沖縄wikipedia検索はごーやーどっとネット検索

wikipedia検索
ホーム > wikipedia検索 > 吉田義男
wikipedia検索[吉田義男]

吉田義男

吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手遊撃手)。
現役時代は阪神タイガースでプレーし、引退後は3度にわたって阪神の監督を務めた。2008年現在、阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。監督退任後は野球解説者およびマスターズリーグ大阪ロマンズの監督を務める。
ニックネームは「よっさん」。フランスのナショナルチーム監督を務めてからは「ムッシュ」とも呼ばれる。甥の谷真一近鉄バファローズの元プロ野球選手。

経歴

アマチュア時代

旧制京都市立第二商業学校(京都二商)在学中、名古屋金鯱軍監督だった岡田源三郎や、阪急ブレーブス浜崎真二監督にその才能を認められるなど、プロから注目されていた。戦後の学制改革による京都二商の廃校に伴い新制府立山城高等学校に編入学。浜村淳山城新伍釜本邦茂毎日放送アナウンサー野村啓司は、高校の後輩である。 高校2年の夏の甲子園に出場するも、初戦で北海高等学校に敗退。 高校3年の夏の甲子園の府予選では決勝で平安高等学校に敗退。 立命館大学に進学するが、に中退し、阪神に入団。大学時代の同級生には長門裕之がいるが長門も中退。
阪神入団の経緯は、阪神スカウト・青木一三からの歓誘で、殺し文句は「藤村富美男さんが『君なら絶対プロでやっていける』と言っている」というものだった。しかしこの話は青木の創作で、藤村はおろか阪神の他の選手の誰も吉田のことは知らなかった。

プロ入り後

阪神では俊足巧打・好守の遊撃手として1年目から16年間不動のレギュラーとしてプレー。には生涯唯一の打率3割 (.318) を記録し、投高打低であった当時では奇跡といわれる179打席連続無三振を達成するなど、チームのリーグ優勝に大きく貢献。これはに小川亨に更新されるまでプロ野球記録であった(セ・リーグ記録としてはに藤田平によって更新されるまで存続)。
はコーチを兼任し、後継の遊撃手・藤田平の台頭を見届け、同年をもって現役を引退し、コーチも退任。球団にも残らなかった。これは村山実の監督就任が決まったためであると自ら明かしている。この際、球団を二分するほどの村山との確執がささやかれた。 現役時代の背番号「23」は吉田の引退後につけた選手は一人もなく、のちには阪神の永久欠番となった。

現役引退後

現役引退後フジテレビ関西テレビで野球解説者( - 、 - 。ただし阪神監督であった - を除く)としてまで出演。また、当時フジテレビアナウンサーだった岩佐徹とはその後も親交が深く、何度も野球中継で解説者・実況の間柄で共演を果たしている。
2度目のフジテレビ・関西テレビ解説者時代の1978年から1984年はプロ野球ニュースの解説を担当していた。

監督時代

1975年から1977年、から1987年、からの3期にわたり阪神の監督を務めた。

第1期

最初の監督は金田正泰の後を受ける形で就任し、監督としては異例ともいえる背番号1番をつけた(メジャーリーグのビリー・マーチンにならったもの)。最初の年はライバル巨人が低迷する中、初めて本塁打王を獲得した田淵幸一らの活躍によりシーズン後半まで広島中日と優勝を争ったが9月に脱落して3位に終わる。就任時に「走るチームにします」という抱負を語ったが、終わってみると2リーグ分裂後では当時最低となる31盗塁という皮肉な一面もあった。シーズン終了後、南海との間で江夏豊の放出を含む大形トレードを敢行した。
吉田によると、監督就任時に球団はすでに江夏をトレードに出す方針を固めていたが、吉田は再生を期して「結果を残せなければトレードもあり得る」と本人に言い含めた上で残留させた。しかしそのシーズンの成績がふるわなかったことからトレードが決まり、その際に「人事の話はフロントから言う方がいい」という長田球団社長の意向に従って吉田は「トレードのことは知らない」と言い続け、本人に直接伝えることはなかった。この点に関して、吉田は「江夏に申し訳ないことをした。自ら伝えるべきだった」と記している。
吉田は攻撃力を重視する方針を取り、マイク・ラインバックハル・ブリーデンの二人の外国人選手を獲得した。これに急成長した掛布雅之が加わり、1976年のシーズンはチームで193本塁打の当時のプロ野球記録を作る。一方、江夏が抜けた投手陣は交換で獲得した江本孟紀を先発に据えるとともに、山本和行安仁屋宗八の2人を「ダブルストッパー」として抑えに起用した。これらの戦力により、終盤まで巨人と激しい優勝争いを展開し、勝率6割を越えながら最後に2ゲーム差で力尽きた。守備で衰えの見えた田淵の処遇を巡ってヘッドコーチの辻佳紀と対立し、辻はオフに退団した。3年目の1977年は田淵の不調や投手力の不足から勝率5割を切る4位に低迷し、監督を退任した。

