概要
日本を代表する
繁華街の一つで、日本でも最大級の繁華街を形成している。特に、高級商店街として、日本のみならず世界的にその名が知られている。「銀座」の名前は一種の
ブランドにもなっており、銀座の名前を冠したブランドも多く見られる。また、全国各地の
商店街にも、「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見られる。地名の由来は
江戸時代の
貨幣鋳造および
銀地金の売買を行った
銀座役所であるが、役所が
1800年に
蛎殻町に移転して以来、元の「新
両替町」の名称に代わり「銀座」として親しまれるようになりこの地名が定着した。
地理
東京都中央区の西部に位置し、西を
千代田区、南を
港区に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、江戸城外堀を埋め立てた
東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。
北東から南西にかけて町を貫く
中央通り(銀座通り)を中心にグリッド状の街区が構成されており、平行して
外堀通りと
昭和通りが、北西から東南にかけて
晴海通りといった大通りが町を貫いている。また、通りから通りへと抜ける
路地が多く点在し、銀座独特の空間を演出している。
区域
昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて
東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に
東銀座と呼ばれている。
一方、
数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄
丸ノ内線の
西銀座駅(現在の
銀座駅)があったりしたことから町名が銀座となった今でも広く
西銀座と呼ばれている(例:
西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。
区域・町名の変遷年表
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1869年(明治2年)5月
- :江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から四丁目が起立。
- :当時の銀座一〜三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。
-
1930年(昭和5年)3月4日
- :区画整理により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一〜四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五〜八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目〜八丁目とした。
- :この時点での銀座一〜四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、晴海通り、桜通りに囲まれた四角形にあたる。また、当時の銀座五〜八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形にあたる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。
-
1951年(昭和26年)8月1日
- :三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(二〜八丁目も同様)と改名した(埋め立ては1952年7月に完了した)。
-
1968年(昭和43年)10月1日
- :住居表示実施により、銀座西一丁目と銀座一丁目を統合し、これを改めて銀座一丁目(二〜八丁目も同様)として銀座西が消滅(ただし東京高速道路下にある店舗などは未だに何区に帰属するか確定していないため、暫定的に「中央区銀座西◎丁目地先」と名乗っている)。
-
1969年(昭和44年)4月1日
- :住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(二〜八丁目も同様)として銀座東が消滅。
隣接する地区
歴史
江戸時代
江戸時代以前、現在の
丸の内から
日比谷にかけて日比谷入江と呼ばれる海があり、その東には
隅田川の運んできた砂によって江戸前島という
砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に
駿府にあった
銀座役所が移転し、後の1800年に蛎殻町(現在の
日本橋人形町一丁目付近)に再び移転するまで、貨幣の鋳造が行われた。この場所はほぼ銀座二丁目にあたる。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった
能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、
槍や
鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。
1657年、
明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも
三十間堀川沿いの
河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
江戸時代の銀座は、
御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の
三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。
明治時代
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の
小売を中心とした町であったこと。そして、
京橋区という
下町にありながら、顧客は主に
山の手に住む
中産階級、
ホワイトカラーの人々だったということである。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた
浅草・
上野だった。一方、維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
大正・昭和初期
1923年
9月1日に発生した
関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて
東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、
昭和通りの整備、
