ミハエル・シューマッハ(
Michael Schumacher,
1969年1月3日 - )は、
ドイツ生まれの元
F1ドライバーである。
愛称は
シューミー(Schumi)。2008年現在、
フェラーリスーパーアドバイザーとして、F1の現場に携わっている。
チャンピオン獲得回数7度などF1の主な記録を更新した。2008年現在、ドイツ人で唯一のF1ドライバーズチャンピオン経験者である。
その冷静精確なドライビングから、日本では「
ターミネーター」、海外では「
サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ移籍後には、
フジテレビの
F1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。
F1デビュー前( - 1991年)
幼少時、誕生日に煉瓦職人だった父から贈られた“手作りカート”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したために心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的な
レーシングカート”と遭遇した。やがて
カートレースを始めるが、彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。だが、カート場のオーナー(F1ドライバー時代には
ファンクラブ会長を務めた)の支援により十分な環境とは言えないもののレースを続けた。この時父もカート場の管理人となり、母がその食堂に勤めるようになった。
1984年、
1985年にドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、
1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなった。
メルセデスに才能を見出され、その支援を受けスポーツカーシリーズ(プロトタイプ)や
F3に参戦。
1990年にはドイツF3王者となり、不利と言われたレイナードVWで同年の
マカオGPで本命と見られていたイギリスF3王者
ミカ・ハッキネンを下し優勝。第1レグでハッキネンは、2位シューマッハに対して約5秒引き離し圧勝していた。シューマッハが優勝するためには第2レグで約5秒以上の差をハッキネンにつける必要があった。第2レグがスタートすると、序盤にハッキネンを抜き1位をキープするが、1秒弱差にハッキネンがピタリとつける展開。ハッキネンの総合優勝が濃厚かと思われていたファイナルラップ、1位に固執したハッキネンは、メインストレートでシューマッハの
スリップストリームから抜け出し、オーバーテイクを試みる。シューマッハは、スリップストリームから出たハッキネンをブロックするためにラインを変更。両者は接触し、ハッキネンはコース右側のガードレールにクラッシュしリタイヤした。シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、そのまま残り1周を走りきり第2レグ優勝を飾る。この結果、第1、第2レグタイム合計でシューマッハが90年
マカオGP総合優勝を決めている。
マカオGPの一週間後には、日本の
富士スピードウェイで「第1回インターF3リーグ」が催され、マカオGPを戦ったドライバーがそのまま日本に集まった。マカオとは性格が異なる高速・富士では「スリップストリーム合戦」となったが、シューマッハはこのレースでも勝利した。
1991年7月には、
菅生で開催された全日本
F3000第6戦に、F1参戦と重なった
ジョニー・ハーバートの代役として
チーム・ルマンよりスポット参戦した。初のF3000、初のサーキットというだけでなく、性能的にも不利と言われた
ラルトシャーシといった悪条件をものともせず、決勝では2位を獲得し、日本のレース関係者・ファンに衝撃を与えた。前年のマカオGPとインターF3リーグで勝利をおさめ、またグループCにも参戦していたことから、日本で全く無名の存在というわけではなかったが、あらゆる面で「特殊」とされていた全日本F3000でのいきなりの活躍は、異質の驚きをもって迎えられた。
この当時、
ブリヂストン・
ヨコハマ・
ダンロップの3社が鎬を削った全日本F3000の
タイヤは、一説にはF1のそれよりも高性能であったとされ、また、当時の国際F3000以下の下級フォーミュラが
バイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じ
ラジアルタイヤを使っていた。これらの事情から全日本F3000のタイヤの使い方は特殊なものとなっており、来日した外国人ドライバーは今までの経験と異なる感覚に、タイヤの使い方の習得に苦労を強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの
浜島裕英は、タイヤの特性を詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間の練習走行でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという。
F3からF1へステップアップする間に参戦したF3000のレースはこの1戦のみである。「ラルフ・シューマッハーの真実」(本間勝久著、広報社、2001年)、ラルフも日本では同じチーム・ルマンに所属していた。
ジョーダン→ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)
1991年
当初の予定ではそのまま1991年シーズン後半の全日本F3000へ参戦を予定していたが、1991年8月、
ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、
メルセデスが用意した持参金を
ジョーダンに持ち込み、第11戦
ベルギーGPで同チームからF1に参戦し、予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの、この活躍により、次戦から
ロベルト・モレノを追い出す形(結果的にはトレードでモレノはジョーダンへ)で
ベネトンのレギュラーシートを獲得(この一連の移籍劇にはメルセデス・ベンツや
バーニー・エクレストンが絡んでいると言われている)し、移籍後最初のイタリアグランプリでチームメイトの
ネルソン・ピケを上回る5位入賞を果たした。