第2期

1985年、2度目の監督に就任。当初阪神が就任を依頼して固辞された西本幸雄と解説者として親交があり、野球観が共通しているというのが球団側の説明した理由であった。吉田はチームの潜在力は認めたが、今すぐに優勝争いができるとは考えておらず、初年度は基盤固めを目指す方針であった。
ところがチームは三冠王を獲得したランディ・バースを筆頭に4月から猛打を炸裂させて勝ち進み、21年ぶりの優勝という声が6月頃にはファンやマスコミの間で聞かれるようになる。吉田はそうした状況でも試合後のインタビューで「チーム一丸となって、チャレンジャー精神で戦うだけ」と言い続け、「チーム一丸」「チャレンジャー精神」はファンの間でちょっとした流行語になった。しかし、なかなか「優勝」の2文字を口にしないことに川藤幸三が苦言を呈し、選手に対しては8月下旬になってようやく「優勝しよう」と語ったという。
また、優勝のプレッシャーがないかと聞かれて「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」ととぼけたこともあった。また優勝マジックが1となった際には報道陣からの「これで王手ですね」「いよいよリーチですよ」との問いに対し「王手とリーチはどう違いますんかな?」と答えて笑わせていた。「阪神フィーバー」が社会現象と言われる盛り上がりの中、10月16日にリーグ優勝、日本シリーズでも西武ライオンズを退けて、阪神は初の日本一に輝いた。リーグ優勝と日本一のインタビューにおいては「ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれた」というコメントを連発した。
セ・リーグ新記録となる219本塁打などの猛打が注目される中、犠打も当時のセ・リーグ新記録、完投能力を持つ選手の少ない投手陣は細かな継投を駆使するなど、このシーズンは豪快さと手堅さを併せ持った采配であった。シーズン終了後に、阪神を優勝に導いた功績により正力松太郎賞を受賞している。
この年21年ぶりにリーグ優勝したことで、当時の久万俊二郎オーナーからは「吉田が自分から辞任しない限り永久に監督をやって欲しい」と言われた。このことから、吉田は麻雀では「久万」をもじって”「九万(チューマン)」だけは絶対に切らない”と言われた。
翌1986年は掛布がケガで戦線を離脱する中、バースが前年に続いて三冠王の活躍を見せ、チームは夏頃まで巨人・広島と首位を争ったが脱落して3位に終わる。投手起用を巡ってコーチの米田哲也と対立し、シーズン後に米田は退団した。前回監督時の経験から吉田は解説者仲間からコーチを起用し、「一蓮托生内閣」と称したが、再びコーチが途中で交代することとなった。1987年は2年前の優勝が嘘のような低迷にあえぎ、バースが雑誌のインタビューで監督批判を行う、打撃コーチ補佐の竹之内雅史が吉田と采配などで対立し退団するなど、チームの雰囲気は悪化した。
またマスコミとも険悪になり、試合終了後ロッカールームから出てきた吉田に向けたカメラのフラッシュに嫌気がさし、「傘(を)差したろか?」とつぶやいたコメントが翌日のスポーツ紙には「傘(で)刺したろか?」と歪曲されて報道され、激怒した吉田はしばらくマスコミ不信に陥った。シーズン終了後に退任。後任の村山の就任に当たって「祝」という見出しを付けた在阪のスポーツ紙もあったほどで、21年ぶりに優勝に導いた監督という功績は十分に顧みられない状況であった。
ただし、球団は退任に当たり吉田の現役時代の背番号を永久欠番に指定している。吉田は後に、初年度の優勝の影で本来の目的であった基盤作りができなかったことを指摘している。吉田は退任後「天国(優勝)と地獄(最下位)を体験した」として、「一蓮托生内閣」のコーチたちと「天地会」という親睦会を作った。現在はこの2つのシーズンを経験した他の阪神OBも加わっている。

