後述の理由により、このページでは「D.○○」とせず、「D○○」という表記を用いる。
生涯
誕生
ウィーン近郊で生まれた。メーレン(
モラヴィア)にいたドイツ系の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。2人の間の14人の子供のうち9人が早世した。成人したのは長男イグナーツ(
1784年生れ)、次男フェルディナント(
1794年生れ)、三男カール(
1796年生れ)、次いで
フランツ、娘のテレジア(
1801年生れ)であった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。フランツは第12子としてリヒテンタールで生まれた。
シューベルトは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この学校では彼の人生で一番幸せな数年を過ごした。この頃、父は息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長兄イグナーツがピアノを教え始めた。7歳の頃2人の手に負えない神童振りを発揮し始め、リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーに指導を託された。ホルツァーの指導は主として感動表現に主眼が置かれていた。少年フランツは仲間の徒弟たちから得るものが多く、彼らはフランツを隣接するピアノ倉庫にしばしば案内した。そのため余裕の無い貧しい家庭では触れないような良い楽器で練習する事ができた。当時演奏者として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代に、彼の初期の教育は充分なものではなかった。
コンヴィクト
1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校は
アントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーンの主要な音楽学校となっていて、宮廷礼拝堂コーラス隊養成の為の特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、
ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。しかしベートーヴェンについては言及がない。そして、時にはオペラ鑑賞にも行った。彼はこの時期に音楽的知識の基礎を築き始めた。
一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。
1810年4月8日〜5月1日の日付のある32ページびっしりと書かれた『
ピアノのためのファンタジア』:続いて
1811年にはツムシュテーク(1760-1802)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『
五重奏序曲』、『「
弦楽四重奏曲』、『
ピアノのためのファンタジア第2番』がある。室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、
1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『
キリエ』と『
サルヴェ・レジーナ』(それぞれ合唱聖歌)、『
木管楽器のための八重奏曲』である。
1813年には父の聖名祝日の為に、歌詞と音楽からなる『
カンタータ』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲が生まれた。
1813年〜1815年
1813年の終りにシューベルトは(
変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避ける為に、父の学校に初級生のための教師として入職した。その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く、良い友達だった。彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。最初のオペラ『
悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『
ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に
1814年に書かれ、同じ年に『
弦楽四重奏曲』3曲、数多くの短い器楽曲、『
交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『
潜水者 (D77)』『
糸を紡ぐグレートヒェン (D112)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。
1815年には更に豊穣な作品群が登場する。学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、殆ど信じられない程の量の作品を生み出した。『
交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成され、『「
交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『
ト長調 (D167)』と『
変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『
ヘ長調のミサ曲』の為の新しい『
ドナ・ノビス (D185)』『
悲しみの聖母 (D383)』『
サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは5曲しかないが、そのうちの3曲(『
4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』、『
フェルナンド (D220)』、『
クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)』)が完成した。そして2曲、『
アドラスト (D137)』、『
バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ (D326)』は明らかに未完成。これらの他『
弦楽四重奏ト短調』、『
ピアノの為の4つのソナタ』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は10月15日と7曲が10月19日の日付がある。
1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(1787-1836)と知り合った。この出会いは、彼の常であったが、間もなく暖かく親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るくで開放的で陽気、少し鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは、厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男だった。しかしそこには、《最良の調和は、不一致を調整すること》とでも言うべき良き権威があった。およそ似合わない不揃いの2人が、この格言の実例を示している。この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。
1816年
1815年がシューベルトの人生で最も実り多い時期であったように、
