ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、
仏24 heures du Mans )は、
フランスの
ル・マン近郊で行われるカーレースである。24時間でどれだけ長い距離を走ることができるかを競う。
日本で「ル・マン24時間」と言うと、通常は毎年6月の初めから中頃(一年の内で最も昼の長い時期)に開催される自動車による
耐久レースのことを指すが、現地では
オートバイによる24時間耐久レースも毎年4月に開催されている。以下、自動車による24時間レースについて解説する。また、ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。
概要
世界三大レース
そして老若男女・国籍・普段走っているカテゴリーに関係なくさまざまなドライバーが参加し、現役ドライバーはもちろん一線を退いたスター選手の走りも見る事ができる。
開催地
競技は、
フランス中部にある
ル・マン市の
サルト・サーキットと呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われ、その殆どは一般道で、スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用の
ブガッティ・サーキットの一部を使用する。各ストレートやコーナーには「ユノディエール」や「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの名称がついており、これらの名称は世界的に著名である。
サルト・サーキットの特徴といえばユノディエールという全長6kmに及ぶストレート(右のコース図で言う上のストレート区間)であったが、マシンの進歩により
1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、安全上の問題から
1990年には二箇所の
シケインが設けられた。
コース全長の変遷
- A (1923年 - 1928年)17.262km※当初は現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった
- B (1929年 - 1931年)16.340km
- C (1932年 - 1955年)13.492km※ここからテルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型に
- D (1956年 - 1967年)13.461km
- E (1968年 - 1971年)13.469km
- F (1972年 - 1978年)13.640km
- G (1979年 - 1985年)13.626km
- H (1986年)13.528km※ミュルサンヌコーナーが専用コースでショートカット
- I (1987年 - 1989年)13.535km※ダンロップコーナー前にシケイン設置
- J (1990年 - 1996年)13.600km※ユノディエールに2ヶ所シケイン設置
- K (1997年 - 2001年)13.605km※ダンロップシケインのレイアウト変更
- L (2002年 - 2005年)13.650km※ダンロップブリッジ下からS字までレイアウト変更
- M (2006年)13.650km※ダンロップシケイン付近改修
- N (2007年 - )13.629km※テルトルルージュ付近改修
優勝車/優勝者一覧
メーカー別勝利数
- 13
ポルシェ
- 9
フェラーリ
- 8
アウディ
- 7
ジャガー
- 6
ベントレー
- 4
アルファロメオ
- 4
フォード
- 3
マトラ
- 2
ブガッティ
- 2
ロレーヌ
- 2
メルセデスベンツ
- 2
プジョー
- 1 – シュナール&ウォーカー
- 1
ラゴンダ
- 1
ドラーヤ
- 1
タルボ
- 1
アストンマーチン
- 1
ミラージュ
- 1
ルノー
- 1
ロンドー
- 1
マツダ
- 1
マクラーレン
- 1
BMW
日本勢の活躍
初めはプライベート・チーム
シグマオートモーティブの戦い(1973 - 1975年)
ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは
1973年のシグマ・オートモーティブとシグマMC73である。当初は
トヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなく
マツダ製の12A
ロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したシグマMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンとなっている。シグマMC73は元々
富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。
シグマ・オートモーティブは
1974年も出場し、この年はマツダオート東京と正式にジョイントしてのエントリーであった。24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンの思い出がのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこの時のドライバーの一人が、後に「ミスタールマン」の異名を取ることになる
寺田陽次郎である。
1975年もシグマ・オートモーティブはル・マンに出場した。この年、ついにトヨタからのエンジン供給が実現し、
2T-Gターボエンジンを搭載したシグマMC75でエントリーした。しかし結果はエンジントラブルでリタイアとなっている。
童夢の戦い(1979 - 1986年)
1979年、童夢-零RL2台をエントリーしたものの、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。
1980年、童夢-零RLをモディファイした童夢RL80を1台エントリーさせたが、トランスミッショントラブルもあって最下位の25位で完走した。なお、この年は初出場する
トムスのために童夢
セリカも製作している。メカニック賞に相当するESCRA賞を受賞。
1981年は、前年と同じ童夢RL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。
1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良した童夢RC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。
1984年、
童夢・RC-83/フォードDFLで出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。
1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体にトヨタの4T-GT改を登載する
童夢85C-Lで出場したが、決勝ではトランスミッショントラブルでリタイアした。
1986年、前年と同様の体制で
童夢86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第一期ル・マン参戦は終わった。
マツダオート東京の戦い(1979年、1981 - 1983年)
1974年にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、1979年に自らのチームで参戦を果たす。マシンはサバンナRX7・IMSA-GTO仕様であった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により、結果は予選落ちとなった。
