来歴・人物
教員をしていた両親の間に生を受ける。しかし父が
太平洋戦争にて戦死し、少年期は厳格な母の手一つで育てられた。
現役時代
1954年に西鉄に入団。期待の特大ルーキーだったが、フリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた
三原脩監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」と、その場でセカンドに
コンバートされた。三原は仰木の投げる球の回転があまりにも素直であると感じ、正二塁手の
宮崎要が37歳だった事を考慮して、転向を命じたという。
急造の
内野手であったにも関わらず好守備を見せ、1年目からレギュラーに定着、以降長きに渡り
中西太・
豊田泰光と共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。また当時から三原とは野球理論について議論を交わしており、ベンチで三原の横に座っては指導者としての基礎を学んだ。
1967年限りで現役を引退し、その後は2年間西鉄のコーチを務めた。
近鉄コーチ・監督時代
1987年オフ、
岡本伊三美監督の後任として監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「
10.19」で惜しくもリーグ優勝を逃したものの、翌
1989年にはオリックス、西武との三つ巴の接戦を制し、2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年
読売ジャイアンツを相手に行われた
日本シリーズでは、語り草となる3連勝後まさかの4連敗を喫し、チーム初の日本一をあと一歩のところで逃す。
その後は毎年Aクラスという成績を残すものの
1991年〜
1992年と2年連続西武との優勝争いに破れ、1992年をもって監督を勇退。近鉄監督時代には、
野茂英雄や
赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。
オリックス監督時代
1993年の1年間
ABC・
スポーツニッポンの解説者を務めた後、オリックスの監督に就任。これまで2軍暮らしを続けていた
イチロー、
田口壮の素質を開花させる。就任2年目の
1995年、チームを初(前身の阪急時代を含めると1984年以来11年ぶり)のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは
野村克也監督率いる
ヤクルトと対戦するが、1勝4敗でまたも日本一を逃す。翌
1996年にもリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは
長嶋茂雄監督率いる巨人と対戦。4勝1敗で勝利し、監督として初の日本一に輝いた。その後、リーグ優勝を果たすことはなかったが
1999年までAクラスをキープし続けた。
2001年限りで監督を勇退。様々な奇策による好采配は、恩師三原脩にならって「
仰木マジック」と呼ばれた。
その後
2002年から
2004年までABC、スポーツニッポン解説者を務めた後、
2005年に近鉄との合併によって誕生した新生オリックス・バファローズの監督として現場復帰。プレーオフ進出は惜しくも逃したが、3年連続最下位に沈んでいたオリックスを4位にまで浮上させた。シーズンオフ、球団から続投要請を受けるも、高齢と健康状態を理由に勇退。球団のシニア・アドバイザー(SA)に就任したが、それから二ヶ月後にこの世を去った。
晩年
仰木は
1990年代半ばに肺癌が発覚・闘病を続けていたが、生前誰に対してもこの事を口外することはなかった(ひょんなことから中西、
金村義明ら球界関係者が事実を知るも仰木に懇願され秘密にしていた)。
第2期オリックス監督就任時点で癌はすでに手遅れの状態まで進行していたのだが、「グラウンドで死ねたら俺は本望だ」と、病をおして1年間チームを指揮した。グラウンドでは病状を隠し気丈に振舞っていたものの、後半戦は過労によると思われる居眠りやベンチに腰掛けたまま動かないシーンも目立った。
2005年シーズン後半の
西武ドームでの試合の際には、球場の階段を自力で上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた程、誰の目にも明らかに体調を崩している様子が周囲からは確認されていたという。そんな仰木の体調を気遣い、監督の激務を懸念して、勇退を勧める球界関係者も多かった。
2005年シーズン終了から僅か二ヶ月後の
12月15日午後4時10分、
肺癌による
呼吸不全のため、福岡県内の病院で死去、。
法名は「仰崇院釋耀彬」。
仰木の死去の報に接し、同い年でプロ入り同期の
楽天イーグルス監督就任間もない
野村克也は「もう一度監督としてアイツと戦いたかった……」とコメントするなど、彼を悼む声は球界だけでなく各方面からも数多く寄せられた。
葬儀は仰木の意向により密葬にて営まれ、「天国に送る会」は
2006年1月21日午前11時から
スカイマークスタジアムで行われた。オリックスは、仰木の遺志を尊重して球団葬としなかった。また出身地の
福岡県中間市でも、神戸での会に日時を合わせ、友人らが「天国に送る会」を開いている。会の世話人には、西鉄時代の同僚だった
稲尾和久らが名を連ねた。
2004年、
野球殿堂入り。同年末に行われた受賞記念パーティーでのスピーチで「今日のパーティーでございますが、これは私の
生前葬だと思っております」と語っていた。
タイトル・表彰
年度別打撃成績
