経歴
CDU党首への道
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コールはCDUの青年団組織Junge Union(JU)の地元での設立にかかわり(1947年)、在学中の
1953年に党の州支部事務局に加入。
1954年には州のJU副代表、翌年州の党執行部委員に就任。
1959年には地元ルートヴィヒスハーフェン郡の党代表となり、翌年ルートヴィヒスハーフェン市議会の党議員団長。1963年からラインラント・プファルツ州議会の党幹事長。
1966年、党の州支部代表に就任し、同時に党の連邦代表委員の一人となる。
1969年5月19日にラインラント・プファルツ州首相に就任し、CDU副党首となる。州首相として郡の再編成とトリアー大学・
カイザースラウテルン技術大学の創建にかかわった。彼の地元での有力支持勢力は産業界であった。
を訪問しドイツ系住民に歓迎される
コール。このポーランド訪問中に
ベルリンの壁崩壊がおき、急遽ベルリンへ向かうことになる。]]
連邦首相に
ところが
1982年9月、財政再建・
新自由主義を取るか社会保障・
社会民主主義を取るかで与党FDPとSPDが決裂。コールはすかさずFDPと連立協議し、
10月1日に
ヘルムート・シュミット首相に対する建設的不信任決議案を提出。この案にFDPが同調してシュミットの罷免とコールの第6代連邦首相就任が決まった。建設的不信任決議案が提出されたのは2度目だが(既述)、可決したのは今のところこれが唯一の例である。副首相兼外相にはシュミット政権時代同様、連立与党FDPの
ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーがおさまった。しかしこのようなやり方で政権を奪取したうえ、長らく地方政界にあり、前任者のブラントやシュミットと比較して国際政治に通暁していないとしてコールの手腕を不安視する向きもあったため、コールはすぐに内閣信任決議案を提出、しかしこれが否決されてしまった。コールは
1983年3月に連邦議会選挙に打って出て勝利を収め、ようやく政権は安定した。
ドイツ再統一
コールの最大の政治的業績は、一連の
東欧革命の中、
1989年11月9日の
ベルリンの壁崩壊によって始まったドイツの
再統一である。
ヨーロッパでは、二度の
世界大戦の経験から、
中欧に統一されたドイツの誕生を警戒する声もあった。また、
西ドイツ国内を中心に経済的に格差のある
東ドイツを吸収することに対する負担の大きさを危惧する意見も多かった。しかし、コールはドイツ統一の好機を逃すことの不利を説き、一気呵成に統一を推進した。コールは
ヨーロッパ統合推進派として、統一ドイツを
ヨーロッパ連合及び、NATOの枠内に位置づけすることで、旧
連合国の米英仏
ソといった各国首脳の合意を得ることに成功した。1990年10月3日、歓喜の中ドイツは再統一された。
ドイツ統一の立役者として、コールの政治的威信は頂点に達した。統一後初めて行われた
1990年の連邦議会選挙にも勝利し、コール政権は4期目を迎えた。しかし国民の興奮が冷めると、統一前のコールの説明と異なり、統一の困難な現実が明らかとなる。
1994年の連邦議会選挙に辛勝して5期目を迎え、
1996年には初代連邦首相
アデナウアーの在任14年を抜いた。しかしコール政権に対する国民の飽きは覆うべくもなく、地方議会選挙でSPDに負け続けて
連邦参議院では与野党の勢力が逆転した。党内からの
ヴォルフガング・ショイブレらの突き上げにもかかわらず、コールは首相と党首の座にしがみ付き続け、少なくとも
2002年までは党首を続けると宣言して周囲を呆れさせた。その結果
1998年の連邦議会選挙に大敗して退陣を余儀なくされた。首相在任16年は、
オットー・フォン・ビスマルク以来の在任期間記録である。
余生・闇献金疑惑
thumb大統領
ボリス・エリツィンと会見するコール(2000年10月、
フランクフルト・ブックフェアにて)]]
首相退任直後、敗北の責任を取って四半世紀にわたって務めたCDU党首も辞任した。しかし追い打ちをかけるように、
1999年にはコール自身が受け取り署名した200万
ドイツマルクの政治献金の出所が不明瞭であることが発覚。CDUがコールの指示の下、不法な政治資金を調達し証拠を隠滅した疑惑が発覚し、ドイツ統一の功労者としての立場も一転して地に墜ちた。連邦議会には調査委員会が設置され、コールは
2000年1月18日に名誉党首を辞任した。同年、ボン地検は特別背任罪でコールやその懐刀とされていた
ヴォルフガング・ショイブレ党首、
フォルカー・リューエ元国防相などの捜査に本格的に着手する。同年
3月16日には連邦議会で
証人喚問が開始され、その後も数回にわたりコールやショイブレに対し喚問が継続されるが決定打には結びつかなかった。翌・
2001年2月8日、ボン地検は罰金30万マルクをコールが支払ったことで立件を断念する。更に、翌
2002年7月4日にはベルリン行政裁が、闇献金疑惑について
旧東ドイツの諜報機関・
シュタージが収集していた情報の公開をプライバシー保護を理由に差し止めたことにより、同事件は幕引きとなる。2002年秋の連邦議会選挙に出馬せず、政界を完全に引退した。ただ