1992年
ドライかウェットへ移行する難しいコンディションとなった、第12戦
ベルギーGPでこの年のチャンピオンチームとなる
ウィリアムズ・
ルノー勢を、見事な戦略で破りF1初勝利。しかし、第8戦
フランスGPのオープニングラップで
アイルトン・セナに追突してリタイアへ追い込み、レース赤旗中断中にセナに叱責される一幕や、その後の
ホッケンハイムリンクでのテスト走行中でのセナとのトラブルから両者乱闘寸前になるなど、荒っぽさがまだまだ抜け切れていないとの批判を浴びることもあった。最終戦で2位6ポイントを獲得したことによりリタイヤしたセナを上回りランキング3位に入る。
1993年
開幕戦の南アフリカGPでレース序盤に
プロストや
セナに迫る活躍を見せた。第14戦
ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップ走行中のプロストを逆転し優勝。しかし、
ハイテクマシンである
B193Bの信頼性が低かったことから、表彰台かリタイヤという極端な結果が影響して、前年よりランキングを1つ下げることとなった。
1994年
開幕から7戦で6勝を挙げるなど、強さを見せた。イギリスGPでは、
フォーメーションラップで
デイモン・ヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったことでレース後に失格とされ、更にレーススチュワードから「25,000ドルの罰金」が課された。ところがその後
FIAより
7月26日に行われた世界モータースポーツ評議会に召還され、そこで更に2レースの出場停止と50万ドルの罰金というペナルティが課された。ベネトンチームはこの処分を不服として抗議を行い、その聴聞が
8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(
ドイツ、
ベルギー、
ハンガリー)への参戦が認められた。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には出走することができなかった。2レースの出場停止と2レースの失格によりヒルの追い上げを許し、タイトル争いは最終戦までもつれた。シューマッハが1ポイントリードで迎えた最終戦では、レース中にヒルと接触し両者ともにリタイアによりチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸したが、この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得した。
この年、ベネトンは禁止された
トラクションコントロール使用の嫌疑が掛けられたが、証拠不十分として無罪とされた。また、ベネトンチームは給油装置の燃料フィルタを取り外す改造を加えていることが明らかになったが、これは給油装置の開発会社が
ラルースチームに対して同様の改造をすでに許可していたことが判明したことなどから、処罰は行われなかった。イタリアGPではウィリアムズも給油装置への改造を行っていたことが判明し、ウィリアムズは改造個所を元に戻すよう通告された。
第3戦
サンマリノGPで発生した
アイルトン・セナの死亡事故が発生したとき、シューマッハはセナの直後を走っていたため、至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けている(シューマッハの車載カメラにコンクリートウォールに向かうセナの車が映し出されていた)。
1995年
序盤こそ出遅れたものの第5戦
スペインGPの完勝からペースを掴み、17戦中9勝を上げて
ナイジェル・マンセルが92年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並び、2年連続でドライバーズチャンピオンを獲得した。この年も、ベルギーGPでのヒルとの接触で執行猶予付き出場停止処分を受けるなど、スポーツマンシップに欠けるとみなされる行動が見られた。
フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)
1996年
1997年
ウィリアムズ・ルノーの
ジャック・ヴィルヌーヴが、優勝かリタイアという不安定なレースを中盤まで続けていたのに対し、シューマッハは信頼性の高い
F310Bで着実にポイントを稼ぎ、第16戦
日本GPでシーズン5勝目を上げると、1ポイントリードでランキング首位にたった。
ベネトンから
ロス・ブラウン(テクニカルディレクター)と
ロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発に拍車がかかったことも、シューマッハの走りをサポートしていた。そして
ヘレスで行われた最終戦
ヨーロッパGP、予選でシューマッハはヴィルヌーブと同タイムを叩き出したものの、タイムを先に記録したヴィルヌーブが
ポールポジションとなり予選2位。決勝レース、スタートで首位にたったシューマッハがレースをリードするが、タイヤ交換後にペースの上がらないシューマッハにヴィルヌーブが追いついた48周目、ペアピンで両者が接触しシューマッハはリタイアし、その後3位で入賞したヴィルヌーヴに逆転され、タイトルを逃した。
FIAはシーズン終了後の11月11日にシューマッハを召喚し、ペナルティを科した。このレースとペナルティの詳細は別項(1997年第17戦ヨーロッパGP)に後述。余談だが、チャンピオン争いをしたヴィルヌーヴとはこの年に一度も同じ表彰台に立つことはなかった。また、前年に
フォーミュラニッポンでチャンピオンとなった弟の
ラルフ・シューマッハが、
ジョーダン・プジョーより
F1に参戦した。
1998年
1999年
第8戦
イギリスGP(
シルバーストーン・サーキット)が開幕。予選の時シューマッハは
ピットアウト時に、すでにピットロードに出ていたハッキネンの横に並び、抜いた。この行為をテレビ解説していた
川井一仁は「ペナルティになるのでは? シューマッハは、なに焦ってるんでしょうね」とコメントしている。結果はポールポジションをハッキネン、2位シューマッハ、3位
デビッド・クルサード(マクラーレン)、4位アーバインであった。決勝がスタートし、シューマッハはクルサード、アーバインに抜かれる。全車が1コーナーを消えた直後に“
