岩手県交通株式会社(いわてけんこうつう)は、
岩手県盛岡市に本社を置くバス会社。盛岡市以南の市町村で路線バスや
花巻空港への空港連絡バスを運行する。通称は「
県交通」(けんこうつう)又は「
岩交」(いわこう)。
概要
岩手県北自動車とともに岩手県を代表するバス事業者である。保有車両数は2008年4月現在、計695両。
前身は戦時統合により発足した岩手中央バス(中央バス)・花巻バス・岩手県南バス(県南バス)の3社である。1960年代以降のモータリゼーションの波を受けて利用者減少により経営が悪化、3社中2社が
会社更生法の適用を申請しており、賃金遅配による
ストライキが頻発した。1976年の合併後も合理化は進まなかったが、1986年に国際興業の傘下に入ってからは業績も上向きとなり、
高速バス路線展開もうまく作用して単年度黒字を計上するまでになった。近年では盛岡市近郊の輸送改善にも積極的である。
事業者としてバスに対する趣味にも一定の理解を示しており、公式サイト内に「
バスファンの広場」というコーナーを設置している。
沿革
本節では、単に「県」と表記した場合は
岩手県をさすものとする。
創業期から戦時統合まで
岩手県に初めてバスが走ったのは、
1912年に盛岡と宮古を結んだ盛宮自動車である。現在岩手県交通の路線が運行されているものとしては、
1918年に盛岡市内の路線で営業を開始した盛岡自動車とされている。この後、小規模な事業者が次々と設立され、
1928年には盛岡のバス事業者だけで22社に上っている。
第二次世界大戦に入るとガソリン規制が行なわれたため、これらの中小事業者の経営を圧迫した。さらに
1942年には陸上交通統制の通牒が出されることなり、岩手県は大きく4ブロックに分けられることになった。太平洋沿岸北部が岩手県北自動車(県北バス)、太平洋沿岸南部は岩手東部乗合自動車、江刺以南の県南部は岩手県南自動車、県中心部の盛岡近辺は岩手中央自動車に統合されることになった。なお、
花巻電鉄は社名のとおり鉄道事業を行なっていたため、バス事業の統合からは除外されている。
戦後の成長期
県南バスは
1949年に大船渡に拠点を設置したのを皮切りにエリアを拡大し、
1950年には貸切バス事業免許(貸切免許)を取得した。一方、岩手東部乗合自動車は
1948年のアイオン台風によって
山田線が長期にわたって不通になった際に代行バス輸送を担当、
1951年まで続いた。1951年に岩手東部乗合自動車は東部バスに社名変更したが、この頃になると県南バスとのエリア重複による不合理が目立ってきたため、
1957年に東部バスは県南バスの傘下に入ることになり、
1966年には正式に合併した。
岩手中央自動車は戦後間もない1948年に花巻地区を花巻バスとして分離した。その後順次営業エリアを拡大するが、急激に車両数を増加させたことで運行コストの増大を招き、1960年以降は赤字決算となっている。分離した花巻バスは1958年までに30路線を開設するなど、やはり営業エリアを順次拡大していった。
1950年代は長距離バス路線展開が各社とも目立った。県南バスが1951年10月に一関と気仙沼を開設する路線を開設したのを皮切りに、
1953年には中央バスと東部バスが相互乗り入れの形で盛岡と釜石を結ぶ路線を開設した。
1955年に運行開始された盛岡と大船渡を結ぶ路線では中央バス・東部バス・県南バスの3社競願となり、最終的に県南バスが運行を行なうことになった。
しかしながら、この時期はまだ道路事情はさほどよくないため、
東北本線と並行する路線では鉄道の電化・複線化には対抗力を持たせることが出来ず、運行休止や区間短縮を余儀なくされた。ただし、その他の路線では鉄道側の輸送改善があまり進まなかったため、他の地域と比較すれば残存路線は多い方であった。
利用者減少と労使紛争による疲弊
1960年代に入ると、
過疎化と
モータリゼーションの進行により、バス利用者数は減少傾向となっていった。事業者側ではこれに対応して合理化と人員削減による対策を進めようとしたが、これは従業員側の反発を招いた。さらに賃金遅配という事態になったことから、労使関係は悪化してゆくことになる。
1965年、中央バスでは盛岡市内路線で県内初となる
ワンマンバスの運行を開始した。これに反発した労働組合が、4月の
