概要
豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた
徳川家康を中心とする派と
石田三成を中心とする派の間の決戦。日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と反徳川派(西軍)に二分したことと、戦いで勝利した家康が政権を完全に掌握して
徳川氏の覇権を確立したと考えられてきたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれている。
なお、西軍総大将は
毛利輝元であり、副将は宇喜多秀家であるが、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。また、関ヶ原において戦闘の中心となった東軍の武将のほとんどは豊臣恩顧の武将であった。戦いの性格が豊臣家の家臣同士の成敗合戦ということから、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。
決戦までの経緯
背景
天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して
朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派(文治派とも呼ばれる)の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような
豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。
- 豊臣政権の中央集権的な全国統治政策
- 外様大名の領国への豊臣奉行による太閤検地の実施
- 外様大名領への太閤蔵入地の設定
- 大名の有力家臣への知行宛行(伊集院忠棟、鍋島直茂など)と内政干渉
-
秀次事件による、豊臣家及び豊臣家臣団の確執
秀吉本人や実弟の
豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。だが、
天正19年(
1591年)の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により、両派の溝は深刻なものとなっていた。
秀吉は晩年には
五大老・
五奉行の制度を整え、諸大名に実子の
豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて
慶長3年(
1598年)8月に
伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の
徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の
前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。
翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名(『義演准后日記』ではこの他に藤堂高虎・蜂須賀家政・脇坂安治の3名も参加したとある)により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の
佐和山城に蟄居となる(この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは俗説)。三成の失脚や他の五大老の帰国により家康の対抗勢力はなくなり、家康は伏見城から
大坂城へ入城して政務を指揮する。
関ヶ原の戦い前の石高
主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名)
- 本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれる。
発端
家康は前田利家の嫡男の
前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が存在したとして、容疑者として五奉行の
浅野長政や
大野治長、
土方雄久らに
蟄居などの処分を下す。さらに前田利長に対する謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画した。利長は実母の
芳春院を人質として下すなどして恭順的な態度を示し、前田家の地位は保全された。
慶長5年(1600年)になると、家康は上杉氏の元家臣・
藤田信吉の出奔を契機として会津の
上杉景勝に対して軍備増強を非難し(参考:
直江状)、上洛して釈明するよう警告を出す。景勝の重臣である
直江兼続は家康の警告を無視し、豊臣軍による
上杉征伐が開始された。家康を
総大将として、豊臣大名の多くがそれに従軍し上杉の領地である会津に向けて行軍を開始する。
失脚していた石田三成は
大谷吉継、五奉行の
増田長盛、毛利氏の使僧で
伊予国の大名でもある
安国寺恵瓊らと共謀し、五大老の
毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。しかし、その最中に、
