経歴
生い立ち
永禄4年(1561年)11月1日、
吉川元春の三男として生まれる。母は顔が醜いことで有名だったとされる(実際は不明「
香川正矩」参照)。幼少時は
織田信長同様「
うつけ」であり、父・元春を嘆かせたという逸話がある。杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。また、長じてからも所領が少ないことを理由として勝手に他家の養子になろうとし、両親の厳しい叱責を受けている。
元亀元年(
1570年)、父と共に
尼子勝久の討伐戦で初陣する。
天正11年(
1583年)、織田信長死後に天下人となった
羽柴秀吉の元へ、
毛利元就の九男で叔父・
小早川隆景の養子となっていた
小早川元総と共に人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利家の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。すぐに大坂から帰されたことから、名目的な人質だったと思われる。
吉川家当主
天正14年(
1586年)から天正15年(
1587年)にかけて父の元春、次いで兄の
吉川元長が死去したため、
告老家の当主となり居城
月山富田城と14万石の所領を継承した。当主となった後に毛利輝元より「広」の一字書出を与えられ、「
広家」と改名している。翌15年には秀吉の命で
肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。広家は勇将で知られた父や兄と違って狡猾な性質であり、秀吉からも元春・元長と
小早川隆景死後の
毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年7月25日、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。同年8月2日には、従四位下に昇叙し、侍従如元。しかし石田三成ら側近には評価が低かったのか、人質として出された広家の娘は一度も秀吉にお目見えを許されていない。
文禄の役、慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮した。
蔚山城の戦いでは籠城する
加藤清正の救援に赴いて
蔚山倭城を包囲した明将楊鎬の
明・
朝鮮軍を撃退する功をたてた。
関ヶ原の戦い
慶長5年(
1600年)の
関ヶ原の戦いでは、毛利氏の当主であった
毛利輝元が
石田三成、
安国寺恵瓊らによって
西軍の総大将とされた(広家は
徳川家康に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されたとされる)。外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても徳川加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である
福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で
黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。しかし一方では
安濃津城攻略戦では主力として奮戦し、長政が一時顔色を失う局面もあった。
さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋の両重臣の身内二人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を敵将の一人である黒田長政に送っている。
9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将
毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。あくまで西軍に加勢しようとする
安国寺恵瓊や
長宗我部盛親、
長束正家の使者が来訪するが、広家は(自身の軍勢が)「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して
「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
結果は家康率いる東軍勝利となり、合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には黒田長政、
福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としても毛利家もこれで安泰と感じたわけである。
毛利家改易の危機
ところが、10月2日になってから、黒田長政の書簡が届き、「家康からの毛利領安堵の密約は輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。ところが
大坂城から発見された西軍の連判状に輝元の花押があった。困った事だ。毛利の所領は没収のうえ
改易されるであろう」「貴殿の忠節は
井伊直政、
本多正信もよく承知しており、毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である」と、初めの約束とは裏腹に、毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後広家には
周防・
長門の二ヶ国37万石(29万石とも)を与えるとの沙汰があった。
広家はこの沙汰に対して、「私に対する御恩顧は忘れませんが、何卒毛利家という家名を残していただきたく願いあげます。輝元は今後、徳川氏に対する忠節に励むことでありましょう。万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます・・・云々」。広家のこの起請文は、徳川家首脳に毛利はもう逆らわぬとの安心感を与えたのだろう。10月10日になって、はじめて家康から輝元に対し、広家に与えられるはずであった
周防、
長門の二ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元、