春季労使交渉(春闘)に続いて5月にもストライキを実行。7月には夏の賞与をめぐって無期限ストライキに突入し、収束するまでに50日を要した。盛岡市の商店街ではストライキの中止を申し入れたが解決できず、「バススト対策協議会」として200台の自家用車を使用して全商店街を無料で巡回するサービスを開始した。地元の中央バスに対する不信感は強まり、
飲食店の一部は店頭に「中央バス社員お断り」と張り紙を出すほどであった。発車直前に「ポカ休」と呼ばれる無断欠勤、それに伴う間引き運行も日常化していた。早池峰登山バスの最終便を運休させたことで、登山客が下山できなくなってしまうケースもあった。
翌
1966年には県南バスが一関地区の路線でワンマン化を開始したが、労働組合では事前協議なしの運行であるとしてストライキに突入した。同年9月には水沢地区でワンマン化を行なったことで労働組合側は闘争体制を強めることになり、指名ストを通告したが、これに対する会社側は
ロックアウトを宣言した上に、調整に入ろうとした地方労働委員会(地労委)の斡旋を拒否した。12月に地労委が調停に入ったことで収束したが、この間はストライキや間引き運行が多発した。闘争の拠点となった
江刺市では市議会で「バスの正常運行を求める決議」まで行なわれ、地域の農業協同組合などでは自衛手段としてバスを自ら購入した。
ストライキや間引き運行が続き、沿線の住民からのバス事業者に対する印象は悪化することになった。沿線住民はバスがなくても通勤通学できる手段を用意し、沿線企業では自家用バスによる送迎を行なうなど、自衛手段に努めた。この結果、バス利用者の更なる減少を招くことになる。
1968年、中央バスは経営再建のため、業績のよい貸切部門を分社化して
岩手観光バスを設立したが、これは東北地方では初の貸切専業バス事業者となった。1970年には
国際興業の傘下に入り、国際興業は7割の株式を引き受けた上で負債の肩代わりを行なったため中央バスは倒産を免れた。翌年には同じ資本系列にあった花巻電鉄と合併した。その後は比較的良好な経営状態で推移したが、余裕のある状態ではなかった。
また、花巻バスでは
1969年に貸切バス事業を花巻観光バスに分社化した上、
1970年に県北バスからの財政支援を受けることで経営建て直しを図った。しかし、沿線に観光資源がないこともあって経営は好転せず、
賃金未払いによるストライキや間引き運行が日常化する事態になった。
1974年には乗務員の無断欠勤が続出するため欠便申請まで提出する事態になり、
公共交通機関としての信用は失墜した。後述するように1974年には会社更生法の適用を申請することになるが、その時点で花巻バスの累積赤字は1億3600万円、未払い賃金の合計金額は8700万円に上っていた。
この時期、県内の同業他社の1つである岩手県北自動車では、観光路線が多かったこともあって比較的経営は順調で、労使関係も良好であった。ワンマン化についても着手こそ1974年と県内他社と比較すると遅い時期ではあったが、その後2年で8割以上の路線がワンマン化されていた。
公的一元化構想の挫折
県北バスを除いた各社の経営が行き詰る中、合併によって過当競争を解消し、合理化も進めるという意見も出た。
1969年に中央バス・花巻バス・花巻電鉄の合併案が出たが、これは労働条件や資産評価の問題から実現しなかった。
1971年には私鉄総連から公的一元化案が示された。これは、県内4社を一元化した上で県が経営に直接関わることで、公共的性格の強いバス事業に対して公営で責任を持つという考え方によるもので、1973年には県バス対策協議会が発足し、バス事業者の労使や県からも協議会の委員として参加することになった。しかし、経営状態が良好な県北バスは、当初よりこの協議会への参加を拒否していた。
さらに、一元化の範囲についての意見も分かれ、合併の意思のある会社のみという県南バス・花巻バスの主張に対し、中央バスは観光資源をエリア内に有する県北バスも含めた全県一元化を主張するなど、意思統一が出来なかった。その上、
1974年には県は一転して公的一元化に反対の意思を表明する。各社共に労使関係が悪化し、ストライキの頻発などで日常の運行が正常に行なわれていないこと、それに対して
誠意のない経営陣の対応という状況下で、県が引き受けることに対して警戒したものとみられている。