マツダオート東京はチーム体制構築のため翌1980年の参戦を見合せ、1981年に再挑戦をする。この際に
トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携した。また、1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりからドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の脇雅世をチームの料理長に迎えた。脇は1991年のルマンまで料理長をつとめる事となる。この年はRX7・2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。
1982年もRX7を2台エントリーし、1台はリタイア、1台は24時間を走りチェッカーフラッグを受けたものの周回数不足により完走とは認められなかった。
1983年、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦しマツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。
1983年のルマン終了後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の
マツダスピードとなり、以後の活動は
ワークス・チームによるものとなる。
トムスの戦い(1980年、1985 - 1986年)
トムスが初めてル・マンに参戦したのは1980年、RA40系
セリカ・ベースの
IMSA-GTXマシンである。この時は予選落ちしている。
そしてグループC活動開始から4年目の
1985年、トムスは既にル・マンの常連となっていた童夢と共にトヨタエンジンでル・マンに参戦する。トムスとしては5年ぶりとなる。マシンは
トムス85C-L/トヨタ。事実上、トヨタのル・マン初参戦である。この年は12位で完走。
自動車メーカーの本格的挑戦
その後、
マツダ(ワークスチームとしては1984年の
マツダスピードから)や、
日産自動車(1986年初参加)、
トヨタ自動車(ワークスチームとしては1987年から)、
本田技研工業などが過去にワークス・準ワークスチームで参戦したが、総合優勝したことのあるのはマツダ(1991年)だけである。日本車の優勝と日本人の優勝は以下の通りだが、日本メーカー車に日本チーム、日本人ドライバーというオールジャパンチームとしての優勝はまだない。
マツダ悲願の総合優勝
1970年代より、日本勢としては最も古くからル・マン24時間レースに参戦していたマツダは、レギュレーションの変更に伴い
ロータリーエンジンが参加できるのは当初1990年までとなり、1990年のルマンにマツダ787を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。
大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきたマツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた。
日産の挑戦
2年目以降(
R87E、
R88C)は苦戦するが、参戦4年目の1989年、ローラと共同開発の
R89Cで、日本車として初めてル・マンでトップ争いに加わる(3車ともリタイヤに終わるが)。
その後暫く参加を休止するが、1995年に
スカイラインGT-RをベースにしたニスモGT-R-LMで復帰。1997年からは本格的GT-1マシンである
日産・R390で参戦する。
1998年には
星野一義、
鈴木亜久里、
影山正彦のドライブするR390が総合3位に入賞し、純日本人ドライバーチームが初めて表彰台に上がった。この年は日産から4台がエントリーしたが、すべて10位以内で完走した。翌1999年にも
日産・R391で参戦するがリタイヤ。翌2000年にもニスモがR391によるル・マン参戦を計画していたが、この頃日産のCEOに就任した
カルロス・ゴーンの判断により撤退を余儀なくされており、現在に至る。
ゴーンは、
ルノーのCEOに就任し、同社がF1において2005、2006年とチャンピオンを輩出した後にも、F1参戦継続には極めて厳しい目を注いでおり、モータースポーツの参戦には比較的消極的である。
トヨタの挑戦
トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは
1987年から。トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌
1988年には
88Cが12位で完走している。1990年には
90C-Vが6位に入賞。1年の参戦中断の後、
1992年TS010で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位の獲得にとどまる。
1994年には
サードからトヨタ94C-Vが参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位を獲得・クラス優勝を飾る。
久々の復帰となった1998年は
TTEを通じて出走した
TS020が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前に惜しくもリタイア。また、1999年には
片山右京、
土屋圭市、
鈴木利男組が、3号車(98年仕様と同型車)での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ、惜しくも総合2位となった。この年を最後に、トヨタは2002年からの
F1参戦を目指し、リソースをF1に注力するためにル・マンには参戦していない。
なお、先述のTTEは現在のトヨタF1の実働部隊であるTMGの母体となった組織で、ル・マン参戦前は
WRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。(前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツ)
ホンダの挑戦
1994年は
ホンダも
NSX GTにより参戦を始めた。初年度はクレーマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われるも、全車完走を果たした。
2年目の
1995年はGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台(
チーム国光及び
中嶋企画)エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過出来なかった。決勝レースでは、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光(
高橋国光/
土屋圭市/
飯田章組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。
1996年は、GT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。以後ホンダ車の参戦は無い。
その他の日本人、日本チーム勢の活躍
童夢の第二期参戦
1980年代にル・マン参戦を試みていた童夢は、2001年にFIAスポーツカー選手権(FIA SCC)参戦用の車としてオープンプロトタイプカーの童夢・S101を開発すると、同車を購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった。
