また、「ローマ法」という言葉は、広義には、古代ローマの法制度ばかりでなく、法が
法典化される前の
18世紀末までのヨーロッパのほぼ全土で適用された法をも指していう。
ドイツなどにおいては、これ以降もローマ法が実際に適用され続けた。それは、ヨーロッパやその他の地域における近代的な
大陸法制度の多くがローマ法の多大な影響を受けているためである。
私法の分野ではこの影響が顕著である。ローマ法がイギリスの法制度に与えた影響は、ヨーロッパ大陸の法制度に与えた影響と比較すれば、かなり小さなものではあるが、それでも、イギリスや北アメリカの
コモン・ローでさえ、ローマ法から継受したものがみられる。ローマ法の影響は法律学の述語にも広く及んでおり、あらゆる法制度の中に残っている。「先例拘束の原則」 (
stare decisis) や「契約締結上の過失」 (
culpa in contrahendo) (ドイツ民法典311条)、「合意は守られるべし」 (
pacta sunt servanda) といった例がある。
古代におけるローマ法の発展
ローマ人には法を法典化しようという傾向はなかった。そのために、ローマ法が法典化されたのは、ローマ法の歴史の中でも最初(十二表法)と最後(テオドシウス法典とユスティニアヌスの『市民法大全』しかないのである。
初期
この当時(
紀元前754年 -
紀元前201年)の私法はローマ市民法 (
ius civile Quiritium) であり、
ローマ市民にのみ適用された。これは信仰と密接に結びついたものであり、厳格な形式性、記号性及び保守性を特徴としていた。
ローマ法の発展が始まった日を正確に特定することはできない。内容まである程度判明する最初の法的文書は、十二表法である。十二表法は
紀元前449年に
十人委員会 (
decemviri legibus scribundis) によって起草された。その断片が記録されて残っているが、そこから分かるのは、十二表法は近代的な意味での法典といえるものではなかったということである。十二表法は、いかなる事案にも法的解決を与えるような適用可能なあらゆる規則を完全かつ首尾一貫した体系として提示することを目的としたわけではなかった。十二表法は、その制定当時に既に存在していた慣習法を変更することを意図した個別的な規定をいくつも集めたものである。これらの規定は、あらゆる法分野に関係している。とはいえ、その中で最も大きな部分を占めるのは、私法と
民事訴訟に関するもののようである。
この時代に重要な法源となったのが、
パトリキと
プレブスとの間の闘争の結果である。その闘争の結果として、十二表法が制定された。その他の法としては、
紀元前445年のカヌレイウス法(パトリキとプレブスの婚姻 (
ius connubii) を認めたもの)、
紀元前367年の
リキニウス・セクスティウス法(公有地 (
ager publicus) の所有に制限を設け、執政官の1人をプレブスとすることを保障したもの)、
紀元前300年の
オグルニウス法 (プレブスにも神官になる道が開かれた)、紀元前287年の
ホルテンシウス法(平民会の決議 (
plebiscita) は今や全市民を拘束する)などがある。
共和政時代の別の重要な成文法は、
紀元前286年のアクィリウス法であり、これは、
不法行為法の原点とみてよかろう。しかしながら、ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、専門家集団としての
法律家と法学が出現したということである。これは、
ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用することによって成し遂げられたのである。
伝統的に、ローマ法学の起源はグネウス・フラウィウスに求められる。フラウィウスは、
紀元前300年ころ、法廷において訴訟を開始するために用いるべき術語を集めた式文集を出版したといわれている。フラウィウスの時代の前には、こうした式文集は秘密のもので、神官にしか知られていなかったといわれている。フラウィウスの出版により、神官でなくてもこれらの法的文書を探求することができるようになった。この説が信用できるか否かはともかく、
紀元前2世紀には、法律家の活動が盛んになり、法学論文が多数書かれるようになった。共和政時代の有名な法律家の中には、 法のあらゆる側面についての膨大な論文を書き、後世に多大な影響を与えたクィントゥス・ムキウス・スカエウォラや、
キケロの友人であったセルウィウス・スルピキウス・ルフスがいる。それ故、
紀元前27年に
共和政ローマが倒れ、代わって
元首政という独裁体制が成立したころには、既にローマには非常に洗練された法制度と一新された法文化が存在していたのである。
古典期前
おおよそ
紀元前201年から