このような経緯により、公的一元化構想は挫折したものの、民間ベースでの一元化構想へ議論が進みつつあった1974年7月、県南バスが会社更生法の適用を申請した。同年10月には花巻バスも更生法適用を申請している。しかし、従業員側は更生法適用申請の撤回を求めてストライキを通告、さらに県南バスの経営陣が盛岡地方裁判所(盛岡地裁)の定めた管財人に難色を示して自力再建を希望し、一方で一元化による再建にも着手しているなど、会社側に誠意が見られないとして、盛岡地裁では1974年10月に県南バスの申請を棄却した。県南バスではこれを受けて仙台高等裁判所(仙台高裁)に即時抗告、管財人は競争関係にあるものを避けるとともに、一元化は負債の整理をした上で実施するのが望ましいと主張した。仙台高裁はこの主張を認め、12月に盛岡地裁への差し戻しを行なっている。
中央バスでは一元化を見据えて、1974年11月30日に新会社として「岩手興業」を設立し、岩手中央バスの事業を移管した翌日に新会社として「岩手中央バス」を設立し再度事業を移管、中央バスとしては負債のない状態にした。この時点で、岩手中央バスは国際興業からの役員出向は残ったものの、国際興業傘下からは外れている。
結局、従来の再建策は既に限界であることから、最終的に県南バス・中央バス・花巻バスの3社が新会社を設立した上で、3社の事業を新会社に譲渡する方針がまとまった。最後の手段であるという位置づけから従業員側も理解を示し、目立った闘争を抑えることになり、県も一元化に対しては推進する方向性を示した。
1976年5月に新会社設立が認可されたことに伴い、県南バスと花巻バスは更生法適用の申請を取り下げた。
岩手県交通と命名された新会社は、負債ゼロの状態から再出発することになった。
岩手県交通として再出発
こうして、1976年
6月1日に岩手県交通(県交通)としての運行が開始された。しかし、新会社としてのバス車体デザインが決まったのは翌
1977年で、それまでに導入した車両は各社のカラーリングのままで導入され、社名のみが「岩手県交通」と表記されていた。さらに、社内も3社の組織が残った状態で、営業所の体制もそのままであった。北上駅前を例にすると、旧県南バスの車両は旧県南バスの車庫に入庫し、旧花巻バスの車両は旧花巻バスが所有していた折り返し場で待機するなど、岩手県民や利用者から見れば何も変わっていない状態であった。そもそも、赤字の会社が合併しても黒字になることはなく、施設の共用など無駄を省くことで初めて合併によるメリットが表に出てくることになるが、この状態では収支状況の改善は望めなかった。
事実、営業開始してから1ヶ月後の中元
賞与の支給時にも資金繰りに苦しむ状態となり、年末賞与の時期には6億円もの負債を抱える状態になっていた。バス事業はバスの台数分だけ乗務員が必要となる労働集約産業であり、結果として人件費率も高くなる傾向はあるが、この時期の県交通では
総支出における人件費率が98%にも達しており、日本のバス業界では最悪の数字であった。極端に高い人件費率は、合理化が進んでいないことを如実に示していた。
経営体質の強化を図るべく、沿線自治体に対して資本参加を打診したが、既に自治体から8億円もの補助金を支出している状態では、どの自治体にもそのような原資はなかった。また、合併後の経営実態が甘く、わずか半年で負債が6億円にも上る現実から、合併前と経営体質が変わっていないと判断されたため、県は出資を拒否している。その上、未払い賃金がかさみ、運賃を値上げする一方で申請される補助金の額が大幅に上げられて申請されるなど、その経営姿勢にも疑問の声が上がり、銀行団からも融資を拒否されることになった。中央バスには国際興業から役員が送り込まれていたが、1977年には国際興業は全ての役員を引き上げていた。資金調達の手段を全て失った県交通の経営は、発足後わずか1年強で事実上破綻してしまったのである。
1978年2月には運輸省の特別監査が行なわれ、ワンマン化の状況やバス1台あたりの従業員数を調査したが、ここで改めて合理化の遅れが問題となった。この結果を受けて運輸省では経営改善勧告書により、厳しい行政指導を行なった。これを受けて経営陣の刷新を行なうことになり、県では県交通の要請を受ける形で、県福祉部長だった松尾景康を送り込んだ。