細川忠興の正室である
細川ガラシャは、石田方の人質になるのを拒み、キリシタンのため自害が禁じられていることから、忠興の家臣に槍で胸を突かせて死亡する。
家康は伏見城に残した家臣の
鳥居元忠の報告で
下野国小山(
栃木県)において、三成挙兵を察知する。家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った(小山評定)。
上杉討伐は中止され、
真田昌幸や
田丸忠昌らの大名は家康から離反することになるが、大部分は引き続き家康に従うことを決め、軍は西へと上ることになった。
家康の上杉征伐は石田三成を挙兵させるために行った策略だったという見方もある。畿内に隙を見せ、三成の挙兵を誘ったのである。この説に従えば、
鳥居元忠は家康側が三成を攻撃する口実を作るため、死を必至とする任務についたことになる。
小山評定
7月25日に行われた小山評定における重大な問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちがどのような態度をとるかであった。三成挙兵の方は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。こうしたなか、
黒田長政は
福島正則に秀頼には累が及ばないことを説明し、旗幟を鮮明にするよう説得した。
評定では、山岡道阿弥・岡野江雪から情勢の説明と妻子が人質になっているため、進退は各自の自由であるとの家康の意向が伝えられた。すると福島が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明。黒田・
徳永寿昌がこれに続き、豊臣恩顧の武将らは家康に従うことを誓約した。
つづいて
山内一豊が自らの居城
掛川城の提供を申し出、他の武将もこれにならった。この案は
堀尾忠氏(一豊の盟友
堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、東海道筋の諸城を確保したことで東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
全国の大名・武将の動向
関ヶ原決戦前における動向を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切り参照。
東軍
- 東海道隊本隊(家康隊)
東海道・近畿以西の豊臣恩顧大名と軍監(目付)として井伊直政・本多忠勝を先発隊としている。後日出撃した家康本隊は大名級がほぼ秀忠隊に配属されており、32,700の軍勢の構成は旗本が多く占めている。井伊直政は3,600程度の軍勢を連れていたが出陣前に病に倒れ、本多忠勝が臨時にこれと代わった為に忠勝隊は小姓・足軽ら400程度の軍勢であった(本多家の本隊は忠政とともに秀忠隊に配属。また、病の癒えた直政も後を追っている)。
- 東海道隊別働隊(大垣城包囲・周辺城砦攻略)
- 東海道守備隊
- 中山道隊(秀忠隊)
徳川家大名クラスの多く(これは秀忠隊が当初は上杉、後に中山道制圧を任務としていたからと思われる)と信濃の大名がこの隊に属している。
- 対上杉守備隊
- 江戸城留守居
- 伏見城守備隊
- 在国
- その他
西軍
- 本隊
- 大津城攻撃部隊
- 田辺城攻撃部隊
- 美濃・尾張守備隊
- 伊勢守備隊
- 北国口守備隊
- 佐和山城守備隊
- 大坂城留守居・守備隊
- 在国
- その他
-
生駒親正(病気を装い本戦には不参加)
-
蜂須賀家政(家臣を大坂に派遣し自身は剃髪して高野山に上る)
-
織田信雄(西軍に属した説と中立説がある)
内応
本戦において西軍から東軍に寝返った大名について記載する。
- 積極的内応軍=積極的に戦に参加した西軍の部隊。
など
- 消極的内応軍=それ以外の内応部隊。
中立
経過
前哨
7月1日、
宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い、これに
高台院は側近の東殿局(
大谷吉継の母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の
大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。(このことから、秀家が先に決起し、三成はあとから挙兵を決意したという見解がある)。7月12日、佐和山城で三成は吉継、
増田長盛、
安国寺恵瓊と秘密会議を凝らし、
毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、
長宗我部盛親、
鍋島勝茂らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。逆に
佐竹義宣は三成よりだったが父義重の反対に遭って中立を余儀なくされた。
7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である
鳥居元忠が預かる
伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城は宇喜多秀家、
島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した(
伏見城の戦い)。その後、
丹後国の
田辺城、
伊勢国の
安濃津城、
松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす
大垣城に入った。
一方東軍は、家康が背後(上杉・佐竹)への危険から江戸に留まり、
藤堂高虎、
黒田長政らを使って、諸将に書状をしたため、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は
吉川広家に毛利家と所領の安堵を、
小早川秀秋に
北政所への忠節を説いて、内応を約束させる。
宇都宮に残った家康の三男
徳川秀忠は8月に約3万8千を率い、
中山道を進んだが、途中、
真田昌幸の籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に赤坂の岡山に設営した本陣に入る。三成は家臣である
島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出し、東軍の一部を誘い出すと、これを散々に打ち破った。これを
杭瀬川の戦いという。
9月14日夜、家康は赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これにつられるように、大垣城に篭っていた
石田三成らは関ヶ原へ転進した。
布陣
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9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧日本陸軍の参謀本部が編纂した日本戦史関ヶ原の役によれば、東軍7万5千、西軍10万、合わせて17万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結したことになる。
西軍方は三成の拠る「笹尾山」、宇喜多秀家の拠る「天満山」、
小早川秀秋の拠る「松尾山」、そして
毛利秀元が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む
鶴翼の陣を敷く。明治の世に軍事顧問として来日した
ドイツの
クレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。
関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならない。そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。
開戦
濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を
井伊直政と
松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣
可児才蔵が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
-
敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―
三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す
狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万6千ほどながら、戦局をやや優位に運んでいた。ここで
松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊・その背後にいる栗原山の長宗我部隊計2万7千が東軍の側面と背後を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。
小早川秀秋の裏切り
正午過ぎ、家康は、内応を約していた
小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる。
小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。吉継は秀秋の裏切りを予測しており、温存していた600の直属兵で迎撃し、15000の小早川軍を松尾山麓まで押し戻す。この時小早川軍の武将・
松野重元は『盾裏の反逆は武士としてあるまじき事』として一隊を率い傍観する。ところが、それまで模様眺めをしていた
脇坂安治、
小川祐忠、
赤座直保、
朽木元綱ら計4千2百の西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返る。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変する。なお、赤座直保を除く四将自身若しくは有力家臣(小早川軍の
稲葉正成など)が、過去に
明智光秀と関わりがあったとされる。