晴海通りや
外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。また、全国各地に「○○銀座」と名付けられた
商店街も作られていった。その元祖は
戸越銀座と言われている。
震災後は、
東京駅の開業に伴う
丸の内の発展や
東京市電の整備などにより、
百貨店や
劇場、
喫茶店、
カフェーなどが次々と銀座にでき、震災恐慌や
金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けていった。昭和初期には、
アール・デコの影響を受けたモダンボーイ(
モボ)やモダンガール(
モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、町を散策する「銀ブラ」は全盛を極めた。なお、よく誤解されがちであるが、「銀ブラ」は「銀座をブラブラすること」ではなく、もともと
吉井勇、
菊池寛、
芥川龍之介等多くの文学者がカフェーパウリスタの「ブラジルコーヒー」を銀座で飲むことから、それが一般化し言われるようになった。この店は日本のコーヒー店の先駆けといわれるが、現在「あなたは本日、銀ブラを楽しんだ事を証明します」という、銀ブラ証明書というスタンプカードを発行している。
しかし、日本の戦争への介入にしたがって、銀座もその影響を受けるようになった。戦局の悪化にともない、
1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・
ネオンサインの消滅、
1944年には
警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。戦争末期の
1945年1月27日には銀座が初めて空襲を受け、多数の死者・重傷者を出した。爆弾は
泰明国民学校も直撃し、教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った。その後も、3月10日、4月28日、5月25日の空襲で、銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けた。
戦後
終戦後、
服部時計店、
松屋や東芝ビルなど、多くの商業施設が
連合国軍の
PXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、商店は
バラックや
露店で営業を再開した。
華僑・王長徳による一等地買占めが行われたのもこの時期である。
1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。
1951年に
GHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。
こうした再興の過程で、戦災を免れた建物が取り壊され、建物の高層化が進んだ。また、
1964年の
東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、
1949年の
三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧江戸城外堀、南端の
汐留川、北端の
京橋川を埋め立て、1964年に
東京高速道路が完成するなど、掘割は道路に化けていった。
こうして銀座は戦後復興を急速に進めたが、
1960年代より
新宿が
アングラ文化の中心地となり、銀座に代わって
盛り場としての地位を手にした。一方で、銀座は「斜陽」が叫ばれるようになった。
地域
人口
景観
銀座の建物は戦後復興の
1960年代までに建設されたものが多く、当時の
建築基準法により高さ31mに制限され、統一された
景観を形成してきた。しかし、老朽化した建物の建て替えに際して、多くの建物が
容積率制度の導入される
1964年以前に建設されたものであることから、建て替え前よりも小さい規模での建設を余儀なくされることや、建物の高層化により統一した景観が阻害されることを懸念した地元と
中央区が協議し、
1998年に地区計画「
銀座ルール」が制定された。ルールでは、道路幅に応じて高さ13〜56mにまで制限し、容積率も基準を800%、最大でも1100%とし、開発に大幅な制限をした。
そのなかで、
松坂屋が
森ビルと共同で松坂屋銀座店と隣の街区を合わせて大規模な再開発をする計画が浮上。また、ほぼ同時期に
歌舞伎座でも建て直しに伴う一部高層化の計画が発覚し、再び「銀座ルール」の見直しがされることとなった。
2006年に施行された新ルールでは、
昭和通りより西の銀座中心部では一切の例外を禁止して建物の高さを56mに抑え、今まで規定のなかった屋上広告についても最大で10mまでとした。
一方で、昭和通りより東では、区長が「文化等の維持・継承に寄与する大規模開発」と判断した場合に限って56mを超える建物の建設が許可されることになり、歌舞伎座の再開発は認められる見通しである。また、建物の建設に際して
建築確認の前に、「銀座街づくり会議」が選出した学者や地元商店主らによって構成された「銀座デザイン協議会」と建物のデザインや用途などについて協議することを求めている。
象徴
銀座の柳
現在では、「中央区の木」にも指定されている。
1874年に日本初の
街路樹として、
桜・
松・
楓が銀座通りに植樹されたが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、
1877年に湿地に生育する柳に植え替えられた。しかし、
1921年に車道の拡幅にともない
銀杏へと植え替えられた。しかし、銀座の柳に対する思いは強く、
1929年に発表された
西條八十作詞の『
東京行進曲』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。
1932年に
朝日新聞社の寄贈で再び銀座通りに再び柳が復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催された。その後も、『東京ラプソディ』や『
東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。
しかし、
1968年に銀座通りの
共同溝工事のために柳は伐採され、
東京都日野市の
建設省街路樹苗圃に移植された。しかし、その柳もどんどん枯れていき、
1984年には3本しか残っていなかった。それを知った地元商店主が柳の枝を譲り受けて挿し木を行い、自宅の庭などで育てたものを、銀座をはじめ、全国各地に植樹を行った。銀座に柳を復活させる運動は続いており、現在では
外堀通りや銀座柳通り、御門通りに柳が植えられている。また、外堀通りでは
2006年から毎年5月5日に「
銀座柳まつり」が開催されている。