1978年6月に社長に就任した松尾は、大規模な社内機構の改革に取り組んだ。1978年度決算は単年度黒字となったが、資産の処分などによる部分が大きく、安定的なものではなかった。このため合理化のためのワンマン化と不採算路線の廃止を進める方針となったが、従業員側は合理化の前に賃上げを要求し、
1979年にはしばらく行なわれていなかったストライキが再発するようになった。
1980年の春闘はストライキが頻発し、ようやく交渉妥結したのが同年10月になるなど、労使関係は再び悪化することになった。それは日常業務にも反映され、乗務員の接客態度や車両の整備にも影響し、県民や利用者の県交通に対する不信感は増大することになった。
1982年6月23日には
東北新幹線が開業することになり、新幹線連絡を目的とした特急バス運行計画が県外の各社も含めて進められていたが、同年の県交通では経営陣から示された合理化案に350人の希望退職が含まれていることから従業員側が反発、労使紛争の長期化により東北新幹線開業前日の
6月22日までストライキが断続的に続く有様で、労使紛争の状況からはとても高速バス事業に着手することは出来なかった。
なお、この時期の県北バスは、経営努力に加えて「
106急行」や高速バス路線の成功による増収分からの内部補填が可能になったことから国庫からの補助金を返上するなど、さらに安定した経営状態になっており、県交通とは対照的であった。
労使の対立の中で、それでも合理化は進み、
1985年には県交通としては初の高速バスとして「
ヨーデル号」の運行に参入しているが、「ヨーデル号」は続行便も多数設定されるほどの好調な状態となった。また、新幹線開業によって貸切バス需要も増大し、これらは県交通の収支改善にも寄与することになった。
国際興業傘下で再々出発
1985年度には通常の状態で収支均衡となったことを機に、松尾は社長から退任することになり、1986年6月には当時の国際興業社長の小佐野政邦が社長に就任、同時に国際興業の傘下に入ることになった。
国際興業傘下に入ったことで、それまで苦慮していた資金調達が容易になったことに加え、労使交渉が対話重視で進められたこともあり、労使関係も徐々に協調路線へと改善されることになった。同年には過疎路線の低コストでの維持を行なうべく
早池峰バスを設立しているほか、高速バス「
とわだこ号」にも参入している。
1987年には高速バス「
あすなろ号」にも参入、
1988年7月21日からは同社初の夜行高速バスとして「
らくちん号」の運行を開始した。その他にもいくつかの高速バス運行に参入、全てが好調だったわけではないが、経営状態の改善に寄与した。一方で、路線バスについても過疎路線を早池峰バスに置き換える一方、都市部では団地への乗り入れや車両の改善を進めた。
これらの経営改善策が功を奏し、
1993年度決算では通常ベースでの単年度黒字を計上、黒字体質の事業者への変貌を遂げた。
1999年に
盛岡市が
オムニバスタウンに指定されたのを受け、県バス協会では
ゾーンバス方式の導入を決定、これを受けて
2000年に松園地区の県交通路線でゾーンバスシステムの導入が開始された。利用者の意見に応じる形で1年間に数度のダイヤ改定が行なわれた結果、年間利用者数が4%増加、運賃を下げたにもかかわらず増収となったことから、その後他の地区への展開も行われている。
2004年4月からは、花巻以南の6営業所について、全路線の運転・車両管理業務を早池峰バスに委託することになった。これはコストダウンによる路線維持を図るための方策で、これに伴い全社員の基本給を平均9.8%カット、更に該当地区の所属員についてはその数値から1%カットの上で早池峰バスに出向とすることで、路線維持と雇用確保を両立させた。これにより、2004年度の路線廃止は行なわれないことになった。その後
2007年3月一杯で業務委託が解除され、1%カットについては解消された。
2008年10月には、直轄で行っていた車両整備事業及びそれに関する資産・人員の一切をヤマトオートワークス岩手(
ヤマトホールディングス傘下)へ譲渡し、車両整備が完全に
アウトソーシング化された。一部門ほぼ全員の転籍を伴う大規模な組織改編である。これにより県交通は人件費及び所有車両の管理・維持費の大幅な削減を見込み、ヤマト側には広大な県土を持つ岩手という土地における自社営業車両の整備拠点の大幅な増加・業容の拡大等のメリットが生まれることとなった。
