生涯
オーストリア帝国領内
ハンガリー王国の
ドボルヤーン/ライディング(現在は
オーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族
エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父
アーダム・リストと、オーストリア人の母
アンナの間に生まれた。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。このや家庭内においては
ドイツ語が使われていたこと、またドイツ語および
ドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の
母語はドイツ語であったが、後に
パリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生も
フランス語のほうを多く使っていた。家名の本来の綴りは
List で、
Liszt とはそれを
ハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では“sz”の綴りで/s/を表す)。ハンガリー名は
リスト・フェレンツ(
Liszt Ferenc /
Liszt Ferencz)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていた事がある。
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、
1822年に
ウィーンに移住し、
カール・ツェルニーおよび
アントニオ・サリエリに師事する。
1823年には
パリへ行き、
パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストは
フェルディナンド・パエールと
アントン・ライヒャに師事した。パエールの手助けにより翌年には
歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
また1823年4月13日にウィーンでコンサートを開きそこで、老ベートーヴェンに会うことができ、ベートーヴェンに賞賛されている。その時の石版画が1873年リストの芸術家生活50年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている。(但し無署名である)
1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。また、教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的には
サン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、
マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、
1835年に
スイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者
ハンス・フォン・ビューローの、さらに
リヒャルト・ワーグナーの妻になる
コジマである。
マリーと別れた後、再びピアニストとして活躍したが、
1847年に演奏旅行の途次である
キエフで、当地の大地主であったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。
1848年には
ヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。
リストは
1886年、
バイロイトでワーグナーの楽劇『
トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と
心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトが
ルター派の土地であることを理由に強く反対した)。
第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後暫くは一枚の石板が置かれているのみだったが、
1978年に再建された。
人物
ピアニストとしてのリスト
リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。
ちなみに
ショパンの『練習曲 作品10』だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けの良かったリストの演奏に、初めショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。
同じような話は
ガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。また
ワーグナーの
オペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。リストの友人であった
フェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり、「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない
即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。
幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたと言う。彼の曲には両手を広げて4
オクターブの音が多用された。また速い
パッセージでも音数の多い
和音を多用した。
また、当時天才少女として名を馳せていた
クララ・ヴィーク(後のシューマン夫人)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かない
ニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったというエピソードも見られる。
作曲家としてのリスト
自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身の
オーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群はほとんど全てのジャンルの音楽に精通しているといっていいほど多岐にわたる。
彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、
ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。
ピアニスト時代は、オペラの
パラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。
ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。
晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に
1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は
1885年に『
無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。
またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリザベートの伝説』『キリスト』を始め、『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や、『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。
評論家としてのリスト
同時代に評論活動を活発に行った
シューマンほどではないが、リストも他人の評論を行っている。
例えばシューマンに「非芸術的」と酷評された
アルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、
シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。
また、
ブラームスと
ワーグナーの二派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についた
ハンスリックと対立している。
上にも記載されているが、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。
他にも、
スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行った。
帰属にまつわる逸話
父アーダームが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。
ハンガリー語が殆ど話せない事を後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごした
ハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「
ハンガリー狂詩曲」は、
ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけるという、ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人("Magyarmania")には耐え難い混同があり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。後に
バルトークはこれを厳しく批判している。
今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。
<!--その他の国では、
- 彼の生地が当時も今もオーストリア国家に属していること。(当時は形式的にハンガリー王国の名称もあったが完全にオーストリア帝国領であり、曲がりなりにも自治国家となるのは1866年以降である)
- ドイツ(オーストリア)系の両親のもとドイツ語で育ち、終生ハンガリー語を話せずドイツ名を名乗り続けていること。
- 少年時に生地を離れて以降、パリ、ローマ等を転々としているが、成人後はハンガリーとの地縁はほとんど無く、最終的にヴァイマルを活動の本拠としていること。
などからハンガリー人と記述することに疑問が多く(生地の現帰属、血統、言語、生涯最長居住の全部を欠いて特定国人と記述する例は他にはありえない)、ハンガリー生まれのドイツ人という風に二国併記する例が多い。-->
主要作品
リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。
彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家
ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号(S.)と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号(R.)の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。
オペラ
- ドン・サンシュ、または愛の館 S.1
- ザルダナパール S.687(未完)
管弦楽曲
交響曲
-
3人の人物描写によるファウスト交響曲 (Eine Faust-Symphonie in drei Charakterbildern) S108, R425 (1854) [約80分]
-
ダンテの神曲による交響曲 (Eine Symphonie zu Dantes Divina Commedia) S.109 (1855-56) [約50分]
交響詩
リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日「
前奏曲」以外、演奏されることはまれである。
- 「人、山の上で聞きしこと(山岳交響曲) (Ce qu'on entend sur la montagne (Berg-Symphonie) ) 」 S.95, R.412 (1848-56) [約30分]
- 「タッソー、悲劇と勝利 (Tasso, lamento e trionfo) 」 S.96, R.413 (1848-54) [約21分]
- 「前奏曲 (Les préludes) 」S.97, R.414 (1848-53) [約15分]
- 「オルフェウス (Orpheus) 」S.98, R.415 (1853-54) [約11分]
- 「プロメテウス (Prometheus) 」S.99, R.416 (1850-55) [約13分]
- 「マゼッパ (Mazeppa) 」S.100, R.417 (1851-54) [約16分]
- 「祭典の響き (Festklänge) 」S.101, R.418 (1853) [約20分]
- 「英雄の嘆き (Héroïde funèbre) 」S.102, R.419 (1849-54) [約27分]
- 「ハンガリー (Hungaria) 」S.103, R.420 (1854) [約23分]
- 「ハムレット (Hamlet) 」S.103, R.421 (1858) [約14分]
- 「フン族の戦い (Hunnenschalacht (Battle of the Huns) ) 」S.105, R.422 (1857) [約15分]
- 「理想 (Die Ideale) 」S.106, R.423 (1857) [約27分]
- 「ゆりかごから墓場まで (Von der Wiege bis zum Grabe) 」S.107, R.424 (1881-82) [約14分]
ピアノと管弦楽のための作品
ピアノ曲
オリジナル作品
-
ピアノソナタ ロ短調(S178/R21)
-
超絶技巧練習曲(S139/R2b)
-
パガニーニによる大練習曲(S141/R3b)
-
3つの演奏会用練習曲(S144/R5)
-
2つの演奏会用練習曲(S145/R6)
-
巡礼の年
- 巡礼の年 第1年:スイス(S160/R10a)
- 巡礼の年 第2年:イタリア(S161/R10b)
- 巡礼の年 第2年補遺:ヴェネツィアとナポリ(初稿(S159/R10d)、改訂稿(S162/R10c))
- 巡礼の年 第3年(S163/R10e)
- バラード第1番変ニ長調(S170/R15)、第2番ロ短調(S171/R16)
-
慰め(R172/S14)
- 詩的で宗教的な調べ(S173/R14)
- 2つの伝説(S175/R17)
-
ハンガリー狂詩曲(S244/R106)(全19曲。第2番が最も有名)
- スペイン狂詩曲(S254)
-
愛の夢、3つの夜想曲(S541/R211)
- 4つのメフィスト・ワルツ
- 4つの忘れられたワルツ
-
無調のバガテル(S216a/R60c)
-
スケルツォとマーチ(S177)
-
即興円舞曲(S213, 改訂稿:S213a)
-
暗い雲
- 半音階的大ギャロップ、その簡易稿
編曲
宗教音楽
- オラトリオ「聖スタニスラウス」 S1 (未完成)
- オラトリオ「聖エリザベートの伝説」S2 (1862)1時間40分
- オラトリオ「クリストゥス」S3 (1867)2時間50分
- 荘厳ミサ曲 S9 (1855)
- 戴冠式のミサ曲 S11 (1867)45分
- レクイエム S12 (1868)
ピアノの大作
リストの曲は15分を超える長大な曲が非常に多い。しかし一般的に大作と呼ばれるのはその中でもごく一部である。
以下の曲がその代表例である。
※1、2はリストの作品の中でもマイナーな曲であるが、後に完成するピアノ・ソナタ ロ短調を思わせる循環の手法が見られる。そのためピアノ・ソナタ完成への足がかりなどと見られることが多く、近年注目が高まりつつある。そのため演奏会や音源でも取り上げるピアニストは急激に増えている。
未完成作品
- メフィスト・ワルツ第4番 S.696(不明者が完成)
- モーツァルトの「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」の主題による幻想曲 S.697
- ドーリア音階によるメロディ S.701d(死の舞踏 S.126のスケッチ)
偽作作品
- ベネディクトゥス S.706(偽作?)
- リナルド S.708
消失作品
- 交響的大幻想曲 S.716
- 葬送行進曲 S.745
- アンダンテ・マエストーソ S.746
- ポコ・アダージョ S.747
- ロッシーニ 歌劇「ノネットとモーゼ」の主題による幻想曲 S.751(紛失したが、恐らく未完のまま放棄?)
- オルガン交響詩 S.758
主な弟子一覧
リストと同門には名教師
テオドル・レシェティツキがいる。リストとレシェティツキとでは弟子の取り方に違いがあり、レシェティツキは「来る者は拒まず」然で弟子をどんどん採った(多く採りすぎて、大半は助手が教えていた)のとは対照的に、リストは才能を感じる者だけを弟子として採っている。
著作
- 『F. ショパン F. Chopin』 ショパン亡き後の1851年にパリで出版。彼の作品や生涯について、彼の故郷であるポーランドの風俗や国民性を参照しながら語ったもの。日本語版として『ショパンの芸術と生涯』(蕗沢忠枝訳 / モダン日本社 / 1942)と『ショパン その生涯と芸術』(亀山健吉、速水冽訳 / 宇野書店 / 1949)の2種類がある。
関連項目
- 映画『わが恋は終わりぬ』(1960年) - リストを扱った伝記映画。
- 映画『ラスベガス万才』(1964年)- エルヴィス・プレスリーが、リスト作曲の「愛の夢 第3番」をアレンジした「恋の讃歌」を挿入歌として歌う。アン=マーグレットとのデュエット・バージョンもある。
-
ベーゼンドルファー - リストの激しい演奏に耐えた事で、名声を得たピアノフォルテ製造会社。
参考文献
- Walker, Alan. Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847, New York:Alfred A.Knopf, 1984.
- Walker, Alan. Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861, London:Faber and Faber Limited, 1989.
- リスト 作曲家・人と作品(福田弥著、音楽之友社、2005年)
- 目で見るドキュメント「BEETHOVEN」(ベートーヴェン)(ロベール・ポリー編 音楽之友社)
外部リンク
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