経済
東京
都心部に位置する銀座は、
明治時代より商業の中心地として日本でも有数の繁華街を形成している。
商業地域は
銀座通り(中央通り)沿いの地域を軸とした銀座の西部、特に
晴海通りと交わる銀座四丁目交差点の周辺を中心としている。また、七丁目や八丁目周辺は
高級クラブや
飲食店などが立ち並ぶ地域となっている。
一方で、東銀座地域は企業の社屋などが立ち並ぶオフィス街となっており、
新橋演舞場のある六丁目から八丁目にかけては
新橋の
花街が形成されている。
商業
銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、
2002年の年間商品販売額は4088億2100万円で、東京都内では
新宿駅東口地域に次ぐ規模となっている。
明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期の
デパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが、業態は少しずつ変化していった。
1990年代のバブル崩壊以後は、
カラオケ店や
量販店などの
チェーン店の進出が進んだ一方で、海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた。
情報通信業
また、日本電報通信社(現・
電通)が銀座に設立されたことにより、広告原稿の受け渡しの利便性から
地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。このことから、現在でも地方の
テレビ局などが銀座に支局や支社を構えている。このほか、明治時代から社屋を構える
教文館や
実業之日本社や、1950年から1966年まで社屋を構えた
文藝春秋など、
出版社も多く見られる。
銀座に本社を置く企業
文化
明治時代、
煉瓦街建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地鉄砲洲に
外国人居留地があったために
舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの商品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。
食文化
食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。
1871年、「文英堂」(現・
木村屋總本店)が尾張町にて創業し、
パンの販売を始めた。また、
1895年には洋食屋の「
煉瓦亭」が開業した。銀座で調剤薬局を営んでいた
資生堂は
1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、
ソーダ水や
アイスクリームを売りだした。他にも、
1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど、銀座には様々な食文化が流れ込んだ。
1911年、
パリの
カフェを模した「カフェープランタン」が開店し、作家や画家などの
文化人の
社交場となった。その後も「カフェーパウリスタ」や「カフェーライオン」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、
文壇の議論が盛んに行われた。しかし、
関東大震災を境に関西資本のカフェーが進出し、カフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していった。昭和初期にはエログロナンセンスの流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。また、この頃に関西の
料亭の進出も相次いだ。
ファッション
服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は
化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献した。
関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけては
モボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であった
アール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。
1964年、
並木通りやみゆき通り周辺に「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していた
アイビー・ルックを少し崩し、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「
VAN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される
東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消した。
1990年代以降に、海外ブランドの進出が活発化し、並木通りを中心に多くの海外高級ブランド店が進出している。
文化施設
現在では、劇場や
映画館、
コンサートホールなどの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の
文化支援活動の一つとして開いているものが多いことである。また、
画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。
主な文化施設一覧
交通
銀座は
地下鉄網が整備されており、またJRの
有楽町駅や
新橋駅からも徒歩圏内にある。このため、1998年に行われた銀座への交通手段に関するアンケート調査では地下鉄利用者が半数以上を占め、JRの利用者も3割以上だったことから、大半が鉄道を利用して銀座へ来ていることが分かった。
道路
ちょうど銀座全域を首都高に囲まれた形になっており、直に利用する以外にも目印等の用途がある。
道路
- 南北に延びる道路を西からの順
- 東西に延びる道路を北からの順
首都高・出入口
鉄道
1950年代より地下鉄整備が着々進められ、西銀座駅の
丸ノ内線が開業したことを機に整備されてゆく。その一方で
都電は撤去されていった。
- 鉄道駅
建物・施設
銀座を舞台・背景とした作品
日本映画の黎明期から黄金期となる昭和20年・30年代まで、東京を代表する町として頻繁に銀座が登場。
参考文献
- 三枝進ほか『銀座 街の物語』(河出書房新社・2006年)
- 岡本哲志『銀座四百年 都市空間の歴史』(講談社・2006年)
関連項目
外部リンク