年表
統合前
岩手中央バス
岩手県南バス
-
1966年
4月27日 - 水沢・一関・千厩・高田・遠野・大船渡を営業エリアとする岩手県南バス設立。
花巻バス
3社統合後
営業所
盛岡地区
花北地区
-
北上営業所(高速バスイーハトーブ号予約センター併設)
胆江地区
一関地区
沿岸地区
岩手県外
廃止
- 黒石野営業所
- 河南営業所
- 東和営業所(→いわこう運輸→花巻移転→解散)
- 遠野営業所(→早池峰バスへ移管)
- 水沢営業所(現在は水沢車庫・回転場と車両留置のみ)
- 江刺営業所(跡地は江刺バスセンター)
- 大東営業所(跡地は町営住宅)
路線
高速バス
盛岡 - 横浜線
- 概説
本路線は鉄道では直行できない岩手県と神奈川県を結ぶ路線である。当初は岩手県交通と
ジェイアールバス東北の2社が参入を希望したが、その後両社間の調整で、別路線への参入を条件にジェイアールバス東北は本路線への参入を見送ることになった。検討段階から交通ジャーナリストの
鈴木文彦が市場調査などで直接的に関わっており、盛岡での開業初日のテープカットでは鈴木も招待されていた。
- 運行経路
- 使用車両
thumb
独立3列シート便所付きのスーパーハイデッカーが使用される。
運行開始当初の岩手県交通は
いすゞスーパークルーザーを使用していた。当時の岩手県交通の夜行高速バス車両は、らくちん号(現:
ドリーム盛岡 (らくちん) 号)に使用されていた車両が乗客定員27名となっており、本路線のために乗客定員29名とした車両が専用車として運行されていた。
運行開始当初の神奈中は
三菱エアロクィーンMを使用していた。神奈中は他の路線と異なり
厚木営業所が担当していたが、車両更新時には三菱エアロクィーンIに代替されると同時に
横浜営業所に移管された(岩手県交通の車両は引き続き神奈中厚木営業所に入庫)。さらに湘南神奈交バスに移管された後、
2005年の撤退時に岩手県交通に譲渡され、塗装変更の上本路線で使用されていた(この譲渡車は
2006年に北上営業所へ転属し、イーハトーブ号専用車として現在も運用中である)。
現在は日産ディーゼル・スペースウイングを使用(運用上の都合によりスーパークルーザーが充当される場合もある)。
- 利用状況
- その他
- 釜石駅前・釜石営業所から池袋駅との間の夜行高速バスは、けせんライナー(大船渡・気仙沼・一関経由)と合わせ、実質2往復となった。しかし、異なる系統で往復利用する場合には往復割引が適用されず、異なる路線ごとの片道運賃が必要となる。
(宮城交通との共同運行)
(宮城交通との共同運行)
(JRバス東北との共同運行)
(花巻・北上〜仙台線/JRバス東北との共同運行)
(単独運行)
かつて運行していた高速バス路線
※印は岩手県交通は撤退したが、路線自体は現在も存続しているもの。
-
ここでは岩手県北バス・岩手県交通・JRバス東北・南部バスとの共同運行当時のものを掲載する。
- ; 経路
- * 盛岡バスセンター - 内丸(現:県庁・市役所前) - 盛岡駅 ⇔ 浄法寺インター - 馬場 - 八日町/十一日町 - 小中野バスセンター
- ; 歴史
- * 1989年9月27日 - 南部バス、岩手県北バス、JRバス東北、岩手県交通の4社共同運行で運行開始(1日4往復)。運行区間は八戸小中野バスセンター〜盛岡バスセンター間(135.0km)。盛岡駅の乗り場は駅舎からやや離れていた。
- * 1990年 - 浄法寺インター、内丸(県庁・市役所前)にバス停を新設。
- * 1995年10月1日 - JRバス東北と岩手県交通が撤退。岩手県北バス・南部バスの2社共同運行となり、2往復に減便。
-
※:現行の路線・区間については岩手県北自動車#八盛号または南部バス八戸営業所#八盛号を参照のこと。
長距離路線
フリー乗車券は使用できない。
一般路線
東口にて)]]
深夜バス
- 北上深夜線
- 松園深夜線
- 滝沢深夜線
- 日詰深夜線
- 厨川深夜線
スキーバス
いずれも冬期限定運行。
- 盛岡、雫石スキー場線(盛岡駅西口〜雫石スキー場)
- 花巻空港、雫石スキー場線(花巻空港〜雫石スキー場)
