうでなかったらその記者は一生怨まれていただろう」と述べている。。
当時捕手だった
若菜嘉晴と、絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初、数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。
上記のように、現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきたが、実際には選手会長を務めたこともあるほど人望があり、決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり、根は真面目であったという。
現役引退、政界へ
その後政界入りし、
1992年7月の
第16回参議院議員通常選挙で
スポーツ平和党より、
参議院比例代表選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。かつて
清原和博が、初の
日本シリーズで日本一決定を目前にして守備中に泣いていたことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『
朝まで生テレビ』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。
自身が代表の政治団体「
エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての
総務大臣届出
資金管理団体として存続しており、政界を完全には引退していないことになる。また、政治家や言論人などとも交流が続いている。
政界引退後
2004年10月、
アメリカ合衆国の
独立リーグである
ノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で
2006年度からの
日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。
その後、
2005年4月にアメリカ独立リーグの
ゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加した
ジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである
京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている。
人物
落合博満を批判することが多い。
2007年の日本シリーズ第5戦で、8回まで
完全試合ペースであった
山井大介を9回に
岩瀬仁紀に交代させた落合監督の采配については、試合直後の『
ショウアップナイター』で「日本シリーズは個人記録を競っているわけではないので、全然おかしくはない」と語り、当然の判断であると評価したが、翌日の
産經新聞の記事では「他球団の監督だったら100%投げさせているだろう。投手も『行く』と言わなきゃ。あそこで続投させる監督は、プロ野球界全体のことを考えている監督。完全試合を達成していれば、野球に興味のない人まで関心を持ってくれるチャンスだった。それが野球人気につながっていくのに」とコメントしている。また、週刊誌のインタビューでも「たとえ、あの試合を落としたとしても、
ダルビッシュを使い切った日ハムに流れが変わることは絶対にない。
川上を残している中日が断然有利」と述べている。
-
とくダネで北京五輪野球日本代表を率いた星野仙一について「星野さんは現場、実戦から長く遠ざかっていた。実際、パリーグの試合なんてほとんど見てないでしょ。」と発言した。
- また、前述の通り東映で芽が出ない状態の時に、当時南海の監督であった野村克也が”あのひょろっと外人の様に背が高いピッチャー”と江本の事を目をかけたことが、南海へのトレードに繋がり、江本自身大成功を収めたことから、今でも野村の事を師と仰いでおり、オフの時を中心にトーク対談も少なくない。
- 趣味はバロック音楽鑑賞。好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演している。
年度別投手成績
タイトル・表彰
- 最多完封1回(1977年)
- オールスター出場4回(1974年、1976年、1977年、1979年)
背番号
-
49(1971年)
-
16(1972年〜1975年)
-
29(1976年〜1981年)
背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている。
プレースタイル
通算24
ボーク、1イニング3ボークは日本タイ記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に
広島東洋カープの
クリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973〜74年の2年間、ボークの取締りを極端に強化したことが大きく影響している。
王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。
エピソード
熊谷組在職中には、公共事業の入札に参加した事もある(『おれ、紆球曲球』より)。
著書
出演作品
映画・ドラマ
現在の出演番組
CM出演
ディスコグラフィー
-
あぶさん(セリフ・水島新司)c/w 暖炉(1973年)
- 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット
- 霜降り橋まで(1980年)
- アカシヤの面影(1982年)
脚注
関連項目
外部リンク