中でも
ヤン・ラマース率いる「Racing for Holland」が2001年より継続してル・マンに参戦しており、2001年・2003年には予選4番手を獲得するなど、打倒アウディ・R8の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブルに悩まされることが多く、これまでのところ最高位は2003年・2004年の総合6位と、期待されたほどの成績は残していない。
2005年以降はル・マンのレギュレーション変更によりマシンを「童夢S101-Hb」「童夢S101.5」とマイナーチェンジしてきたが、2008年には久々の新車としてクローズドプロトタイプの童夢・S102を開発し参戦した(総合33位)。
その他
- 1990年、東名スポーツがメンテナンスし、その後全日本F3選手権のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ962Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ962Cで初参戦、13位で完走する。
- 1991年にはシフトがメンテナンスするチーム・フェデコのスパイスSE90C/DFR(長坂尚樹/見崎清志/横島久組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイヤとなった。また、AOレーシングが吉川とみ子他女性3名での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。
- 1994年には、チーム・ニッポン(登録名はADA ENGINEERING)がポルシェ962GTi(LMP1)で参戦。原田淳、吉川とみ子、近藤真彦らがステアリングを握ったが、トラブル等により完走は出来なかった。
- また同じく94年、チーム・アートネイチャーがマツダ・RX-7GTOで参戦し、寺田陽次郎らのドライブで15位完走を果たしている。
- 1995年には、1985年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳、J.J.レート、ヤニック・ダルマス)を果たした。
-
2000年にはテレビ朝日がチーム郷と共同でパノスLMP-1を2台エントリーさせている。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、他チームのピットを取材しようとして拒否される等のトラブルもあった(プレスであると同時にチーム参加であったため)。
- 同じく2000年にはチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。
-
2004年にはチーム郷(アウディ・R8)が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。ドライバーの一人荒聖治は日本人として二人目の総合優勝。
- 日本車ではないがJLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年のレースに参戦したものの完走には至らなかった。また2007年にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。
- その他に太田哲也が1993年〜96年まで、羽根幸浩が1995年に、鈴木隆冶が1996年〜97年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。
- 現在東海大学において林義正研究室(開発コース)でル・マン参戦の為の車両が研究開発されている。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、2008年の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形のYGKが製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーをモディファイしたものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れてない等の要因からトラブルが多発。メカニックについてR&D SPORTの支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。
1955年の事故
1955年
6月11日18時28分、トップを走っていた緑色の
ジャガーの
マイク・ホーソーンが周回遅れのくすんだ緑の
オースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが衝突を避けようと進路変更したところへ銀色の
メルセデスを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに接触し乗り上げ、空中へ飛び上がった。ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて
86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった。
なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」事が続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。皮肉にも、優勝は大惨事のきっかけとなった、ジャガーのマイク・ホーソーンであった。
(この事故の映像は、映画『グレートドライバー』等で観ることが出来る。また当時ルヴェーの後方を走行しコクピットからその一部始終を目撃した
ファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンが彼を追い越しさらに別の一台がコース左側からピットに向かって進路を変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無事現場を通過したが、後ろは地獄だった。」と語っている)
メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権している。その後メルセデス・ベンツは、1980年代後半に復帰するまで実に30数年間もル・マンひいてはモータースポーツから遠ざかることとなった。
モータースポーツの安全性という点で大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、
スイスに至ってはレースそのものが禁止される(
2007年6月に撤廃)など全世界に大きな影響を残している。
F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。
ル・マン式スタート
コースの片側に競技車を配置し、ドライバーはコースの反対側から駆け寄って乗車する。かつてこのレースにて用いられたスタート方法であり、その名前の由来ともなっているが、スタートを急ぐあまりシートベルトをきちんと締めないまま発進することが危険とされ、ル・マン24時間レースでは1969年限りで廃止された。
1970年はドライバーが乗車したままコースの片側に斜めに停止した状態から合図とともにスタートする変則ルマン式スタートとなったが、1971年からは一般的な
ローリングスタートとなった。
現在では4輪車のレースではほとんど採用されておらず、むしろ2輪の耐久レース(
鈴鹿8時間耐久ロードレースなど)にてよく見られるスタート方法になっている。
テレビ中継
テレビ朝日のル・マン中継