1816年も彼の運命に最初の真の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。この申し出は適切なものであった。というのは、シューベルトはライバッハ(現在の
リュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりだから、なおさら教室に縛り付けられている思いが強まっていたのだ。父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。しばらくの間、彼は音楽を教える事で家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。
「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていた。
1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭の為の『
3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つは『
プロメテウス・カンタータ (D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達の為で、教授はシューベルトに報酬を支払った。シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥの為の『
カンタータ (D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。勿論、最も重要な作品は『
交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『「
第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の
教会音楽。それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更に
ゲーテや
シラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。また、オペラ『
ディ・ビュルグシャフト (「証文」D435)』 は教養のない台本で損なわれているが、彼が劇音楽に心を向け続けていた事を示すものとして興味がある。この時期友人達の輪は次第に広がっていった。マイアーホーファー(1787-1836)が彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していた事があったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く
シューベルティアーデという名称で分かるとおり、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。
シューベルトは完全に素寒貧だった。それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐ事も出来なかった。しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。しかし、友人達は真の
ボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトは、「彼が出来る事は何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。
1818年
1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『
序曲 (D590)』で、これは
ロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は、シューベルトに対する初めての公式の招聘があった事である。それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。
この年の作品には『
ミサ曲 (D452)』と『
交響曲 (D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達の為の一連の『
四手の為のピアノ曲』、『
孤独に (D620)』や『
聖母マリア像 (D623)』『
繰り言 (Litaney)』等を含む歌曲がある。秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がない事が分かり、マイアーホーファー宅に同居する事になった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は
1819年2月28日で、『
羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュターヤーで「鱒(ます)」として有名な『
ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。秋に、自作の3曲を
ゲーテに送ったが、返事は無かった。
1820年・1821年
1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。2月には未完成の
オラトリオ『
ラザルス (D689)』が始まった。引き続いて小作品の数々に混じって『
詩篇23番 (D706)』『
聖霊の歌 (D705)』『
弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、偉大なピアノ曲『
さすらい人幻想曲 (D760)』等が誕生している。
しかし伝記的興味を惹くのは、この年にシューベルトのオペラがウィーンのケルトナートーア劇場に登場した事である、6月14日『
双子の兄弟 (D647)』が、また『
魔法の竪琴 (D644)』が8月19日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭での弦楽四重奏の奏者達から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接して行く事が求められ始めた。しかし依然出版社は極めて冷淡であったが、友人のフォーグルが(1821年2月8日)ケルトナートーア劇場で『
魔王』を歌ってからようやく
アントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に渋々同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてごく僅かな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていた事について、多くの記事が見られる。それは友人に落ち度はなく、ウィーンの大衆に間接的に落ち度がある。最も非難されるべき人物は、出版する金を出し惜しみし、出版を妨げた臆病な仲介者である。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより強固に舞台に向けられた。
1821年の年の瀬に向かって、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『
アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『
フィエラブラス (D796)』も同じだった。『
陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠であった)。
劇付随音楽『
ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』並びに『フィエラブラス』は、規模の点で極めて公演が困難であった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜であった。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇だったし、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。
1822年〜1825年
1822年に
カール・マリア・フォン・ウェーバー、そして
ベートーヴェンと知りあう。両者ともにほとんど親しい関係にならなかったが、しかしベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。シューベルトは、ベートーヴェンを、尊敬していた。ウェーバーはウィーンを離れて不在であり、新しい友人が現れても望ましい人物ではなかった。この2年は全体として、彼の人生では最も暗い年月であった。
1824年春、シューベルトは壮麗な『
八重奏曲 (D803)』『大交響曲の為のスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。彼がハンガリーの表現形式に魅せられ『
ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『
弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。
大概の伝記作家はここで、彼の生徒エステルハージ伯の娘カロラインとの悲恋を差し挟んでいる。ロマンスがありそうな事について何でも言えるだろうが、説明されている詳細は捏造である。そして、歌曲『l’Addio』がその頂点にあるがこれも嘘だ。さらに議論し甲斐のある問題は、この年の夏ツェレスの日付がある『グランド・デュオ ハ長調(Op.140, D812)』だろう。この曲はシューベルトのピアノ曲の形式に従っていない。全体に管弦楽的な性格を持っている。おそらく『大交響曲』の写しかスケッチだろう。そして『八重奏曲』がその前準備作品であった。
舞台作品や公的な義務で夢中になっていたが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『
ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『
未完成交響曲 (D759)』が生まれている。ミュラー(1794-1827)の詩による『
美しき水車小屋の娘 (D795)』とシューベルトの最も素晴らしい歌曲の数々が
1825年に書かれた。
1824年までに、前記の作品を除き『
《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲(『
ホ長調 (D353)』、『
変ホ長調 (D87)』)が作られている。また、『
ピアノとアルペジョーネの為のソナタ (D821)』は、扱いにくく今では廃れた楽器を奨励する興味深い試みであった。
過去数年の災難は1825年の繁栄と幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、
ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『
ノルマンの歌 (D846)』、『
囚われし狩人の歌 (D843)』や『
ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得た。
ウィーンでの晩年
注目に値する出来事は3つ、まず1826年に交響曲を
ウィーン楽友協会に献呈した事、それを記念して10ポンドが与えられた。次に、オペラで指揮者の地位に応募するも、リハーサルで自分の曲の変更を拒絶され、選ばれなかった事。3つ目は、1828年の春になって人生で初めてでただ1度の、彼自身の作品の演奏会の機会が与えられた事である。しかし、作品それ自体が彼の伝記として充分に語っているから是としよう。《死と乙女》の主題による変奏曲を持つ『
弦楽四重奏曲ニ短調 (D810)』は1825年から1826年にかけての冬に作曲され、1月25日に初演された。その年の暮『
弦楽四重奏曲ト長調 (D887)』、『
ピアノとヴァイオリンの為の《華麗なロンド》 (D895)』、出版社の気まぐれの為、題名無しで出版された美しい『
ソナタト長調 (D894)』、更に3つの
シェイクスピアの歌のうち、同じ日に作曲された『
聴け!聴け!ひばり (D889)』、『
シルヴィアって誰なの? (D891)』が加えられるべきである。前者は午後の散歩の途中で寄った酒場で、後者は夕方自分の宿への帰路、作曲された。
1827年に、シューベルトは『
冬の旅 (D911)』、『
ピアノとヴァイオリンの為の幻想曲 (D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898、Op.100 / D929)、『
ハ長調の交響曲 (D944)』、『
ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調で極めて美しい『
タントゥム・エルゴ (D962)』、『
弦楽五重奏曲 (D956)』、『
ミサ曲ハ長調 (D452)』の為の2度目の『
ベネディクトス (D961)』、最後の『
3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、《白鳥の歌》として有名な歌曲集(D957)を書いた。この中の6曲は
ハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は秋に出版されている。
これらすべてが、彼の活動が一新された事を示しているし、またそれは彼の偉大な豊潤さをも一新した事を示している。
1827年3月26日、ベートーヴェンが死去した。シューベルトは葬儀に参列した後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは大変不吉な予感を受けたと言う。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。
最晩年の1828年、シューベルトは
対位法の理論家として高名だった作曲家
シモン・ゼヒター(後に
ブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。何度かのレッスンの後、同門の知人はゼヒターに「シューベルトは重病です」と告げなければならなかった。死の病となった腸
チフスがシューベルトを蝕んでいたのである。
シューベルトは突然腸チフスに冒され、2週間の闘病の後、11月19日に兄フェルディナントの家で死去した。まだ32歳になっていなかった。
死後間も無く小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデのための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。
死因は後期
梅毒であるともいわれているが、記録から見るとシューベルトは梅毒の第2期(発疹、脱毛など)止まりであったことがわかっており、症状(発熱、吐き気など)の記録から腸チフスと見るのが妥当であろう。また、チフスの原因は、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとであったと言われる。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて生涯の再確認が行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も公表された。
死後
1838年、