西軍敗走
ここにおいて、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、西軍は総崩れとなる。こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の敵中突破退却戦が開始される。
島津義弘隊1千5百が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち
井伊直政と
松平忠吉は狙撃され負傷し、
本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は
島津豊久や
阿多盛淳(長寿院盛淳)、
肝付兼護を犠牲にしわずか80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。他の西軍部隊は壊滅あるいは逃走した。
地方への波及
美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。
東北
上杉征伐のきっかけは、
堀秀治の讒訴というのが定説であるが、近年秀治が西軍側につこうとしたことを示す書状などが発見されている。家康は三成挙兵により反転する際、
結城秀康を主力に、上杉領に面した
最上義光や、その近隣の秀治や
伊達政宗に対して景勝監視の命を下した。上杉領を自領が分断する形になっていた最上義光は、上杉勢との衝突は避けられなかった。義光は奥羽諸将と連合し上杉勢と戦おうとしたが、関ヶ原開戦の報を受けると諸将は自国安定のため引き上げていった。数の上で不利を悟った義光は、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、義光が
秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため成立しなかった。
9月9日、
米沢城方面から
直江兼続率いる上杉勢が最上領に押し入った。さらに
小野寺義道も最上領に侵入した。
伊達政宗は東軍に付き
徳川家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡を加増し百万石の領地を与えるという、家康の百万石のお墨付き(
仙台市博物館蔵)を受け取っていた。伊達勢は上杉領の
白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。
最上義光は急な侵攻に慌て、急ぎ伊達政宗に援軍を要請。伊達家内では「上杉勢と最上勢を戦わせて疲弊した後に攻めれば、上杉勢を容易く退けることが出来、
山形は労せずして我が物になる」という
片倉景綱の進言も出たが、最上潰滅は
上杉景勝の脅威をまともに受けることにつながるので(一説には
山形城に居る母の身を政宗が案じたとも)
留守政景を総大将名代として
9月17日に援軍を出撃させた。しかし伊達勢は出撃せず、最上領内で様子を見るにとどまった。
兼続は最上勢の
鮭延秀綱らの勇戦に苦戦し、
志村光安が守備する寡兵の
長谷堂城を攻略しきれなかったことで戦局は膠着状態となったが、
9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは一気に最上勢に傾いた。
兼続はすぐさま撤退を命令し、自身で殿軍を努め撤退を開始した。義光はただちに追撃を命令し、自ら先頭に立ち猛攻を仕掛けた。この追撃戦は大混戦となり、義光は兜に銃弾を受けるなどしたが、
最上義康らの軍勢が追いつき難を逃れた。兼続勢は
10月4日に
米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ、下対馬など降伏する者が相次いだ(
慶長出羽合戦)。
北陸
前田利長は上杉攻めを支援すべく、7月26日に
金沢を出発。8月に入り
山口宗永が篭る
大聖寺城を包囲、3日で落城させると
青木一矩の
北ノ庄城を囲んだ。しかし、「大谷吉継の大軍が後詰でやってくる」という虚報(吉継自身が流したと言われている)に引っかかり、急いで金沢に引き返そうとした。
利長は途中軍勢を二手に分け、
丹羽長重が篭る
小松城に別働隊を送り込んだ。8月9日、別働隊に長重の篭城軍が襲い掛かり、別働隊を蹴散らした長重はさらに利長の本隊も襲い、大損害を与えた。こう着状態になったあと長重は和睦、小松城を明け渡した。辛くも金沢に戻った利長は大急ぎで軍を建て直し、9月12日に再度金沢を出発したが、結局関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃には参加していた弟の
前田利政は、居城である
七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった。利政はかねてより西軍への参加を主張していたものとみられ、結果的に領地没収の憂き目にあった。
畿内
- 大津城
- 田辺城
四国
伊予でも東軍についた
加藤嘉明の松前城に対し、
毛利軍が戦闘をしかけた。
平安時代から続く名族で旧伊予
守護家・
河野氏当主であった
河野通軌(