毛利秀就父子の身命の安全を保障する旨の起請文が輝元に対してもたらされた。
中国地方10ヶ国を領する大大名毛利氏は、家康にとっては目障りな存在である。毛利氏解体は、家康が当初から目論んでいたことであろう。結果として、広家は最初から欺かれて主家を敗戦に導いたばかりか、改易の危機にまで晒したということになる。だが、広家の行動そのものは合戦前の7月15日に秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く、福原広俊・
宍戸元続・
益田元祥・
熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果を受けたものであった。とはいえ、広家としても、黒田長政や家康の重臣たちではなく、家康と直接内応の交渉を行わなかった事は手落ちであり、移封後は家政の第一線から退くことになる。
毛利宗家では関ヶ原後、このときの減封による減収を補うための検地に端を発する山代慶長一揆、吉見就頼の反乱など、減封にともなう混乱が起こっている。
岩国領主
防長への
転封を受諾した毛利氏は、山陰の一隅
萩に本拠を置いた。藩内を分割して、
長府、
徳山の分家、(のちに
清末の孫家が加わる)と岩国吉川領を置き、広家には本拠地萩からもっとも遠く東の守り、本家および直系一門の盾の位置となる
岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となった。岩国以外の三家は支藩として正式に諸侯に列せられたが、広家は傍系であったため(吉川家にあっても広家の上には次男
繁沢元氏が存在した)藩とされず、家臣として扱われた。しかし家康からは岩国築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受け、江戸に藩邸を構え参勤交代も行うと複雑な立場となった。この点、3万石、7万石の所領を持ちながら本家に支藩独立を認められず領主扱いであった
鍋島藩の支藩と類似する。この微妙な立場は
岩国城破却問題や二代目から十一代目までの岩国領主の肖像画が描かれないなど、吉川家に様々苦渋をなめさせることになる。
ちなみに、支藩筆頭の名誉を担った長府藩主は関ヶ原で総大将として布陣しながら広家の内通に出陣を阻まれた
毛利秀元である。秀元は幼少の
毛利秀就の輔佐のため毛利本藩の執政となり、筆頭重臣の地位にあった福原広俊と権力を争う事になる。福原は吉川広家に助けを求めている。広家は関ヶ原の一件を理由に表向きには動かなかったものの、反秀元派重臣の後ろ盾として動く事になる。慶長10年に熊谷元直粛清事件(熊谷事件)が発生するが、福原はこれを輝元とともに迅速に鎮圧するとともに、毛利秀元・吉川広家両者に対して和解を強硬に申し入れて両者これに応じている。だが、その後も毛利秀元と福原広俊(及び背後の吉川広家)との確執は続く事になる。この間、広家は慶長6・8・9・11年に徳川家康・秀忠と謁見している。
ところが、
大坂冬の陣の際に毛利秀元が輝元・秀就らと極秘に
佐野道可を豊臣方に派遣し、しかもこの事実を広家や他の重臣には一切秘密にしていた事を知った広家は激怒して慶長19年12月22日に隠居して子の広正に家督を譲り、福原広俊もこの問題の処理後の
元和2年(
1616年)に藩の政務から退いた。以後、藩政は秀元と益田元祥・
清水景治らによって運営される事となる。既に豊臣政権において独立した大名として認められていた秀元は長府毛利家の家格上昇を図りながら、藩政運営を行うことになり、対立関係にあった吉川家の勢力削減を目論んだ。元和の
一国一城令を理由とした岩国城を破却などもこうした秀元の政策に基づくところが大きい。こうした秀元の方針に対して吉川広家は表立っては沈黙していたものの、福原広俊らとともに秀元への対抗姿勢を示している。
なお、秀元が関ヶ原における広家の観望反覆すなわち利敵・裏切り行為を厳しく咎めた(もっとも、「吉川氏」とはのち共同歩調を取ることもあった)。毛利家臣団からも「裏切り者」「本家を売った男」として彼を深く憎悪する視線が集中して、吉川家の陪臣としての処遇は幕末まで続くことになったとされている。
だが、
毛利両川体制の基本は天下の趨勢が見定められない場合には、吉川家と小早川家(同家消滅後は穂井田家系の長府毛利家)が相別れる事となっており、広家はその路線に忠実であっただけである。逆に大坂の陣の際には秀元の方が豊臣家への義理を立てて佐野道可を派遣したことにより、関ヶ原における広家と全く同じ事をしているのである。
元就時代以来、吉川家は庶流の筆頭として家臣団を統率するのが役割であった。一方、一度は宗家の後継となった秀元の長府毛利家がその経緯(そもそも秀元の独立が承認されたのは、関ヶ原の戦いの2年前である。また、秀元の系統には万一の際の毛利宗家継承権があり、実際に2人が宗家に入嗣している)を盾に、他の分家との差別化と家格の上昇を図って宗家に準じた地位を確保しようとした側面がある。実際、毛利輝元や吉川広家の死後の寛永8年(
1631年)に秀元はその専横を非難されて長州藩執政の地位を失って失脚し、後任の執政に就いたのは広家の子・広正であり、また広正の正室に輝元の娘・竹姫を娶ったのは移封後のことである。このように表向きの家格はともかく、毛利家中において直ちに吉川家の地位の低下を示す証拠は無いのである。
広家は家督を長男・広正に譲って隠居した後もなおも実権は握り続け、元和3年(
1617年)には188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど、岩国の開発に力を注ぎ、実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。
享年65。
なお広家の次男で
吉見広頼の養子となっていた吉見政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、
毛利就頼と改名して長州藩一門家老の
大野毛利家を創設している。
参考文献
- 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣) ISBN 9784639011954)
関連項目
ひろいえ