監督としてのチーム成績
※1 太字は日本一
※2 1988年から1996年までは130試合制
※3
1997年から
2000年までは135試合制
※4 2001年から
2003年までは140試合制
※5 2004年から136試合制
監督通算成績
- 1856試合 988勝815敗53分 勝率.548
- リーグ優勝3回、日本一1回
- Aクラス11回、Bクラス3回
エピソード
- 東筑高校時代は投手として活躍したが、元々内野手で急造投手だった事をあるインタビューで明かしていた。
- 実は初めから西鉄ライオンズに決まってたわけではなく、中日と南海から誘いをもらい、どちらかの球団とは契約寸前までいっていたのだが、地元の先輩から「地元の西鉄がいいよ」と進められた。(当時の本人の気持ちとしては不本意だった。)ある日、三原脩監督と会う機会があり、そこで色々話をしていくうちに心配などが無くなり入団を決めたという。
-
1955年
5月22日、松江でのトンボユニオンズ戦で、1試合6安打のパ・リーグ記録を作り上げた。この記録は2003年7月27日に城島健司(福岡ダイエーホークス)に並ばれたものの、依然としてリーグ1位タイ記録である。ちなみにオリックス監督時代に大島公一が1試合に5安打を打った次の打席で代打を出して変えてしまったことがある。
-
1958年オフにセントルイス・カージナルスが来日した際、全日本チームのメンバーとして出場した豊田泰光が、当時カージナルスの二塁手であるドン・ブレイザーからグラブを貰った。豊田が福岡に帰ってチームメイトにグラブを見せびらかすのを見て、仰木もしばらく手にとって眺めていたが、豊田が「もういいだろう。返せ」と言ってグラブを奪うと、グラブには墨で「5番 仰木」と書かれていた。そして「トヨさん、こりゃ二塁手のグラブばい」と仰木に言われた豊田は、泣く泣くそのグラブを仰木に譲ったという。
- 現役時代から、かなりの遊び人として知られていた。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督から「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。
- 監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と全く変わらない遊び人ぶりであった。西本幸雄監督の辞任後、毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながら、結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の私生活を球団首脳が不安視したからだと言われている。また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。
- 球界でもかなりの酒豪として知られ、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時には、連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に2人で空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。トレードマークであったサングラスは、実は二日酔い・寝不足の顔をごまかすためのものだったという説もある。
- 本人がそういう調子であった為、グラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習はかなり厳しく、走りこみの量は12球団一とされるほどだった。
- 温厚そうな外見とは裏腹にかなり気性が激しかった。近鉄監督時代は、代打を告げたとき、試合状況が読めておらず用意ができていなかった選手を殴り、ベンチの壁まで吹っ飛ばしたこともある。
- オリックス監督時代の1996年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用して話題となった。この時の打者は松井秀喜(当時:巨人)であったが、セリーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾(当時:ヤクルト)を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。
- 試合においても、勝利のためには無茶な投手起用を厭わない場面もしばしば見られた。そのため近鉄監督時代には権藤博投手コーチや吉井理人と、オリックス監督時代には山田久志投手コーチと対立していた。
-
野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮など、仰木が育てた選手にはメジャーリーグに挑戦した者が多い。しかもその全員が仰木のことを「師匠」「尊敬する人」と公言しており、イチローに至っては、キャンプ中の仰木に会うためだけにわざわざ宮古島まで出向いたほどである。その際記者の質問に「僕の唯一人の師匠ですから」と答えていた。また、近鉄時代は確執があると噂された吉井だが、近年は「仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」と語っていた。
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アメリカへイチローを激励しに行った時は、パンチパーマでサングラス、更にステテコ穿きという格好だった上に、恩師を前にしたイチローの態度が直立不動であまりに恐縮したものであったため、「イチローがジャパニーズマフィアに脅されている」と騒ぎになった。ただこの話は、金村義明のネタであるという説もある。