紀元前27年までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していったことを見て取れる。古い形式的な「市民法」に加え、新しい分類の法が創られた。「名誉法」(
法務官がこの新たな法体系創造の中心となったことと、法務官の地位が名誉職であったことにより、このように呼ばれる)がそれである。この新しい法が登場すると、古い形式主義は放棄されてゆき、「
万民法」という新しいより柔軟な原理が採用された。
新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、布告 (magistratuum edicta) を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の布告に拘束されなかったが、前任者の布告が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその布告を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、布告から布告へと受け継がれていった (edictum traslatitium) 。
こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していたのである。実際にも、有名なローマ法学者アミリウス・パピニアヌス( -
212年)は、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」 (
Ius praetorium est quod praetores introduxerunt adiuvandi vel supplendi vel corrigendi iuris civilis gratia propter utilitatem publicam) 。結局、市民法と法務官法は
市民法大全において融合する。
古典ローマ法
この時代の最初の250年間は、ローマ法とローマ法学が最高度に達し、完成をみた時期である。この時期の法は、「ローマ法の古典期」として論及されることが多い。この時期の法律家が文章と実践の両面で到達した成果が、ローマ法の独特の姿を形作っている。
法律家は様々な役目を果たした。彼らは民間の訴訟当事者の求めに応じて法的意見を述べた。彼らは裁判を運営することを任された公職者(その最も重要な者が法務官)に助言した。法務官は、その在任期間の最初に公布する布告において、その任務をいかに遂行するのか、及び特定の手続を運営する準則となるべき式文集を明らかにしたが、法律家は法務官のこの布告の起草に助力した。法律家の中には、自ら裁判部門や行政部門で高位に就く者もあった。
法律家は、あらゆる種類の法注釈書や取決めも産み出した。
130年ころ、法律家サルウィウス・ユリアヌスは法務官布告の標準書式を起草し、これ以降の法務官は全てこれを用いた。この布告は、法務官が訴訟を許し、答弁を認めるあらゆる事例の詳細な説明をその内容としていた。そのため、この標準布告は、公式には法としての強制力を持たなかったけれども、包括的な法典にも似た機能を果たすことになった。そこに法的申立てを成功させるために必要な条件が示されていたからである。この布告はそれ故パウルスや
ドミティウス・ウルピアヌスのような後代の古典期法学者が法注釈書を拡充する際の基礎となった。
古典期前や古典期の法学者が発展させた新しい概念や法制度は枚挙にいとまがない。ここではそのうちいくつかを例として挙げる。
- ローマ法学者は物を利用する法的権利(所有権)とそれを利用したり操作することができる事実上の能力(占有)とを明確に分離した。また、彼らは、法律上の義務の原因としての契約と不法行為との間の区別を見出した。
- 大陸法系の法典に規定がある契約の標準類型(売買、雇用契約、貸借、役務契約。日本の民法学では有名契約という。)とこれらの契約相互間の特徴付けはローマ法学によって進められた。
- 古典期の法律家ガイウス(160年ころ)は、あらゆる問題を「ペルソナ」(人)と「レス」(物)と「アクチオ」(訴権、訴訟)に区分し、この区分を基礎として私法の体系を発案した。この体系は何世紀もの間用いられた。その業績は、ウィリアム・ブラックストーンの『イングランド法注解』のような法学論文やナポレオン法典の制定にも影響を及ぼしている。日本の民法総則や商法において「人」「物」「行為」(ただし、商法には「物」はない)の順で条文が分類され並んでいるのもこの影響である。
古典期後の法
3世紀中葉から、法文化の刷新が次々に進むような条件が揃わなくなり始めた。政治的・経済的状況が全般的に悪化した。皇帝は政治生命のあらゆる場面で親政の強化を目論み始めた。共和政体の特徴をいくらか留めていた元首政という政治制度も、君主政という絶対君主制に変容し始めた。法学や法を、絶対君主が設けた政治的目標を達成するための道具ではなく、科学とみなす法律家の存在は、新秩序にはうまく適合しなかった。著作はほとんど書かれなくなった。3世紀中葉以降の法学者で名前が知られている者は少ない。法学と法教育は帝国の東側である程度続いたが、帝国の西側では古典期の法の精妙な議論は軽視され、ついには忘れ去られた。古典期の法はいわゆる卑俗法に取って代わられた。古典期の法律家の著作はまだ知られていたものの、新しい状況に適するように書き換えられてしまった。