シューマンはウィーンに立ち寄り、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった時のままの状態で保存していた。シューマンはその机上で『
(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、
ライプツィヒに持って帰った。それは
メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。この交響曲については、番号について議論の対立が続いており、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番として、英語を母国語とする学者は第9番として掲載している。
省みられなかった作品が復活するに到る最も重要な足がかりは、
1867年、
ジョージ・グローヴ(1820-1900)と
アーサー・サリヴァン(1842-1900)がウィーンに旅行した時に始まる。グローヴは、「
グローヴの音楽と音楽家の辞典」で有名である。それに関する説明はグローヴのクライスル・フォン・ヘルボーンの英語翻訳に関する巻末補遺で説明している。この2人の旅行者は、7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を、忘却から救い出した。彼等のお蔭で、一般聴衆の興味を急速に盛り上げ、最終的には楽譜出版社
ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。
グローヴとサリヴァンに由来し、永年続いてきたもう1つの論争が《失われた》交響曲にまつわるものだ。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を
1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものでは無いが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「
ニ長調 (D963A)」のスケッチを指している事は、音楽学者達によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールドによって
交響曲第10番として理解されている。シューベルトは
リストのよく知られた言葉で最も良く要約されている。即ち、シューベルトは《もっとも詩情豊かな音楽家》である。明瞭なスタイルという事では
モーツァルトより劣っている、とか、音楽構成上の力強さで
ベートーヴェンより遥かに劣っている、と判定する人も多い。
彼はいつも向こう見ずな速さで書いていたが、運筆にインクのしみを付けたことが無い。その結果、ほとんどの作品には本質的な即興性が見られる。
人物
他の作曲家との関係
シューベルトは一般的に
ロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン
古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンよりも時に古典的である。
シューベルトは当時ウィーンで最も偉大な音楽家であったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは「主題労作」といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風では無かった。つまりシューベルトにとってベートーヴェンは「ベートーヴェンの後で何ができるだろう」という言葉から感じられる通り、「克服すべき相手」だったと言える。
むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上無いほど賞賛している。また
ザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動と共に涙を流したという日記も残されている。
シューベルトが生前親交のあった作曲家としては、
カール・マリア・フォン・ヴェーバーが挙げられる。1822年のウィーンでの『
魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトの歌劇をドレスデンで上演する協力を約束したが、後の『
オイリアンテ』についてシューベルトが、『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだと言ったために、その約束は実現されなかった。
金銭感覚
シューベルトは長らく、貧困の中で情熱で作曲活動を行ったとして紹介されることが多かったが、近年ではその説に疑問を持つ者も少なくない。「シューベルティアーデ」と自分の名前を付されるほどの音楽夜会の発展、大量の作品番号つきの作品の出版からして、収入には困っていなかったと見る研究者も多い。20代のシューベルトは買春宿に大量に投資した、という過激な説を展開する研究者さえ存在するが、投資したのかどうかはともかく入り浸ったことだけは確かである。ちなみに好きな食べ物はコロッケに似た物で、これも貧因の中で育った場合作れないことが有名。
主な作品
D番号
シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者
オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch, 1883 - 1967)により1951年に作られた英語の作品目録の
ドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号Op.を持つものは100程度なので、通常はD番号が使用されている。1978年にファイル、デュルなどによってドイツ語の改訂版が作られた。日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、D番号がいまだ日本で広まらないため、時に誤った番号が使用される原因ともなっている。
通常「ドイチュ〜番」と読まれるが、ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号として捉えて欲しいと述べている。これに応え、このページでは「D.○○」とせず、「D○○」という表記を用いる。
交響曲
シューベルトは、現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち、有名な「未完成」も含め6曲が未完に終わっている。よく演奏されるのは、「未完成」と最後の完成された交響曲である「ザ・グレート」である。それ以外では第5番もかなり親しまれている。
「未完成」はその名の通り、第2楽章で終わっていることからこう呼ばれるようになった。「グレート」という名前はおそらくイギリスの出版社によって付けられたタイトルだと考えられているが、そもそもドイツ語では《Die grosse Symphonie》であり、同じハ長調の第6番に対する「大きい交響曲」という程度の意味であった。シューベルトの交響曲を英語の副題で呼ぶことに抵抗を持つファンも少なからず存在する。
交響曲の番号付け
古い番号付けでは、完成された7曲に順に7番まで番号が振られた。そして「未完成」は、4楽章構成の交響曲としては未完だが、2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため、8番の番号が与えられた。
他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729 は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる)、シューベルトの死後