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パンチ佐藤に芸能界転向を薦めたのも仰木である。仰木は既にパンチが芸能界に向いていると見抜いており「お前は野球をやっても大成出来ないが、芸能人なら大成できるからやめろ」とストレートに戦力外通告したが、言われたパンチは怒るどころか「ハイ、辞めます」と二つ返事で答えていた。「土曜スペシャル」(テレビ東京系)で共演した時にパンチは「自分はあの時まだ現役続行出来ると思ったんですが」と語ったが、仰木は「お前を現役続行で使っても無理だった」と語った。
- 「イチロー」の名付け親と言われているが、登録名の変更のアイデアを進言した実質の名付け親は新井宏昌コーチであり、仰木はそれを承認しただけである。
-
自動車を運転しないため、球場へのアクセスは電車やタクシーを利用していた。近鉄時代には、新大阪駅近くの自宅マンションから地下鉄御堂筋線と近鉄南大阪線を乗り継いで藤井寺駅まで通っており、電車内でファンに声を掛けられることも多かった。近鉄時代最後の年となった1992年には、親会社である近鉄電車のダイヤ変更のイメージキャラクターに起用されている。
- 2001年10月5日、オリックス監督としての最後の試合(近鉄戦:グリーンスタジアム神戸)では、試合後オリックスの選手による胴上げに次いで、対戦相手である近鉄の選手たちからも胴上げをされた。
- 2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。その後、この2人のやりとりの口の動きを毎日放送のニュース番組「VOICE」が詳細に分析し、仰木が土山に、投球の判定について「コース、低いかな?」と尋ねた言葉を、土山が「投手、菊地原」と聞き違え、そこから「言ってもいない投手交代がコールされたとみられる」と報じた。ビデオには、仰木が身振りを交えてコースについて尋ねている様子が映っている。だが仰木自身は後にテレビ番組にて「(『投手・菊地原』と)言ったかもしれないなぁ」と土山を擁護するようなコメントをしている。
- 2005年7月16日の対ロッテ戦で、ランドール・サイモンのショートゴロの間に、谷佳知が本塁に突っ込み、アウトを宣告され、激昂した谷は球審の胸を突き飛ばし、そのまま掴みかからんばかりの勢いでつめより、仰木監督もベンチから飛び出し、猛抗議で暴言を吐いたとして、2005年シーズンで2度目の退場処分を受ける。仰木にとっては、これが最後の抗議・退場となった。70歳3ヶ月は退場処分の最高齢記録である。
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10.19のあった1988年の日本シリーズは西武が中日を4勝1敗で破っているが、その祝勝会で、清原和博がTVのインタビューに対して「これで近鉄に顔向けが出来る」と答えていることに「なんと男気のある選手なんだ」と非常に感激し、著書「燃えて勝つ」にもそのことを記している。また、この時の清原への好印象がオリックスへ誘う大きな要因になったとインタビューで答えている。
- 2005年にオリックスの監督として復帰した時にイチロー自身が「51番は監督につけてほしい」と勧めたが、「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられへん。」と断った(ただし、仰木自身は1970年に近鉄の守備走塁コーチに就任した際に51番をつけたことがある)。
背番号
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42(1954年途中)
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5(1954年途中 - 1967年)
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30(1968年 - 1969年)
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51(1970年)
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71(1971年 - 1992年)
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72(1994年 - 2001年)
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70(2005年)
著書
- 『燃えて勝つ―9回裏の逆転人生』(1990/03 学習研究社)
- 『勝つということ―対談・熱球交友録』(1997/03 集英社 鐘ヶ江管一共著)
鐘ヶ江は1991年、雲仙普賢岳火砕流発生時の長崎県島原市長。島原キャンプで西鉄が宿舎としていた旅館「国光屋」の主人であったことから、仰木をはじめとする当時の西鉄ナインと親交がある。
- 『勝てるには理由がある。』(1997/04 集英社)
- 『人を見つけ人を伸ばす―個性を発掘する人材活用』(2002/06 光文社 二宮清純共著)
参考テレビ番組
- 追悼緊急特別番組『人間・仰木彬』(2005/12 毎日放送 ディレクター:福井弘二他、プロデューサー:榛葉健、久保田泰史)
関連項目
※シニアアドバイザーの就任期間は約2か月のみ。