2002年に行われたハンガリーの総選挙では当時のビクトル・オルバン
首相の応援に駆けつけている。
2001年
7月5日には、長年連れ添った夫人・ハンネローレが「太陽アレルギー」という現代医学では治療が不可能な難病を苦に自殺(68歳)。前日には闇献金事件が事実上幕引きとなっており、夫の無実を見届けた、いわば、覚悟の自殺であった。かつての栄光に比して、コールの晩年は全く寂しいものとなっている。現在回顧録を執筆中で、1990年の分までは既に出版されている。2004年12月の
スマトラ島沖地震による大
津波災害の際に偶然
スリランカでバカンス中で、スリランカ軍の
ヘリコプターで救助されたというニュースで久々に人々の注目となったくらいである。
2008年5月に、かねて交際していた35歳年下のマイケ・リヒター(Maike Richter)と結婚した。
表彰
内外の大学の名誉博士号多数。1988年、独仏友好関係推進の功によりフランスのミッテラン大統領と共に
アーヘン市より
カール賞を授与。1999年、
大統領自由勲章(アメリカ合衆国)。
ドイツ連邦共和国功労勲章特装大十字章。この勲章を授与されたのはコンラート・アデナウアー以来二人目である。
語録・その他
- 「我々は失業率とドイツに住む外国人を半分にします!」(1983年の選挙演説にて)
- 「今後ドイツの地からは、平和のみが広まるべきだ」(1989年12月19日、東ドイツのドレスデンにて)
- 「成功した産業国家、すなわち未来ある国家たるものは、テーマパークのように組織されてはならない」(1993年、労働と休暇時間についての政府声明)
- 「それは古典的なジャーナリスト的主張ですな。それは正しい(richtig)が、真実(Wahrheit)ではない」(1994年テレビ出演での発言)
- 「昨日の理想主義者は今日の現実主義者になる」(1998年、「ディー・ツァイト」紙上でのヘルムート・シュミットとの論争)
- 「ドイツの統一とヨーロッパの統合は、メダルの両面のようなものである」(2002年のCDU党大会での締めくくりの言葉)
- 「(もしやり直せるならば)かつて私がやって来たことを再び同じようにやるだろう、とは私には言えない。なぜならその道は上り下りが激しく、時に誤りさえあったのだから」(2007年、インタビューで)
在任中は政治的・非政治的なさまざまなメディアに揶揄されたが、とりわけその太りすぎの体(その体重はドイツの最高機密と皮肉られた)と田舎臭い訛り(schの音をchと発音)、学歴の割に拙い外国語などがからかいの対象になった。とりわけ有名になったのが雑誌「Titanic」に掲載された風刺画で、彼の顔を西洋ナシに見立てたものだった。水っぽい西洋ナシ(ドイツ語でBirne)は「間抜け」という意味合いもあるので、"Birne"という語はコールの代名詞のようになっていた。ドイツ統一でコールの威信が上がるとそのような風刺は鳴りをひそめていたが、政権末期には再び見られるようになった。
外部リンク
閣僚名簿
第一次コール内閣
第二次コール内閣
-
首相 - ヘルムート・コール (CDU)
- 副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)
- 国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU)
- 内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)
- 蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)
- 法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP)
- 経済相 - オットー・グラーフ・ラムスドルフ (FDP)/マルティン・バンゲマン (FDP)(1984年6月27日から)
- 労働者社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
- 食糧農業森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU)
- 運輸相 - ヴェルナー・ドーリンガー (CSU)
- 建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU)
- 青年・家族・保健相 - ハイナー・ガイスラー (CDU)/リタ・ズースムート (CDU) (1985年9月26日から。1986年6月6日から、青年・家族・婦人・保健相)
- 研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)
- 教育科学相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU)
- 経済協力相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)
- 郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シュィリンク (CDU)
