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井上ひさし

井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - )は、日本の小説家劇作家放送作家日本ペンクラブ会長。本名井上廈

来歴

井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。
義父に有り金を持ち逃げされ、生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」にひさしを預ける。
そこでは修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。
*カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじていた。
*毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。入所児童はこのような修道士たちの生きざまに感動し、受洗者が続出した。ひさしもその一人(洗礼名 マリア・ヨゼフ)。
高校は仙台第一高等学校へ進み、孤児院から通学、在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。また、在校中は新聞部に所属し、一学年上級生には俳優の菅原文太がいた。
東北大学東京外国語大学の受験に失敗して、早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも、学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で上智大学文学部ドイツ語学科に入学。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため、2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、弘前大学医学部岩手医科大学を受験して失敗。その後ドイツ語からフランス語に専攻を変えて復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2ヶ月で使い果たした。
上智大学外国語学部フランス語学科を卒業する前から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは、1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は、渥美清を筆頭として、谷幹一関敬六長門勇と言った、後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に、(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。
卒業後、放送作家として活動し、山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がける。ひょっこりひょうたん島が教師に対する抵抗を説いたものであるとする抗議があり、放送が打ち切りになった後、「ネコジャラしの11人」が放送された。作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議がたち、ひょうたん島に比べれば短期間で終了となった。その後小説・戯曲等に活動範囲を広げ、現在に至る。
現在までに日本ペンクラブ会長日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月〜)、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月〜)、世界平和アピール七人委員会委員などを歴任。また、多くの文学賞等の選考委員を務めており、直木三十五賞読売文学賞小説賞、谷崎潤一郎賞大佛次郎賞川端康成文学賞吉川英治文学賞岸田国士戯曲賞講談社エッセイ賞日本ファンタジーノベル大賞小説すばる新人賞が挙げられる。

社会活動

1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し、図書館「遅筆堂文庫」が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講している。農業関係の催しが多い。

文体の特徴

文体は軽妙であるが言語感覚に鋭く、『週刊朝日』において大野晋丸谷才一大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載、『私家版日本語文法』など、日本語に関するエッセイ等も多い。
自他ともに認めるたいへんな遅筆で有名であり、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々で、それを逆手にとって自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもある。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高い。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填しているという。1983年に自作の戯曲のみを専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、みずからを座付き作者と名乗る。ちなみに親交のある永六輔によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だという。ただし字は丁寧で大変読みやすく、編集者を手こずらせることはない。
しかし、その戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立している。特にデビュー以来40年近くにわたって話題作を提供し続けていることは、他分野の創作も含めて異例の息の長さである。

政治発言

昭和天皇の戦争責任についての提起など左派的発言が目立ち、政治的に対立する団体・個人から脅迫を受けた事もある。右翼団体から脅迫電話を受けた時には、「あなた歴代の天皇の名前、全部いえますか。僕は言えますよ」と逆襲し、その博覧強記ぶりを見せている(戦時中の学校では歴代天皇の暗記が義務付けられていた)。井上ひさしに脅迫電話をかけた右翼の一人に、一水会代表(当時)の鈴木邦男がいる。「なにをいっても論破されてしまうし脅迫も通じない。ついに電話をかけるのをあきらめた」という内容の告白を自著に書いている。
1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版するなど、共産党寄りの文化人として知られている。また、2004年6月、日本の護憲派知識人・文化人らで構成されるグループ「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり、各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど、政治的な活動も古くからおこなっている。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし、反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿するなど、日本共産党との共同歩調が目立つ。
無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」などと極めて大胆な発言をしている。
そのような活動、思想、主義のため、何度か匿名による脅迫を受けたこともある。とりわけ第二次世界大戦における昭和天皇の戦争責任について、数々の戯曲で問題提起をし続けている。一方で今上天皇の園遊会に招待されて参加したこともあり、親と子は別の人格であると言う考えからも親近感を抱いているようにもとれる。

自身の暴力

家庭面では、元妻西舘好子によって井上による家庭内暴力(DV)を曝露する本『修羅の棲む家』(はまの出版)が出版され芸能ニュースを騒がせたこともある。「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」と井上の暴力を克明に記している。井上自身も「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れてはいるが、こちらはあくまでもユーモラスな筆致である。井上との同居を選んだ三人の娘はこの件について特に発言はしていない。文春文庫1984年刊『巷談辞典』pp.309-310では、動物愛護団体への批判と併せて、自身の少年時代に行った猫にガソリンをかけて火をつけるなどの動物虐待をジョークを交えて告白している。

その他

  • 週刊金曜日』の創刊に関わり編集委員を務めたが本多勝一との対立からわずか2年で辞任している(ただし、現在は和解)。
  • プロ野球東京ヤクルトスワローズのファンの著名人として知られているが数少ない国鉄スワローズ時代からのファン。これは1952年に同郷の佐藤孝夫がもしも新人王を取ったらば未来永劫応援し続けるとキリストに祈ったらその通りとなり結果やめたら「天罰が下るのが怖い(本人談)」から応援し続けているとのことである。

受賞作品・活動

作品リスト

脚注

関連項目

*

出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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