ローマ法の重要概念
市民法、万民法、自然法
「市民法」 (
Ius Civile) とは、元来、
Ius civile Quiritium と呼ばれ、ローマ市民に共通して適用される法の体系であったし、
都市法務官 (Praetores Urbani)(単数形
Praetor Urbanus )も、市民が当事者になった紛争について裁判権を有する人々であった。
「万民法」 (
Ius Gentium) とは、外国人同士の問題や外国人とローマ市民との間の取引に共通して適用される法の体系である。
外事法務官 (Praetores Peregrini)(単数形
Praetor Peregrinus )は、市民と外国人が当事者になった紛争について裁判権を有する人々であった。
ローマの法律家の中には、さらに「自然法」 (Ius naturale) という類型を導入する者もいた。これは自然法 (natural law) (あらゆる人間に共通して適用されると考えられる法の体系)を包含する概念である。論者は、何故「万民法」は帝国内に住むあらゆる人に受け入れられているのかを考えた。その結論は、これらの法は合理的人間の行動規範に沿ったものであり、それ故に皆が従うのだというものであった。そこで、通常の人間の行動規範に沿ったあらゆる法を「自然法」と呼ぶことにしたのである。例えば、奴隷制は帝国全土で万民法の一部をなしていたが、それは、奴隷制が、合理的な人間の行動規範に必ずしも沿わないものであるにもかかわらず、当時知られていた世界ではどこででも事実として知られており、かつ、受け入れられていたからである。人々に他人のために強制的に労働させることは通常のことではない。したがって、奴隷制は「万民法」の一部ではあっても、「自然法」の一部ではないのである。
成文法と不文法
成文法 (Ius Scriptum) と不文法 (Ius Non Scriptum) は、文字通りにいえば、それぞれ書かれた法と書かれていない法をいう。実際には、両者の違いはその生成過程にあり、(生成後に)文字で書き留められたかどうかは必ずしも問題ではない。
「成文法」は、立法者が文章によって制定した法の総体である。こうした法は、ラテン語で leges (英語の "laws" )や plebiscita (英語の "plebiscites" 、日本語の「国民投票」であり、平民会の起源)と呼ばれた。ローマの法律家は、成文法に次のようなものを含めた。
- 公職者の布告 (magistratuum edicta)
- 元老院の結論 (Senatus consulta)
- 法律家の回答や学説 (responsa prudentium)
- 皇帝の宣言や信念 (principum placita)
不文法は、慣習となった実務から現れ、時代を超えて拘束力を有するようになった普遍的な法の総体である。大ざっぱにいえば、「この人が決めたことだから従う義務がある」というような特定の「この人」(これを「立法者」という。)がいないにもかかわらず、様々な実務家が繰り返しある規範を採用し、その規範に従う義務があるという共通認識が社会全体にもできたとき、その規範を「普遍的な法」 (common law) というわけである。
公法と私法
ius publicum は公法を意味し、
ius privatum は私法を意味する。公法はローマ
国家の利益を保護するのに対して、私法は
個人を
保護すべきものである。ローマ法においては、私法には、身分法、財産法、民法及び刑法が含まれ、訴訟は私的な手続であった (
iudicium privatum) 。犯罪も私的なものだったのである(国家が訴追するような最も重大なものは除く)。公法は私法の中でもローマ国家に密接に関わり得るような領域のものだけを含んでいた。
ius publicum は、順守が義務づけられた法的規制(今日では ius cogens (強行規範)と呼ばれる。)を表現するためにも用いられた。これらは、当事者間の合意で変更したり排除したりすることができない規制である。変更できる規制は、今日では ius dispositivum (任意規範)と呼ばれ、当事者が何かを共有し、かつ対立していない場合に用いられる。
一般法と特別法
ius singulare(特別法)は、何らかの人やもの、あるいは法的関係に対して適用される、一般的な通例の法 (ius commune) とは異なる特別な法のことである(「特別」というのは、それが法制度の一般的な原理に対する例外であるからである)。その例として、遠征中に軍務についた人が書いた遺言に関する法がある。この場合、通常の環境下で市民が遺言を書く場合に要求される厳格な形式が免除されるのである。