河野通直の養子。実父は毛利氏重臣・
宍戸元秀)を始め
平岡直房・曽根高房ら河野氏遺臣、
村上武吉・村上元吉父子ら伊予に縁のある毛利家臣が
三津浜に上陸し、陣を敷いた。松前城に対し開城を要求したが、加藤家の留守居役
佃十成らに夜襲を受け、村上元吉、曽根高房らが討ち死にし(三津刈屋口の戦い)、その後も毛利方が不利のまま関ヶ原での西軍敗北を受けて毛利軍は撤退、関ヶ原の戦いに乗じた河野氏再興はならなかった。
九州
九州では
黒田如水、
加藤清正、
鍋島直茂らが本国に留まっていたが、清正と直茂は当初中立を保ち、積極的に動いたのは東軍に与した如水であった。如水は
中津城に蓄えてあった金品や兵糧を惜しげもなく放出し、それに釣られて集まってきた浪人を中心に3500余りの俄か作りの軍勢を作った。
一方、西軍側には東西対決の様相を見せるや毛利輝元の支援を受け
豊後奪還を図った
大友義統(
大友宗麟の子)がいた。嫡男である
大友義乗は家康に従い東軍に従軍していたが義統は輝元の誘いに乗って西軍に付いた。重臣であった
吉弘統幸はこれに反対するが
9月9日、義統は追放以来久しぶりに豊後の地を踏み、大友旧臣に集結を呼びかけた。これに対し
田原紹忍や宗像鎮続など旧臣が義統の下に集まり、およそ3,000の兵力で石垣原(
別府市)で如水勢を待ち構えた。
9月13日、両軍がついに激突するも統幸・紹忍ら大友軍の主力武将が討ち死するなど敗勢が明らかとなり、
9月15日、義統は出家して
母里太兵衛の陣に出頭し如水勢に降伏した。如水勢に加勢するために熊本を出陣した清正は、如水勢勝利の報を聞いて反転し、行長の領土に攻め入った。
有馬晴信や
松浦鎮信ら肥前国内で中立を保っていた諸大名もこれに加勢し、
小西行景の籠る宇土城を攻略した。日向では病気のため東軍に参加出来なかった
伊東祐兵の嫡男・
伊東祐慶が島津領内に攻め込み、さらに
秋月種長や
高橋元種の領地にも攻め入るなど活発な行動を見せた。だが種長や元種らは
大垣城で東軍に寝返ったため、結果的には同士討ちとなってしまった。
如水勢はその後も北九州諸城を攻め落とし、関ヶ原に間に合わず帰国した
立花宗茂が篭る
柳川城を清正、直茂とともに取り囲んで宗茂を降伏させた。如水ら連合軍は総仕上げとして、九州に残る最後の西軍大名、島津攻めを計画、また、行長の領地に残っていた留守居が
島津義久に救援を要請し、義久がそれに応え軍勢を派遣するなど九州の緊張は最高潮に達していたが、島津攻め直前に家康から停戦命令が届き、島津攻めは中止となった。
その他
- 関東
常陸
水戸城主56万石の大大名であった
佐竹義宣は三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいたといわれる。だが父・
佐竹義重や重臣筆頭である
佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交の板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を
中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の
多賀谷重経や、小勢力の
山川朝信、相馬義胤は景勝に通じていたが、これには
結城氏一族で
結城秀康の家督相続によって浪人となった
結城朝勝の動きが背後にあった。
- 伊勢
関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった
安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の
富田信高は降伏・出家、
松坂城の
古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。
戦後処理・論功行賞
西軍
- 戦後の9月21日、石田三成は田中吉政隊によって捕縛された。また、小西行長は9月19日竹中重門隊に、安国寺恵瓊は9月23日にそれぞれ捕らえられた。そして大坂、堺を引き回しにされたうえで、六条河原にて斬首された。小西氏や安国寺氏は家名断絶したが三成の嫡男・石田重家は京都の妙心寺で出家、次男・石田重成の系統が陸奥弘前藩の重臣として存続した。これには親友であった津軽為信の庇護があった。
-
宇喜多秀家においては戦いの後薩摩に逃亡したが、慶長8年(1603年)末に島津忠恒によって家康に引き出された。忠恒と正室・豪姫の実家である前田利長による助命嘆願で死一等を減じられ、駿河久能山に幽閉された後、嫡男・宇喜多秀隆、次男・宇喜多秀継と共に八丈島に流罪とされた。秀家は四代将軍家綱の治世まで延命し、その子孫は前田家の支援を受けながら明治維新まで家を繋いだ。
-
長束正家は、居城の近江水口城に逃走したが、東軍の池田輝政隊の追討を受けて弟・長束直吉と共に10月3日に自害した。大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りによる攻撃を受ける中、自害して果てた。増田長盛は内通の功もあってか死一等を減じられ武蔵岩槻の高力清長に預けられたが、1615年に嫡男・増田盛次の豊臣方参陣を咎められて切腹させられた。前田玄以は家康の弾劾状に署名をした一人であるが、その後は厳正中立を保っていたため領国である丹波亀山5万石を安堵された。