第3期

退任から10年を経て、3度目の監督に就任。チームの戦力補強は思うに任せず、「(ユニホームの)縦縞を横縞に変えても」とFAでの獲得を目指した清原和博には断られ、3億円以上の年俸で獲得した外国人のマイク・グリーンウェルは5月に退団・帰国してしまった。それでも1997年は何とか3年連続の最下位は免れた。翌1998年、寅年にちなんで「阪神が優勝した」という仮定の上での優勝会見が、エイプリルフール4月1日日本外国特派員協会で開催された。壇上に置かれたコップの中身が水ではなく酒であるなど、あくまでギャグの会見で、吉田自身も「皆様1年間、応援ありがとうございました。こんなに嬉しいことはないです」「優勝したと言えと裏で言われるんですけれども、心が小さい私には、大変難しいんでございますが」「身に余る祝辞を賜りまして、穴があったら入りたい」などとジョークを飛ばし、外国人記者はもちろん日本人にも大受けであったが、その甲斐もなく同年チームは最下位に終わり、退任した。第3期の2年はどちらのシーズンも優勝決定戦の相手となる屈辱も味わった。これらの試合は全国ネットで中継され、1997年は16対1の大差をつけられるなど「弱い阪神」を多くの人に印象づける結果になった。
そんな中で、人材補強の面では在任中に今岡誠関本健太郎濱中治坪井智哉井川慶らを獲得し、今岡と坪井は吉田の監督時代にレギュラーに定着、他の選手も退任後に1軍選手として優勝に貢献した。

監督退任後

第3期監督退任後からは現在に至るまでABCの野球解説者と日刊スポーツの客員評論家を務める。
からまでの7年間、フランスで野球を教え、ナショナルチームの監督も務めた。かつてはハングリー精神をむき出しにするなど頑固な性格で知られたが、フランスから帰国後は監督賞を奮発したり、ユーモアのある発言をするなど温厚な性格として知られるようになり、解説者としてテレビ・ラジオに出演の際も天然ボケキャラのユーモラスな語り口や饒舌さが人気となって、『人気者でいこう!』などのテレビ番組でタレントとしても活動。「芸能人格付けチェック」に強く、「一流芸能人」の座を2回獲得して一流芸能人殿堂入りを果たした。
からまで野球フランス代表の監督を務めた。
野球殿堂入り。
から始まったプロ野球マスターズリーグでは、大阪ロマンズの監督を務めていたが、限りで他のチームの監督とともに勇退。

プレースタイル

華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」「史上最高の遊撃手」などありとあらゆる賞賛をうけ、その身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。その守備力は、17年間の現役生活で15度のリーグ最多守備機会を記録し、1試合15守備機会、シーズン94併殺など数々のリーグ記録、日本記録を更新した。
ゴールデングラブ賞設立以前の当時は、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていたが、吉田は9度も受賞している。三塁の三宅秀史、二塁の鎌田実と組んだ内野守備は史上最強といわれた。
「名手吉田」と呼ばれる陰には人知れぬ精進があった。入団当初、しばらくはグローブとボールとをいつも手元に置いていた。食事の合間にも、グローブからボールを離す動作を止めなかった。右手の指の感覚でボールの縫い目を瞬時に探す練習であった。こうして、プレー中も捕球からスローイングの敏捷な動作が生まれたのである。
当時監督だった松木謙治郎は、ボールをグラブにぶつける動作を繰り返したことで手首も強化され、非力だった打力の向上にも役立ったとしている。ただし、キャンプ等で相部屋となった選手は、吉田がボールをグラブに入れる「バシ」という音が四六時中繰り返されるため、閉口したという。
読売ジャイアンツ広岡達朗は学生時代から存在を意識した遊撃手のライバルであり、広岡は、当時は吉田の華麗な守備と常に比較されたため「はなはだ迷惑した」と語っている。吉田本人は「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にもおよばない」と語っているが、監督としても1985年の日本シリーズで広岡の率いる西武ライオンズに勝っている。
打撃も粘り強く、三振が非常に少なく、確実に進塁打を打つ能力に長けていたため、相手投手に嫌がられ、特に金田正一は、吉田とだけは対戦したくないと常々口にしていたほどである。4度のリーグ最多犠打、通算264犠打を記録している。また、に51盗塁、に50盗塁で2度の盗塁王に輝いた。阪神では20世紀最後の盗塁王である。通算350盗塁は長らく阪神の球団記録であるが、2008年シーズンに赤星憲広がこれに並び、2009年には記録を更新される可能性がある。

年度別打撃成績

  • 表中の太字はリーグ最高

タイトル・表彰

監督としてのチーム成績

※1 太字は日本一。
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制

監督通算成績

  • 1051試合 484勝511敗56分
  • Aクラス4回、Bクラス4回
  • リーグ優勝1回、日本一1回

背番号

著書

現在の出演番組

脚注

関連項目

※カッコ内は監督在任期間。

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.


Copyright© 2012 Goyah.net Inc. All Rights Reserved.