フェリックス・ヴァインガルトナーやブライアン・ニューボールドらの手によって補筆され、全曲の演奏が可能となっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、ホ長調に第7番が割り当てられ、「未完成」が第8番、「ザ・グレート」が第9番とされた。
しかし、国際シューベルト協会が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、第7番「未完成」、第8番「ザ・グレート」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、さすがに「ザ・グレート」を第7番とするものは減ったものの、1951年のドイチュ目録のまま第7番ホ長調、第8番「未完成」、第9番「ザ・グレート」とされることもまだあり、さらには後述の「グムンデン・ガシュタイン交響曲」を第9番、「ザ・グレート」を第10番とすることもあるなど、番号付けは混乱している。日本では、
NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「『ザ・グレート』=第8番」にしている一方で、音楽評論家の
金子建志などは「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と考えていて、年輩の音楽学者からの多数の同意を得ている。
交響曲の同定のために
調性が使われることも古くから行われてきた。すなわち、第5番を「変ロ長調交響曲」、「未完成」を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲存在するので、編成などから、先に作曲された方(第6番D589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディ・クライネ」)、後に作曲された方(D944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。「ザ・グレート」(ドイツ語で「ディ・グローセ」)の呼称もここから来ている。
幻の交響曲
シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた 「グムンデン・ガシュタイン交響曲」D849 (1825) は研究により、20世紀末ではハ長調D944 「ザ・グレート」を指している可能性がきわめて高いとされている。もともと D944 は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、D849 とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。
また一方で、近年、
シュトットガルトでD849にあたるホ長調の交響曲の筆写譜が発見されたとし、ギュンター・ノイホルド指揮の放送響で録音が行われたものが現地のFM放送で放送されている。テーマとその展開が晩年の「グレート」交響曲にそっくりで、あたかもブルックナーが
交響曲第3番を書く前に
第0番を下書き的に作ったのと似ていて、シューベルトも「ロザムンデ」序曲の前によく似たD590の序曲を書いていることから、スケッチのような意味で作ったという学説がある。(演奏時間約50分、編成:
フルート、
オーボエ、
クラリネット、
ファゴット、
ホルン、
トランペット各2、
トロンボーン3、
ティンパニ一対、
弦五部、録音
南ドイツ放送、校訂Goldni)。
ニ長調D936Aにはペーター・ギュルケ補筆作曲版、ニューボールド補筆作曲版などがあるが、異色なのはイタリアの作曲家
ルチアーノ・ベリオの手による補筆作曲版の「
レンダリング」である。「レンダリング」ではスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は
現代音楽の手法でつなぎ合わせている。
交響曲の一覧
室内楽曲
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八重奏曲 ヘ長調 D803, Op.166 (1824)
- :クラリネット、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのための作品。
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弦楽五重奏曲 ハ長調 D956, Op.163 (1828)
- :シューベルト晩年の傑作で、演奏に50分近くを要する大曲である。編成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ2。
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ピアノ五重奏曲 イ長調 D667, Op.114 (1819) 「鱒」(Die Forelle )
- :第4楽章が歌曲「鱒」D550 の旋律による変奏曲であるために「鱒」という副題が付いた。
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弦楽四重奏曲 第12番 ハ短調 D703 (1820) 「四重奏断章」(Quartettsatz )
- :第1楽章のみ完成。第2楽章が未完。4楽章構成の弦楽四重奏曲と捉えれば未完だが、美しい旋律によりしばしば演奏される。
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弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 D804, Op.29 (1824)「ロザムンデ」(Rosamunde )
- :副題は、第2楽章が「キプロスの女王ロザムンデ」付随音楽D797の間奏曲第3番の旋律による変奏曲であるため。
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弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810 (1824) 「死と乙女」(Der Tod und Das Mädchen )
- :第2楽章が歌曲「死と乙女」D531 の旋律による変奏曲であるため、この副題が付いた。マーラー編曲による弦楽合奏版がある。
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弦楽四重奏曲 第15番 ト長調 D887, Op.161 (1826)
- :1826年6月20日から30日にかけて作曲された遺作。
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ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 D898, Op.99
- ピアノ三重奏曲 第2番 変ホ長調 D929, Op.100
- :ピアノ三重奏曲は番号付きが以上の2曲で、ともにピアノ三重奏曲の名曲として親しまれている。
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アルペジョーネソナタ イ短調 D821 (1824)
- :アルペジョーネは今日ではほとんど廃れた楽器で、代わりにチェロなどを用いてピアノ伴奏で演奏される。ガスパール・カサド編曲の管弦楽伴奏版もある。
ピアノ曲
歌曲
- 歌曲集「美しき水車小屋の娘」(Die Schöne Müllerin )(20曲) D795, Op.25 (1823)
- 歌曲集「冬の旅」(Winterreise )(24曲) D911, Op.89 (1827)