-
島津義弘は薩摩に逃亡した後桜島で謹慎したが、武備恭順の姿勢を貫いた。また退却戦で義弘を追い詰めた井伊直政に取り成しを依頼した。直政もこれに応じさんざんに揉めた末、慶長7年(1602年)4月、家康は「義弘の行動は当主が認めたものに非ず」とし、義弘の兄であり島津家当主・島津義久に対して本領を安堵し、家督を島津忠恒に譲ることについても承認した。
- 毛利氏については毛利家の当主・毛利輝元が西軍の総大将として大坂城にあったため、吉川広家の本領安堵の約定は反故にされ、所領没収となり広家には周防と長門の二ヶ国が与えられた。これに慌てた広家はこれを辞退し毛利家の所領とするよう願い出て受け入れられた。結果的に毛利家は大減封となり、吉川広家は毛利家から本家を売ったと囁かれ、肩身の狭い思いをする。
-
立花宗茂や前田利長を痛撃した丹羽長重も所領を没収されたが、このうち宗茂と長重は徳川秀忠の計らいなどもあり後に大名に復し、宗茂は旧領まで取り戻した。織田信雄の嫡男・織田秀雄も戦後すぐに500俵を与えられたが早世し家名断絶となった。
-
長宗我部盛親は謝罪したものの、誤解と家臣・久武親直の讒言が原因で兄の津野親忠を殺害してしまい、家康の逆鱗に触れ所領没収となった。盛親はその後寺子屋の師匠として京都にいたが、豊臣秀頼の誘いを受け大坂城に入城する。一方一族である香宗我部貞親は長宗我部氏より離反し、子孫は以後下総佐倉藩の重臣となる。
-
上杉景勝は結城秀康の取り成しや本多正信と親しかった重臣・千坂景親の働きもあって上洛して謝罪し、改易は免れたが会津120万石から米沢30万石に減封された。
-
佐竹義宣も常陸水戸54万石から出羽秋田18万石へ減封された。配下大名であった岩城貞隆や芦名盛重、多賀谷重経も同様に改易となった。相馬義胤も一旦領地召し上げとなったが、本多正信やかつての宿敵であった伊達政宗の取り成しによって旧領に復している。また岩城氏も後年出羽亀田に3万石を与えられ、大名に復帰した。
- 西軍を裏切って東軍に寝返った小早川秀秋は、筑前名島36万石から備前岡山57万石へ加増移封された。しかし、秀秋は慶長7年にわずか21歳の若さで病死、後嗣無しをもってお家断絶となった。また秀秋の裏切りに呼応して寝返った脇坂安治は所領安堵、朽木元綱は減封、小川祐忠と赤座直保は所領没収となっている。元綱は事前に連絡を通じていなかったために減封、祐忠は裏切りの過去が多かったことと嫡子が三成と親しかったことが、直保は「銃声に腰が引けた」という理由が原因とされる。祐忠は戦いの翌年死去、直保は前田利長に仕えたが慶長11年(1606年)、越中で溺死した。一方大垣城で寝返った相良長毎や秋月種長、高橋元種ら九州の武将は所領を安堵されている。鍋島勝茂は父・鍋島直茂が早くから家康に接近しており、直茂の命で本戦への参加を行わず戦後直ちに謝罪したため、立花宗茂攻略を条件に所領を安堵された。
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丹後
田辺城攻略に従軍した西軍の大名の中には、西軍に与したにもかかわらず所領を安堵された谷衛友などの武将がいる。詳細は明らかにはなっていないが、一説には細川幽斎の歌道の弟子であったものも多く、従軍しても積極的に戦わなかったことで幽斎の取り成しがあったともいわれている。
- 一部の大名を除き多くの大名や家臣はその後浪々の身を余儀無くされた。これらの武将達はその後勃発した大坂の陣において豊臣方として再度家康に抗している。これらの主な武将として長宗我部盛親・真田幸村(昌幸次男)・毛利勝永(勝信嫡男)・大谷吉治(吉継嫡男)・増田盛次(長盛嫡男)・明石全登(宇喜多氏遺臣)などが有名である。
関ヶ原の戦いで敗れた
長州藩毛利氏は徳川氏に対する怨念が特に残り、250年後の
幕末における
江戸幕府の
討幕運動の原動力となっていったと言われている。
薩摩藩島津氏も同様といわれるが所領を安堵されたこともあり当初は徳川幕府への怨念はなく、後年
宝暦治水の過酷さから次第に怨念を募らせていった。
土佐藩における倒幕の原動力となった
郷士達は元を正せば
長宗我部氏遺臣である
一領具足の出であり、これら薩摩・長州・土佐の関ヶ原における恨みは幕末に爆発したとも言える。
東軍
東軍に参じた豊臣恩顧の諸大名は大幅に加増となった。また、豊臣政権下での太閤蔵入地も廃止された。ただし、彼らはいずれも家康により、加増される代わりに外様大名として西国へ移封となった。
- 小早川秀秋は越前32万石から備前備中美作53万石へ、
- 細川忠興は丹後宮津18万石から豊前小倉40万石へ、
- 田中吉政は三河岡崎10万石から筑後柳川32万5千石へ、
- 黒田長政は豊前中津18万石から筑前名島52万石へ、
- 加藤嘉明は伊予松前10万石から同松山20万石へ、
- 藤堂高虎は伊予板島8万石から同今治20万石へ、
- 寺沢広高は肥前唐津8万3000石を12万3000石へ、