- 安比エアポートライナー(花巻空港〜ホテル安比グランド〜安比高原スキー場〜安比ヴィラ3)
- 夏油高原スキー場シャトルバス(北上営業所〜北上駅東口〜新夏油橋駐車場〜水神温泉〜瀬美温泉〜夏油高原スキー場)
早池峰登山バス
いずれも夏季限定運行。
- 岳駐車場〜峰山荘〜河原の坊〜小田越〜荒川
- 荒川〜江繋
- 花巻駅〜新花巻駅〜羽黒堂〜大迫バスターミナル〜大迫町役場〜立石〜岳〜河原の坊
- 盛岡駅〜県庁、市役所前〜盛岡バスセンター〜大迫バスターミナル〜小田越
- 大迫バスターミナル〜岳〜河原の坊
須川高原温泉バス
- 一ノ関駅〜厳美渓〜真湯温泉〜須川高原温泉
- 土休日中心の運行で、冬期は運休となる。
- 2008年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震により道路が一部通行止めの為、現在運休中。
その他
車両
概説
1986年以降、基本的には車両は全て親会社の
国際興業バスと同じいすゞ車が標準となっている。また、路線バス車両の大半は国際興業からの譲受車である。中型・小型バスを中心に自社発注の車両も存在するが、これらの中には岩手県交通としては珍しい三菱ふそう車もある。岩手県交通発足の翌年に制定された路線バス標準色は、車体上半分は白で下半分は銀色というベースに青のラインが入るものであったが、2000年にオムニバスタウンに対応した施策が開始された頃から、徐々に路線バス車両のカラーリングは国際興業バスと同様のものに変更されている。
貸切・高速車両については、ほぼ全車両が国際興業グループ観光バス色に統一されている。また、高速バス車両でも譲受車両が存在するが、これらはいすゞ車以外の車種も存在する。
このほか、ボンネットバス「弁慶号」(日野BH15)が1台在籍していた(現在廃車)。
画像:IwateKenKotsu-IchinosekiStation.jpg|岩手県交通バス通常塗色(青と銀を基調したカラーリング
一ノ関駅にて)
画像:IwatekenKotsu KK-LR233J1 No.637.jpg|「IKK」表記の国際興業グループ一般路線塗色(
盛岡駅東口にて)
画像:IwatekenKotsu KK-ME17DF No.715.jpg|岩手県交通小型路線車両(盛岡駅東口にて)
画像:IwateKenKotsu-Benkeigo.jpg|岩手県交通「弁慶号」(
ほっとゆだ駅前にて)
画像:asunaro-ikk.jpg|自社発注の高速車の例
Image:Iwatekenkotsu-yokohamaline-iwt200ka972-20070730.jpg|神奈川中央交通から移籍した三菱エアロクィーン
画像:IwatekenKotsu U-LV771R No.200-1148.jpg|観光貸切車両(十三日町にて)
画像:BU04 IwatekenKotsu 476.jpg|過去の車両:国際興業から合計225台が移籍したいすゞBU04
過去のカラーリング
- 岩手中央バス…クリーム地に青い帯が入っていた。1970年代までに国際興業バスから譲り受けた車両は経費節減のため塗り替えずに使用していた。1985年頃までには国際興業バスそのままという車両は一旦消滅したが、2000年には国際興業グループ全体の施策として国際興業路線バス色が復活することになるとは、当時は予想しなかったという。
- 花巻電鉄バス…ブルーリボンカラーのデザインを緑の濃淡にしたもの。
- 岩手県南バス…純白に朱色のラインが入っていた。
- 花巻バス…クリームに赤帯の入ったデザインで、ワンマン車では窓下に水色の帯が入る。1970年前後に神奈川中央交通から譲り受けた車両は、経費節減のため側面窓下の帯を水色に変えた以外はそのままという状態で走らせていたことがある。
関連企業
※この他に直営の貨物運輸部門として「いわこう運輸」が存在したが、
2007年3月末日をもって解散している。
注記
参考文献
- バスジャパン・ハンドブックシリーズ19「岩手県交通 岩手観光バス(早池峰バス)」(1994年9月20日初版・BJエディターズ)
-
鈴木文彦「岩手のバス いまむかし」(2004年10月7日初版・クラッセ)
外部リンク
社いわてけんこうつう
いわてけんこうつう
いわてけんこうつう
いわてけんこうつう
いわてけんこうつう
いわてけんこうつう