人民の権利 (status)
詳細はローマ法における人民の権利
法制度におけるある人の位置を表現するために、ローマ人は status という表現を使うのが通例であった。人は、外国人とは異なるローマ市民 (status civitatis) であったり、奴隷とは異なり自由 (status libertatis) であったり、家父長 (pater familias) やその下の家人といったローマ人家族の一員 (status familiae) であったりしたわけである。
ローマの訴訟
詳細はローマの訴訟
古代ローマには、イギリス公訴局のような公の起訴担当部局というものはなく、個々の市民が自ら、通常は資金的支援もないか、あってもごくわずかのまま、自ら訴えを提起しなければならなかった。しかし、
政治家は、しばしば訴えを提起した。そうすることが公的奉仕であるかのように見えたからである。初期には、訴えの提起は、書面の
起訴状ではなく、口頭で呼び出す方法によりなされていた。しかし、後に、訴えはしかるべき文書を提出すれば係属するものとされた。訴えが係属すると、裁判官が指名され、その訴えの判決が示された。
共和政時代やその後もローマの訴訟手続が官僚裁判官によって担われるようになるまでの間は、裁判官も通常は一人の私人であった(私人裁判官、 iudex privatus )。裁判官は男性のローマ市民に限られていた。当事者は指名された裁判官に同意するか、 album iudicum と呼ばれた名簿の中から裁判官を指名することができた。当事者双方が合意できる裁判官が見つかるまで名簿順に下がって行き、もし誰も合意できなければ名簿の一番下の裁判官を選ばなければならなかった。
重大な公益がかかっている訴えについては、5人の裁判官で法廷を構成することがあった。まず、当事者が7人を名簿から選び、次に、その7人の中から無作為で5人が選ばれた。彼らは審理員 (recuperatores) と呼ばれた。
この仕事は荷が重いと考えられていたため、訴えを裁判する法的義務は誰も負わなかった。しかし、裁判をする道徳的な義務はあり、これは「職務」 (officium) という言葉で知られていた。裁判官は訴訟を指揮するやり方について大幅な裁量権を有していた。裁判官はあらゆる証拠を考慮して、適当と思われる方法で判断を示した。裁判官は法律家でもなければ法的な技術も持たなかったので、訴えの技術的な側面について法律家に諮問することも多かったが、法律家の回答には拘束されなかった。訴訟が終結しても、裁判官にとって事案が明確になっていなければ、裁判官は、事案不明確を宣言して判決を拒否することもできた。また、判決が何らかの技術的な問題(申立ての種類など)によって左右されるときは、判決宣告までにいくら時間をかけても構わないとされていた。
その後、官僚裁判官が登場するようになると、こうした手続は姿を消し、いわゆる「特別審理」 (extra ordinem) 手続(別名 cognitry )に置き換わった。すべての事件が公職者裁判官の前で審理された。公職者裁判官は審理と判決をする義務があり、判決に対しては上級の公職者裁判官に控訴をすることができた。
ローマ法の晩年
東ヨーロッパのローマ法
東ローマ帝国においては、ユスティニアヌス法典が法実務の基礎となった。
レオーン3世は、
8世紀前半にエクロゲー (
Ecloga) という新たな法典を公布した。
9世紀には、
バシレイオス1世と
レオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、
ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。
西ヨーロッパのローマ法
西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島までしか及ばなかった。ゲルマン諸王は独自に
法典を公布した。しかし、それらの中にも、先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができる。多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法典が適用される一方で、ローマ市民の末裔にはローマ法が適用され続けた。勅法彙纂と法学提要は、それ自体が西ヨーロッパでも知られていた(ただし、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。)が、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていた。
1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本が再発見された。これは主として注釈者が写本の行間に注釈を書いたり (