赤旗”(スタートできなかった2台のマシンを撤去のため)が出た。にも関わらず、シューマッハとアーバインはサイドバイサイドでマゴッツ・カーブ、ベケッツ・コーナー、チャペル・カーブを通過し、ハンガー・ストレートでも競り合う。この時、シューマッハは「アーバインをパスするから、道を開けてくれ」と無線で言っていた。インをシューマッハ、アウトをアーバインでストウ・コーナーに入り、シューマッハはコースアウトし、タイヤバリアにクラッシュ。本人は手を振って
担架に載せられたが、『右足の
脛骨と
腓骨の骨折』の怪我を負った。フェラーリは「リアブレーキ破損」が原因と発表。その一方で、上述の通り“
シューマッハのあせりから事故が起きた”という報道もあった。
2000年
2001年
プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。
カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟
ラルフ、2位・兄ミハエル)。
2002年
ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得した。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。
2003年
2004年
前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦
モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、
F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、
ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の
鈴鹿が弟の
ラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
2005年
新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。
ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、
フェルナンド・アロンソに明け渡した。
2006年
開幕戦
バーレーンGPでポールポジションの獲得回数が
アイルトン・セナと並び、第4戦
サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんで
フェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。
第15戦
イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていた
キミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。
次の第16戦
中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦
鈴鹿では、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦
ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番
グリッドからスタートすることとなった。決勝では
ジャンカルロ・フィジケラと接触、左リヤタイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でゴールし、フェルナンド・アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。同年の
フランスGPが彼にとっての最後の68回目の
ポールポジションの獲得と
ポール・トゥ・ウィンを決めたレースで、雨の
中国GPが彼にとっての最後の勝利(91勝目)となった。
F1引退後
2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督である
ジャン・トッドや、ドライバーの
フェリペ・マッサと
キミ・ライコネンなどを見守ることとなった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハは祝福の電話を
キミ・ライコネンにかけた(この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦の
スペインGPであった)。
モナコGPでは、去年までのライバルだった
フェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。
ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツの
フランクフルトモーターショーでは
フェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハは
ブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。スペインで開催されたイベントでドゥカティの
MotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちという好タイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、このことで2輪レースに対する興味が湧いたのか、
2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダ
CBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。
2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりに
F1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。
同年の
シーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだった
フェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。
その後、
2009年用のスリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々
F2008を走らせている。
評価
