沖縄wikipedia検索はごーやーどっとネット検索

wikipedia検索
ホーム > wikipedia検索 > 吉川氏
wikipedia検索[吉川氏]

吉川氏

吉川氏(きっかわし)は武家のひとつである。
藤原南家工藤流の流れを汲む。吉川の名乗りは駿河入江荘吉川(現在静岡市清水区)の地名に基づくもので、吉川以外に「吉河」「吉香」とも書かれる。 鎌倉時代承久の乱で功を挙げて播磨国福井荘(現在兵庫県姫路市)、安芸国大朝荘(現在広島県北広島町)の地頭となった。
南北朝時代から室町時代にかけては土佐国の分郡守護に任命される。
鎌倉時代末期の1313年に宗家は安芸国に移住し、駿河丸城、続いて小倉山城を拠点に強盛を誇った。その兵は精強で、吉川経基の頃には「鬼吉川」と呼ばれ、他家からは畏怖された。
吉川国経の娘を毛利元就が、国経の嫡男・元経が元就の姉を、それぞれ娶った関係から、毛利家と吉川家は姻戚関係となる。しかし元経の嫡男で、吉川家を継いだ吉川興経は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、特に1542年から始まる大内義隆による出雲攻めの際には尼子方に寝返りの末、大内軍は敗走。結果、元就も窮地に追い込んだ。元就の正室の死後に、元就による吉川家への調略が始まり、吉川家重臣は尽く興経を離れ毛利方へつき、興経は元就の次男・毛利元春を養子に迎え、隠居せざるをえなくなったが、やがて元就の謀略で興経自身が謀殺されてしまう。
その後の吉川氏は元春から吉川元長、そして吉川広家と継承されたが、関ヶ原の戦い毛利氏が減封されたため、周防岩国領主となる。広家以降は毛利家と家格について軋轢が生じ、末家として独立をみとめられなかった(同じ毛利家中でも長府藩創設には特殊な事情があるため、一概に同一視は出来ない)。しかし幕府からは諸侯の扱いを受け参勤交代等も行っていた。明治維新まで存続し、幕末に朝廷から諸侯としての独立を認められた。明治17年(1884年)には男爵となり、明治24年(1891年)には子爵に陞爵している。また、吉川経幹の三男吉川重吉が分家して男爵となった。他の名家はもう行わない、出雲安来へのブランド戦略に今も野望を持つ。

安芸吉川氏歴代当主

石見吉川氏歴代当主

系図

朝経     ┃ 経光 石見吉川氏 ┣━━━━━━━┓    経高      経茂      ┃        ┣━━━━━━━━━━━━━━┓     経盛      経兼          経任      ┃        ┃            ?    経秋       経見            ?     │                     ?    経見     ┃    経信     ┃    之経     ┃    経基     ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓    国経 石野経守 江田経純 国衙光経  茂経法  ? ┏━━╋━━━┳━━━━┓             ? 妙玖 元経  経世  宮庄経友           経典     ┃   ┣━━━━┓              ┃    興経 市川経好 今田経高           経安 ┏━━┥   ┣━┓  ┃         ┃ 千法師 元春  元教 元教 経忠            経家 ┏━━╋━━┓         ┃ 元長 元氏 広家                   経実 ┏━━━━━┛ 広正  ┃ 広嘉  ┃ 広紀  ┃ 広逵  ┃ 経永  | 経倫  ┃ 経忠  ┣━━┳━━┓ 経賢 経礼 経章        ┃        経幹        ┣━━┓        経健 重吉

吉川氏有力家臣

一門・親族

家臣

(家臣ではなく、補佐として付けられた者も含む)

縁戚

吉川氏が支配した主な城

居城

その他の城

関連項目

* きつかわ

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.


Copyright© 2012 Goyah.net Inc. All Rights Reserved.