- 山内一豊は遠江掛川7万石を土佐浦戸24万石へ、
- 福島正則は尾張清洲20万石を安芸・備後広島49万8000石へ、
- 京極高知は信濃飯田10万石を丹後宮津12万3000石へ、
- 生駒一正は讃岐高松6万5000石を17万1000石へ、
- 最上義光は雄勝郡平鹿郡33万石から出羽山形57万石へ、
- 池田輝政は三河吉田15万2000石を播磨姫路52万石へ、
- 浅野幸長は甲斐府中22万石から紀伊和歌山37万6000石へ、
- 加藤清正は肥後熊本25万5000石を54万5000石へ
また、奥州において東軍に与した
伊達政宗は陸奥岩出山57万石を62万石へ、最上義光は出羽山形24万石を57万石と言った具合に加増されている。ただし、伊達政宗に対する「百万石のお墨付き」の約束は事実上反故にされている。これは政宗が乱に乗じて勢力を拡大しようと
和賀忠親を煽動して
南部利直領内で
一揆を起こさせたことが発覚したためである(
花巻城の夜討ち)。
徳川家
家康自身の直轄領については、関ヶ原以前の250万石から400万石へと大幅に増領した。この中には京都・
堺・
長崎を始めとする大都市や
佐渡金山・
石見銀山・
生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・
鉱山も含まれ、徳川氏による権力掌握が確固たるものになった。
豊臣家
豊臣家の領土は秀吉時代の222万石から
摂津・
河内・
和泉三国65万石へと大幅な減封となり、完全に徳川氏と豊臣氏の立場は逆転した。これは各大名家の領地に含めていた太閤
蔵入地(秀吉自身の直轄地)が、西軍大名の領地もろとも没収・減封されたためである。
このことにより、豊臣家が一大名の立場となるとする学説がこれまで一般的であったが、豊臣家がなお特別の地位を保持して徳川の支配下には編入されていなかったとする認識が現在では主流となっている。
また、莫大な秀吉の遺産である所蔵金はそのままであり、以後家康は
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまでその対策に苦心する。
関ヶ原の戦いに関する論点
大垣城に篭っていた西軍首脳の
石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、
大坂へ向かう」という流言を流した家康に三成がまんまと釣り出されたという説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い。
一つは、もし家康がこの様な流言を流したのであれば、部隊が最も脆弱になる行軍中を襲撃するはずであり、家康がこの様な有利な体制からの攻撃をしかけなかったのは不自然であるという事。また、三成は関ヶ原の合戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大坂に求めており、これは一枚岩とは言えない西軍の士気を引き締める為であったと思われるが、家康が大坂へ向かうのなら三成にとっては好都合であり、
大坂城付近での後詰決戦を行えば良いはずであるという点である。
これに対して、付近の河川の氾濫により度々水害に見舞われていた
大垣城を家康が水攻めにし、その為に西軍の首脳と、既に関ヶ原付近に布陣していた毛利、小早川等との連絡が断たれる事を恐れた為ではないかという説(橋場日月、『歴史群像』2000年)がある。この説は、関ヶ原、松尾山に施されていた築城工事が新城と言えるほど大規模なものであった事を前提として、三成の戦略を以下のように推定する。
- 関ヶ原西方の松尾山-笹尾山ラインに野戦築城を施し東軍の進撃を阻止する。
- 松尾山の城砦には西軍主力となる毛利輝元以下3万を配置する。
- 東軍が大坂へ向かう為に大垣城を無視して関ヶ原に進撃すれば、大垣城の石田三成・宇喜多秀家、南宮山の毛利らが東軍を追撃し1のラインで東西から挟撃する。
- 東軍が大垣城を攻めれば、1のラインに布陣する大谷吉継、毛利輝元らが大垣城を攻めている東軍を西から攻撃し、大垣城の城方と挟撃する。
つまり、この戦略によればどちらに転んでも西軍は東軍を挟撃する事が出来る事になる。
しかし、関ヶ原西方の松尾山-笹尾山ラインの要である松尾山城砦に去就が明らかとは言えない
小早川秀秋が、西軍の城番を半ば追い出す形で居座ってしまった事、また、大垣城が水攻めに脆弱であり、水攻めが行われれば後詰決戦で城方が討って出る事が出来なくなってしまうことなどから、この戦略は破綻した。そのため、三成らは関ヶ原へ潜行したのではないかと推測するのが、この説の要旨である。
関ヶ原の戦いに関する創作
参考文献
- 藤井治左衛門「関ヶ原合戦」(関ヶ原観光協会)
- 藤井治左衛門「関ヶ原合戦史料集」(新人物往来社)
- 笠谷和比古「関ヶ原合戦」(講談社)
- 白水正「図説 関ヶ原の合戦」(岐阜新聞社)
- 二木謙一「関ヶ原合戦」(中公新書)
- 宮川尚古「関原軍記大成1~4」(国史研究会)
脚注
関連項目
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