チームは、ミハエル・シューマッハの最後のレースとなる2006年のブラジルGPでリヤウイングに"Thanks Michael"のサインを施した。]]
そのキャリアにおいてさまざまなF1の歴代記録を塗り替えた、F1史上に残るドライバー。
ベネトンに加入後、4シーズン目にチャンピオンを獲得した(シューマッハがいなくなったべネトンはその後、チャンピオンとならなかった)。
フェラーリにベネトン時代に一緒に働いた
ロス・ブラウン、
ロリー・バーンらを移籍させ、コンストラクターズは1983年以来、ドライバーズは1979年以来のチャンピオンになった。
結果として、所属した
ベネトンや
フェラーリなど、シューマッハの移籍前の数年にはシーズン1、2勝で過ごしてきたチームを、チャンピオンに導いている。特に、
フェラーリにおいては、移籍後から引退まで、毎年優勝を飾っており、1997年〜2006年まで、数戦を負傷欠場した1999年と不調に終わった2005年を除く全てのシーズンでタイトル争いをしている。11年間にわたり、勝てるという自信とモチベーションを常にチーム全体に与え続けたその牽引力は、他に例がない。
チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年の
オーストリアGPでは、チームメイトの
ルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に順位を譲らせたことで物議を醸し、
FIAがそれまで黙認状態だった
チームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、当時同じフェラーリに在籍していたマッサはその存在を否定している一方で、元チームメイトの
ジョニー・ハーバートは引退後にその存在を匂わせる発言をしている。また、
エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった。」と述べている。1995年
サンマリノGPでは、シューマッハがリタイアした後、チームメイトのハーバートがレース続行中であったにも関わらず、チーム代表の
フラビオ・ブリアトーレはサーキットから去った。また、1999年の
イギリスGPでは事故を起こした際、命に別状はなかったにも関わらず、チームを指揮する立場の
ジャン・トッドが決勝レースを離れて手術に立ち会った。これらの出来事は、チーム内におけるシューマッハの立場を示している。
他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否かが判断しがたいが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。引退後には、シューマッハ自身も「F1キャリアにおいて取り消すことができる場面があるとすれば、それはヘレスでしょう。」と、ドイツの新聞‘サデウッシュ・ゼイタン(Suddeutsche Zeitung)’のインタビューの中で語っている。
レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りやピット戦略で前に出ることが多く、ピットイン前後の周回で速さを見せてマージンを築いたり、ライバルより多いピットストップ戦略を行うことにより、コース上での
オーバーテイクよりも作戦によって勝利を得るところに特徴がある。また、その戦略を実行を可能にする、要所における集中力が彼の真骨頂とも言える。
開発能力は、
ブリヂストンの
浜島裕英によると「(タイヤに関して)他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、
ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい。」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい。」等と語っている。浜島曰く、テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは
星野一義と
デビッド・クルサードくらいであるという。しかし、「セッティングはうまくなかった」とチームメイトであった
エディ・アーバインは証言し、「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから。」と語っている。
特筆されるレース
以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。
自身初優勝したレース。序盤からの雨が中盤に至り止むか止まないかという展開の中スピンを喫し、チームメイトの
マーティン・ブランドルに先行されたが、ブランドルのレインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、自分のタイヤ交換予定を早めさせスリックタイヤに履き替え、優勝を遂げた。デビューからちょうど1年後の初優勝である。
予選は6番手とふるわないが、決勝レースでは1回目のタイヤ交換を利用して先行する3台を交わしてトップに立つと、終盤に追い上げてきた
アラン・プロストを押さえきり、キャリア2勝目をあげた。
この年からピットでの給油作業が可能になる。首位を走るアイルトン・セナを2位のシューマッハは、お互いのピット作業後に追い抜いた形となった。その後セナはスピンによりリタイヤ。シューマッハとロス・ブラウンのコンビが得意とした給油を絡めたピット作業を利用したレース戦略を、給油が許可された最初のレースから展開してみせた。
レース半ばでギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそ
デイモン・ヒルに讓ったものの、残り30周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞した。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック、集中力、体力とその実力をあらためて評価された。当時
ベネトン・フォーミュラのテクニカルディレクターであった
ロス・ブラウンはレース後のインタビューで冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントしている。