- ドイツ問題相 - ハインリヒ・ヴィンデーレン (CDU)
- 環境・自然保護・原子力安全相(1986年6月6日新設) - ヴァルター・ヴァルマン
- 無任所特命相 - ヴォルフガング・ショイブレ(1984年11月15日から)
第三次コール内閣
- 首相 − ヘルムート・コール(CDU)
- 副首相兼外相 − ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)
- 国防相 − マンフレート・ヴェルナー (CDU)/ルパート・ショルツ (CDU) (1988年5月18日から)/ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU) 1989年4月21日から)
- 内相 − フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)/ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)(1989年4月21日から)
- 蔵相 − ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)/テオ・ヴァイゲル(CSU) (1989年4月21日から)
- 法相 − ハンス・エンゲルハルト (FDP)
- 経済相 − マルティン・バンゲマン (FDP)/ヘルムート・ハウスマン (FDP) (1988年12月9日から)
- 労働社会問題相 − ノルベルト・ブリューム (CDU)
- 食糧農業森林相 − イグナッツ・キーヒェル (CSU)
- 運輸相 − ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)/フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)(1989年4月21日から)
- 建設相 − オスカー・シュナイダー (CSU)/ゲルダ・ハッセルフェルト (CSU))(1989年4月21日から)
- 青年・家族・婦人・保健相 − リタ・スースムート (CDU)
- 研究技術相 − ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)
- 教育科学相 − ユルゲン・メレマン (FDP)
- 経済協力相 − ハンス・クライン (CSU)/ユルゲン・ヴァルンケ(CSU)(1989年4月21日から)
- 環境・自然保護、原子力安全相 − ヴァルター・ヴァルマン (CDU)/クラウス・ケプファー (CDU)(1987年4月22日から)
- 無任所相 − ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)
- 郵政コミュニケーション相 − クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)
- ドイツ問題相 − ドロシー・ヴィルムス (CDU)
- 無任所相 − ハンス・クライン(CSU) (1989年4月21日から)
- 無任所相 − ルドルフ・ザイタース (CDU)(1989年4月21日から)
- 無任所相(以下の5人は旧東独閣僚) - ロタール・デメジエール (CDU)((1990年10月3日から1990年12月19日まで), ザビーネ・ベルクマン=ポール (CDU), ギュンター・クラウス (CDU), ライナー・オルトレープ (FDP), ハンス・ヨアヒム・ワルター (ドイツ社会同盟・DSU)(1990年10月3日から)
第四次コール内閣
第五次コール内閣
- 首相 − ヘルムート・コール (CDU)
- 副首相兼外相 − クラウス・キンケル (FDP)
- 国防相 − フォルカー・リューエ (CDU)
- 内相 − マンフレート・カンター (CDU)
- 蔵相 − テオ・ヴァイゲル (CSU)
- 法相 − ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー (FDP)/エドザルド・シュミット=ヨルトジーク (FDP)(1996年1月17日から)
- 経済相 − ギュンター・レックスロート (FDP)
- 労働社会問題相 − ノルベルト・ブリューム (CDU)
- 食糧・農業・森林相 − ヨッヒェン・ボルヒャート (CDU)
- 運輸相 − マティアス・ヴィスマン (CDU)
- 建設相 − クラウス・テップファー (CDU)/ エドワルド・オスヴァルド(1998年1月14日から)
- 家庭・高齢者・婦人・青年相 − クラウディア・ノルテ (CDU)
- 保健相 − ホルスト・ゼーホファー (CSU)
- 教育・科学・研究・技術相 − ユルゲン・リュットガース (CDU)
- 経済協力開発相 − カール・ディーター・シュプランガー (CSU)
- 環境・自然保護・原子力安全相 − アンゲラ・メルケル(CDU)
- 無任所特命相 − フリードリヒ・ボール (CDU)
- 郵政コミュニケーション相 − ヴォルフガング・ベッシュ (CSU)(1997年12月31日まで)