glossa interlinearis) 、欄外に注釈を書いたり (
glossa marginalis) して出版したものであった。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのは
ボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。
ボローニャで(後世にはその他の多くの場所で)ローマ法を教えられた学生達は、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに気付いた。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば有名な Princeps legibus solutus est (主上は法に拘束されない)といった規則を通じて自らの利益を追求したのである。
中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。
16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどのヨーロッパ諸国における法実務を支配するに至った。ローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特に封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及び
スコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネ (
Ius Commune) と呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、
大陸法(英語圏の国では
civil law )として言及される。
イングランドだけは、ローマ法の継受に参加しなかった。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドの法制度がヨーロッパ大陸の法制度よりも進んでいたという事実である。そのため、ローマ法の実務的な先進性が、イングランドの実務家にとっては、ヨーロッパ大陸の法律家にとってほど明白なものではなかったのである。さらに、ローマ法が
神聖ローマ帝国や
カトリック教会、
絶対主義を連想させるという事実が、イングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度である
コモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。
とはいえ、ローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。
ローマ法を実際に適用する動きやヨーロッパ流のユス・コムーネの時代は、国家が法典化に乗り出した時に終わりを迎えた。
1804年、
フランス民法典が施行された。19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになった。ドイツでは、政治的状況のために、統一的な法典を作ることが不可能であった。17世紀から、ドイツでは、ローマ法が自国の(共通の)法により強い影響を受け、「パンデクテン(学説彙纂)の現代的慣用」 (
usus modernus Pandectarum) と呼ばれた。ドイツの一部では、
ドイツ民法典 (
Bürgerliches Gesetzbuch,
BGB) が1900年に施行されるまで、原則的には
普通法たるローマ法が適用され続けた。主に大陸法を継受した日本の法制度も、間接的にではあるが、ローマ法の強い影響を受けている。
ローマ法の今日
今日、ローマ法はもはや法実務においては適用されておらず、
南アフリカや
サンマリノのような一部の国の法制度が、今もなお旧来のユス・コムーネに基礎を置いているのみである。しかしながら、法実務が(近代的な)法典に基礎を置いているとしても、多くの規範がローマ法に由来している。ローマ法の伝統と完全に断絶している法典は存在しない。むしろ、ローマ法の規定をより時代に密着した制度として適合させ、その国の言葉で表現したのが近代的な法典である、とすらいえよう。そのために、ローマ法の知識は今日の法制度を理解する上で不可欠なものである。それゆえ、大陸法圏においては、しばしばローマ法が法学部生の必修科目とされるのである。
欧州連合の加盟国内は私法の統一を目指して動き始めている。古いユス・コムーネは、それが各国の法実務共通の基礎であり、しかも多くの地域的変容を許容してきたものであるが故に、多くの点で模範となるように思われる。
外部リンク
関連項目
ろーまほう
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