この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面となったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたデイモン・ヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、レースにおいても勝つことをあきらめず、残り3周というところで
ジャン・アレジを抜き去り優勝をもぎ取った。トラック上でのオーバーテイクを伴って優勝した数少ないレースのひとつである。
豪雨の中、フェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズの
パトリック・ヘッドはシーズン後に「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。
シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。レース中、マクラーレンがフェラーリに対してレースペースで優位に立ったことを見てとったロス・ブラウンの発案により、本来2回が常道のピットストップ戦略が突如3回に切り替えられた。シューマッハはこの指示に応え、軽い車で毎周自己ベスト付近のタイムペースを維持し、先行するマクラーレンを逆転することに成功した。
第8戦イギリスGPで負傷し欠場していたため、7戦ぶり、3ヶ月ぶりのレースであったが、予選でポールポジションを獲得。決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトの
エディ・アーバインを先行させ、自身は2位に下がり、
マクラーレンの3位
デビッド・クルサードと4位
ミカ・ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバインと争っていたハッキネンに対して、“高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながら、ブロックし続けた”。アーバインはそのまま逃げ切り優勝し、シューマッハは2位、ハッキネンは3位であった。この活躍により、最終戦を残してアーバインは
ドライバーズタイトルに、フェラーリは
コンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった。
ポールポジションからスタートし、順調に首位を走っていたが、21周目にピットストップし給油した際に給油口から出火。しかしピットクルーによる消火器での鎮火後すぐ発進し、優勝を飾った。因みに優勝記者会見では「僕がちょっとクールすぎるから、メカニックがわざと火を付けてくれたのさ」とジョークを飛ばす余裕を見せた。
ポールポジションのフェルナンド・アロンソとの争いとなったが、常にピットストップを先に行い、最終的に当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハとブラウンのコンビによる戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。
批判と非難を浴びたレース
1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルと
バトルを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは、次のコーナーでインを刺すが、シューマッハがコーナーのアウト側からそれを阻んだことで両者は衝突し、この時点でシューマッハはリタイアとなる。ヒルもピットまでは戻ったもののリタイアを余儀なくされた。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。
雨の中唯一スリックタイヤを履き、シューマッハは、予選
グリッド16位から追い上げを行い、ピットインの入れ替わりで首位に躍り出る。首位を走るシューマッハに、レインタイヤを履いた2位のデイモン・ヒルが追いつき抜きに掛かるも、シューマッハは何度もラインを変えてヒルをブロックし続けた。結果両者は接触し、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。しかし、ヒルへ危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみ」という新たなレギュレーションが設けられた。なお、シューマッハとは家族ぐるみの間柄である
ジャン・アレジでさえ、その走りを「ドライビングスタイルには敬意を持っているが、レースに関しては
アイルトンほど、好きではない。アイルトンとはリスクを感じずにレースでバトルができる。しかし、ミハエルを本気で追い越そうとすると、彼はなんらかのことをやってきて、接触することになるからね。ミハエルは自分が抜かれるという事実を認めることができないから、ジグザグに走ったりするんだ。ジグザグ走行というものをF1に持ってきたのは、ほとんど彼と言っていい。<ref>『Sports Graphic Number PLUS F1 未知への疾走』(文藝春秋) March2000 p.136-p.139</ref>」と語っている。しかしその一方で、全91勝の中で一番後方のスタートから追い上げ、雨が降っている中、2周に渡ってドライタイヤで抑えきったということで、FIAの処分も下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたち<ref>
フジテレビF1総集編'95より</ref>やイギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載した雑誌ではキャリアハイライトと捉えている。<ref>
F1 RACING 2008 6月号歴代ドライバー100傑の2位ミハエル・シューマッハのキャリアハイライトより</ref>
1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦。前回のこともあり、
FIAの異例の配慮により、レース前にタイトルを争う
ジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアなレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ、2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。そして48周目「ドライサックヘアピン」への進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪がヴィルヌーブの車体の左サイドポンツーンに接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。しかし、FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。
ピットアウト直後のシューマッハが後方の
ハインツ=ハラルド・フレンツェンと交錯。これによりフレンツェンはグラベルに押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズの
パトリック・ヘッドが
フェラーリ陣営に猛抗議、シューマッハは10秒ピットストップペナルティ課せられる。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、この白線をカットすると、ドライブスルーペナルティが課せられるようになった。
首位を走る
ルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロが順位を譲った。露骨な順位の変更に、観客から罵声を浴びせられた。これ配慮する形で、表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、表彰式のルールに従わなかったとしてFIAから罰金を課せられた。
2008年11月25日、ブラジルのテレビ局『Rede Globo』の番組『Fantastico』に出演したバリチェロはこのレースに言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして『後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな。』と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、『もし従わない場合は、契約を考え直す。』と言われたという。さらにバリチェロは、このことを『シューマッハが知っていた証拠がある。』とも語った。
台頭する前年度覇者、ルノーの
フェルナンド・アロンソの新旧王者対決シリーズとして注目されたが、予選の最終局面で先にトップ・タイムを出したシューマッハは「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口にマシンを止め、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった(通称「ラスカスゲート」)。これによりポールポジションを獲得するも審議対象とされる。スチュワードからは故意と裁定され、予選タイム剥奪のペナルティが課せられた。「自分ならば、恥ずかしくてすぐに引退する。もし自分の息子(
ニコ・ロズベルグ)が同じミスをしたとしたら、蹴飛ばしてF1から降ろさせる」(
ケケ・ロズベルグ)、「ライセンス剥奪すべき」(
ジャック・ヴィルヌーヴ)など、厳しい批判を浴びた一方、「無実でもペナルティを受けることはあるからね」(
ファン・パブロ・モントーヤ)と彼を擁護する意見もあった。
人物・エピソード
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ドイツ語の発音原則に従えば「ミヒャエル・シューマッハー」の方が原音に近い表記となる。本人は名前をどう発音してほしいか尋ねられ「英語式にマイケルと呼んでほしい」と答えている。鈴木亜久里によれば、英語での会話中は名前も英語の発音でないと感覚が狂うから、とのことである。
- F1デビュー当時は、鈴木亜久里と同じマンションに住んでいて、当時収入の少なかった(92年の年収は当時の日本円で約3000万円といわれている)ミハエルは、亜久里と一緒にトレーニングをしたり、食事をご馳走になるなど、近所付き合いをしていた。そのせいか、当時のF1中継では2人の仲のよい所が見られ、亜久里がF1中継の解説者だったころにミハエル贔屓の発言が多かった。
- 同時代のあらゆるスポーツ選手の中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するスポーツ選手長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争った。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使うプライベート・ジェットは弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る質実剛健の仕様であることでも知られる通り、生活は至って堅実であるとされ、実際スキャンダルめいた話は一切聞かれない。
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寿司が大好物。味噌汁も好き。また松阪牛も大のお気に入りで、F1現役時代は鈴鹿で行われる日本GPのために来日するたび、「今年も松阪ビーフのステーキを食べるのが楽しみ。あれは世界最高の牛肉だよ。」とコメントしていた。
- 服装にもそれほど頓着せず、イギリスのマスコミなどはしばしばシューマッハのファッションセンスを取り上げて茶化すことがある。妻のコリーナはかつてはフレンツェンの恋人であり、若手時代に彼が奪ったことは有名な話だが、シューマッハが愛用しF1のサーキットにも常に携帯してきている古びたバッグにいたっては「元々はフレンツェンの物であり、フレンツェンと書かれた名前をマジックで消した形跡がある。」と実しやかに囁かれる程である。
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スキー、サッカーなどを趣味にしており、オフシーズンにはスキーを楽しんでいる。サッカーに至っては趣味の粋を超えプロ級の腕前であり、自宅のあるスイスのプロチームに所属していたこともある程である。また、国際サッカー連盟(FIFA)公認のチャリティーマッチ「ジダンフレンズ vs ロナウドフレンズ」において、ジダンフレンズの一員としてピッチに立ったこともある。
- 二輪レーサーの原田哲也とも親交がある。原田はシューマッハ同様『イタリアのチーム(アプリリア)の外国人エース』だったこともあって、話をしていても共感するものがあったという。