毎年原則として、スタート直前の日本時間22時59分(現地時間15時59分)
フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始と同時に出場する全マシンの
スターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周程した後オープニングと提供クレジット、日本時間24時頃にニュースなどによる中断を挟み、以降日本時間翌朝5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。日曜午後にも1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールはディレイ録画で日本時間23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。
なお
サッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と、1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画となった。日本時間23時丁度の放送開始となり、録画のためスタート進行は、
ダミーグリッドからフォーメーションラップがスタートする場面から放送開始となる。
それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた。
競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界ではタブーとされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。
実況
-
朝岡聡(1987年)
- 三浦智和(1987 - 1991年)
-
松苗慎一郎(1987 - 1992年)
-
大熊英司(1991-1992年) - この後は、スタジオ司会を多く担当している。
-
田原浩史(1993 - 2003年)
-
森下桂吉(1993 - 1994年)
-
国吉伸洋(1997 - 2001年・2003年) - 2002年はスタジオ司会を担当。
-
中山貴雄(2002年)
解説
- 熊谷睦(1987年 - 1990年・1992年) - 『オートスポーツ』編集長(当時)、1991年はスタジオ解説を担当。
-
津々見友彦(1991年 - 1995年)
-
由良拓也(1995年 - 2003年)長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する、「由良拓也が斬る!」という持ちコーナーがル・マンファンに人気を博した。1995年はピットレポートを担当。
ピットリポーター
- 赤井邦彦(1987年)
- ビル大友(1988年・1989年)
-
大石吾朗(1988年)
- 粕谷俊二(1993年・1996年-2001年)
-
服部尚貴(1996年)
-
近藤真彦(1997年)
現地リポート
ゲスト解説
ゲスト(現地)
-
酒井法子(1992年)ピットバルコニーゲストとして登場。
-
岡本佳織(1994年)ピットリポートを担当した。
-
MANISH(1996年)この年のテーマソング(後述)を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。
-
松岡充(SOPHIA)(2001年)MANISHと同様、この年のテーマソング(後述)を担当。
ゲスト(スタジオ)
スタジオ司会
- 三好康之(1988年)
- 大熊英司(1989-1990年・1993-1999年・2003年)
- 高橋享子(1990年)
- 田原浩史(1991年)
- 国吉伸洋(2001年)
- 中山貴雄(2002年)
-
佐藤紀子(1991年)
-
大下容子(1994年)
-
下平さやか(1995年・1997年-1998年)
- 高橋真紀子(1996年)
-
石井希和(2001年・2003年)
歴代テーマ曲
- 1987年 テレビ朝日スポーツテーマ
- 1988年 テレビ朝日スポーツテーマ
- 1989年 テレビ朝日スポーツテーマ
- 1990年 高中正義「Can You Feel It」
- 1991年
- 1992年 DIMENSION「Out Of Wind」
- 1993年 FORCE「HUNAUDIERES」
- 1994年 FORCE「DISTANT VIEW」
- 1995年 DIMENSION「Land Breeze」
- 1996年 MANISH「It's so Natural」
- 1997年 ケンイシイ「DRUMMELTER」
- 1998年 CORNELIUS「Count 5,6,7,8」
- 1999年 LUNA SEA「G.」
- 2000年 東儀秀樹「COOL RUN」
- 2001年 SOPHIA「KURU KURU」
- 2002年 SOPHIA「ROCK STAR」
- 2003年 B'z「IT'S SHOWTIME!!」
ラジオ中継
1990年、1991年に2年間、
文化放送で中継された。
実況は同局
扇一平アナが担当。
ル・マン24を主題にした映画・ドラマ・ゲーム
映画
ドラマ
- ル・マンへ熱き涙を(1992年、テレビ朝日)マツダの参戦記をドラマ化したもの。
レーザーディスク
- '84 24HEURES DU MANS(1984年、パイオニア、プロデューサー:林正史)
ビデオソフト
- エキサイティング ルマン(1984年、プロデューサー:林正史)
- 爆走モンスターマシン 24時間の記録
- ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン(1982年、日本コロムビア、プロデューサー:川野真)
- DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985年、ファンハウス、プロデューサー:林正史)
- 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、アドインターナショナル)
- Dramas of Le Mans 24Hours(1980年、東映芸能ビデオ)
- '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986年、デルタポイント)
- Le MANS 83(1983年、東映ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd)
- ル・マン カタログ'85(1985年、TDKコア)
LP
- 24HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)
- TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
- 童夢ZERO RL(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
- FUNKY TRACK/鳴瀬喜博(1984年、徳間ジャパン、プロデューサー:林正史)
- DIGITAL EXPLOSION '83(1983年、東芝EMI、プロデューサー:林正史)
VHD
- DOME & TOM'S IN LE MANS '85(1985年、日本ビクター、プロデューサー:林正史)
CD
- 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)
ゲーム
※Le Mans 24 Hours video games (英語)も参照のこと。
関連項目
外部リンク
脚注