- 歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang )(14曲) D957,965A (1828)
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野ばら(Heidenröslein ) D257, Op.3-3 (1815)
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魔王(Erlkönig ) D.328, Op.1(1815ころ)
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死と乙女(Der Tod und das Mädchen ) D531, Op.7-3 (1817)
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ます(Die Forelle ) D550, Op.32 (1816-21)
- アヴェ・マリア(エレンの歌第3番)(Ave Maria ) D839 (1825)
- 子守歌(Wiegenlied ) D498, Op.98-2 (1816)
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糸をつむぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade ) D118(1814)
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タルタルスの群れ(Gruppe aus dem Tartarus ) D583
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ゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」による3つの竪琴弾きの歌(3 Gesänge des Harfners ) D478, Op.12
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さすらい人(Der Wanderer )D.493
- ギリシャの神々(Götter Griechenlands )
- ガニメデ(Ganymed )
- 御者クロノスに(An Schwager Kronos )
- ミューズの息子(Der Musensohn )
- 秋(Herbst )
- 侏儒(小人)(Der Zwerg )
- ブルックにて(Auf der Bruck )
- 恋人のそばに(Nähe des Geliebten )
- 夜と夢(Nacht und Traum )
- 夜曲(Nachtstück )
- 夕映えに(Im Abendrot )
いくつかの歌曲には、後世の作曲家によるピアノ独奏への編曲版や管弦楽編曲版も多数存在する。
シューベルトの歌曲の主な管弦楽編曲版
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ベルリオーズ:「魔王」
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リスト:「糸をつむぐグレートヒェン」D118、「ミニョンの歌」、「魔王」、「若い尼僧」D828、「別れ」D957-7(紛失)、「ドッペルゲンガー」D957-13(紛失)
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ブラームス:「馭者クロノスに」D369、「メムノン」D541、「ひめごと」D719、「エレンの歌第2」D838
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レーガー:「糸をつむぐグレートヒェン」、「魔王」、「音楽に寄せて」D547、「タルタルスの群れ」D583、「プロメテウス」D674、「夕映えの中で」D799、「夜と夢」D827
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ヴェーベルン:「君こそは憩い」D776、「涙の雨」D795-10、「道しるべ」D911-20、「彼女の肖像」D957-9、他1曲
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オッフェンバック:「セレナード」
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フェリックス・モットル:「セレナード」
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ブリテン:「ます」
歌劇
- アルフォンゾとエストレッラ D732
- 謀反人たち D787(後に「家庭争議」と改名)
- フィエラブラス D796
劇付随音楽
- 魔法の竪琴 D644 (1820)
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キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde,Fürstin von Zypern ) (11曲)D797, Op.26 (1823)
教会音楽
- ミサ曲第1番 ヘ長調 D105
- ミサ曲第2番 ト長調 D167
- ミサ曲第3番 変ロ長調 D324
- ミサ曲第4番 ハ長調 D452 Op.48
- ミサ曲第5番 変イ長調 D678
- ミサ曲第6番 変ホ長調 D950
- ドイツ・ミサ曲 ヘ長調 D872
シューベルトと詩人
一般的に「シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時おり凡庸な詩に作曲してしまう事もあった」と言われている。確かに彼の歌曲には
ゲーテや
シラーといった大詩人以外に現在その中でしか歴史に名を留めていないような無名のアマチュア詩人の手によるものが数多く存在している。
しかし、よく見てみるとゲーテなどは時に同じ詩に何回も繰り返し時間をかけて作曲しているのに対し、そうしたアマチュア詩人のものはたいてい1回きりで時間もほとんどかけずに作曲している。これはシューベルティアーデでシューベルトに自分の詩を作曲して演奏してもらうのがカネヴァスのメンバーの楽しみだったという状況が考えられるだろう。シューベルトが友人たちの時に他愛も無い詩にも作曲したのは友情の証としてだったのだ。
ヴィルヘルム・ミュラーの詩も時に凡庸と言われるが、ドイツ・ロマン派の大詩人の1人
ハインリッヒ・ハイネがミュラーを熱烈に支持していたことはあまり知られていない。
シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、
シラー、そして重要な詩人としてマティソン、ヘルティ、コーゼガルテン、クラウディウス、クロップシュトック、ザイドル、
リュッケルト、ハイネなどがいる。これだけの名前が挙がること自体、シューベルトに詩を選ぶセンスがあった事の証明と言えるだろう。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広く、それぞれの詩の情感を十分に表した音楽を聴けば、シューベルトの文学的センスを疑う事はできない。
関連項目
- 映画『未完成交響楽』(1933年) - シューベルトを扱った伝記映画(内容はフィクション)。「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」の台詞が有名。
外部リンク