- セナが事故死した94年第3戦サンマリノGP後、フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語った。2000年イタリアGPでセナと並ぶ41勝目を挙げたレース後の記者会見の際には「これで勝ち星がセナと並びましたね。」という言葉に、突然号泣しはじめインタビューに答えることができなかった。
- 2007年12月には、家族を連れて子犬を受け取るためにドイツ・コバーグ郊外の村に向かった際、帰りの飛行機の時間が迫っていた関係から、乗っていたタクシー運転手に頼み込み、自らタクシーのハンドルを握って猛スピードで空港に向かった。ただこのことが世界的に大きく報道されると「ドイツ国内の交通法規に違反しているのではないか。」と問題となり、シューマッハが警察の捜査対象となる事態に発展した。
- 2007年にはバレンシアサーキットで、ロードレース世界選手権(MotoGP)用のマシンであるドゥカティ・デスモセディチをテストし、同年にダニ・ペドロサが記録したポールポジションタイムの5秒落ちの好タイムを刻んだ。2008年にはドゥカティのテストライダーが負傷したため、急遽代わりに走りレギュラーライダーの0.8秒落ちの好タイムを記録する。4輪だけではなく、2輪でも才能があることを示した。また、上記プロフィールの通り最近では2輪レースに参戦するなど活発的な姿勢を見せているが、本人は本格的に2輪レースに転向する意志はないとしている。
- F1界でその名声を確立した1990年代後半頃からは、チャリティに熱心に取り組むようになり、先にも述べたチャリティ・サッカーにも積極的に参加しているほか、ユネスコに毎年200万ドル程度の寄付を行うなどしている。2004年のスマトラ島沖地震に際して1000万ドルもの寄付をした時は、普段F1を取り上げることも稀な日本のマスメディアにおいても話題となった。これはこの年のミハエルの年収のほぼ1割に相当し、当時の日本円で約12億円という1人の人間の寄付額としては桁外れの額。余談ではあるが、シューマッハのボディガードを務めていた男性とその息子が、タイでこの地震による津波に巻き込まれて亡くなっていた。
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ビル・クリントン元アメリカ大統領が運営する人道支援基金寄付者リストの上位に、名を連ねている。これまでに寄付した金額は500万ドル〜1,000万ドルであると推測されている。寄付金は、エイズ対策や温暖化対策などに利用されている。
主な記録
通算記録
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ドライバーズチャンピオン獲得7回(歴代1位) 2003年にファン・マヌエル・ファンジオの通算5回を更新。
- 通算優勝91回(歴代1位) 2001年第14戦ベルギーGPでアラン・プロストの通算51勝を更新。
- 通算PP獲得68回(歴代1位) 2006年第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナの通算65回を更新。
- 通算FL獲得76回(歴代1位) 2001年開幕戦オーストラリアGPでプロストの通算41回を更新。
- 通算ポールトゥウィン獲得40回(歴代1位) 2004年開幕戦オーストラリアGPでセナの通算29回を更新。
- 通算ハットトリック獲得22回(歴代1位) 2002年第17戦日本GPでジム・クラークの通算11回を更新。
- 通算表彰台獲得154回(歴代1位) 2002年第10戦イギリスGPでプロストの通算106回を更新。
- 通算入賞190回(歴代1位) 2002年第15戦イタリアGPでプロストの通算128回を更新。
- 通算獲得ポイント1369pt(歴代1位) 2001年第17戦日本GPでプロストの通算798.5ptを更新。
年間記録
- 年間優勝13回(歴代1位) 2004年に記録。2002年に自身が記録した11回を更新。
- 年間FL10回(歴代1位タイ) 2004年に記録。2005年にキミ・ライコネンが並んだ。
- 年間ポールトゥウィン獲得8回(歴代2位) 2004年に記録。
- 年間ハットトリック獲得5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1952年のアルベルト・アスカリの記録に並ぶ。
- 年間表彰台獲得17回(歴代1位) 2002年に記録。全戦表彰台。1988年のプロストと2001年に自身が記録した14回を更新。
- 年間獲得ポイント148pt(歴代1位) 2004年に記録。2002年に自身が記録した144ptを更新。
連続記録
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ドライバーズチャンピオン連続獲得5回(歴代1位) 2004年にファンジオの連続4回を更新。
- 連続優勝7回(歴代1位タイ) 2004年第7戦ヨーロッパGP〜2004年第13戦ハンガリーGPにかけて記録。アスカリの記録に並ぶ。
- 連続PP獲得7回(歴代2位タイ) 2000年第14戦イタリアGP〜2001年第3戦ブラジルGPにかけて記録。
- 連続ポールトゥウィン獲得6回(歴代1位) 2000年第14戦イタリアGP〜2001年第2戦マレーシアGPにかけて記録。ナイジェル・マンセルの5回を更新。
- 連続表彰台19回(歴代1位) 2001年第16戦アメリカGP〜2002年第17戦日本GPにかけて記録。自身と、ニキ・ラウダ、ネルソン・ピケ、クラークの9回を更新。
- 連続入賞24回(歴代1位) 2001年第13戦ハンガリーGP〜2003年第2戦マレーシアGPにかけて記録。カルロス・ロイテマンの15回を更新。
- 開幕連続優勝5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1992年のマンセルの記録に並ぶ。
F1での年度別成績
*1997年については、ポイントテーブル上は2位に相当するが、最終戦での
ジャック・ヴィルヌーヴとの接触行為についてのペナルティとしてランキングから除外された(ただし、各レースでの成績は有効とされた)。
グランプリ別・年別の優勝回数
下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)
脚注
関連項目
外部リンク