その傑出した業績から、後年の自動車評論家たちによって、20世紀最高の自動車設計者に選出されている。
経歴
生い立ちと自動車業界入り
オーストリア=ハンガリー帝国配下であった北
ボヘミア(現在の
チェコ西部)
リベレツ近郊の町、マッフェルスドルフに生まれる。職業訓練校で学んだ後、配管工として父親の会社に就職したが、自力で電源設備を製作し、街で初めて自宅に電灯をともすなど、単なる職人に留まらない才能と好奇心を見せていた。
やがて1894年、首都
ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社で働く傍ら、ウィーン大学の聴講生として熱心に学んだ。既にこの頃から自動車への関心を持ち始めていた。その才能を買われて、当時、
電気自動車を手がけ始めていたウィーンの元・馬車メーカーのヤーコプ・ローナー社に引き抜かれ、自動車開発を手がけることになる。
アウストロ・ダイムラー、ダイムラー(ダイムラー・ベンツ)での業績
1905年にはアウストロ・ダイムラー社に移籍。主任技術者として、
1909年には初めて国際
レースに参加。この年の成績はふるわなかったが、翌
1910年には勝利を収める。これは設計者のポルシェ自身が運転した、5バルブエンジン仕様の
SOHCモデルによる勝利であった。アウストロ・ダイムラーでは、他にも1100ccの小型スポーツカー「ザッシャ」がレースで数多く勝利するなど、傑作車を生み出している。
1923年、本家とも言うべきダイムラー社に移籍、技術部長兼取締役に就任。家族とともに
ヴァイマル共和政下の
ドイツ・
シュトゥットガルトに移る。ここでも1926年のベンツ社合併後、ダイムラー・ベンツ社となった時期にまたがって、「メルセデス」・「メルセデス・ベンツ」の高性能乗用車やレーシングカーを多数手がけた。中でも1927年から生産されたスポーツ・モデルのSシリーズは、1928年には「SS」「SSK」という古典的高性能スポーツカーに発展、これらはレースフィールドでも大成功を収めた。
その傍ら、ポルシェは小型大衆車の開発にも意欲を見せていたが、
第一次世界大戦後の不況下で着手は困難であり、更に不況対策のため合併したベンツ社系の重役陣からは大反対を受けた。元々頑固な性格のポルシェは経営陣との軋轢も多く、彼らの意向で開発現場から外される見込みになったことから「SS」が世に出た1928年にダイムラー・ベンツ社を退職した。
この間、1917年にウィーン工科大学から、1924年にはシュトゥットガルト工科大学から、それぞれ名誉博士号授与。叩き上げの技術者で大学を卒業していないポルシェが「博士」の敬称で呼ばれるのは、純粋な業績によって受けたこれらの名誉博士号による。
独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発
1931年4月25日、シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行うポルシェ事務所(
Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH, Konstruktionen und Beratungen für Motoren und Fahrzeugbau)を設立した。社員には、かつての同僚や息子フェリー・ポルシェらがいた。ドイツ国内外の主要メーカーからの委嘱によって自動車設計を手がける一方、当時の技術における理想的なレイアウトの
リアエンジン式・流線型小型大衆車の開発を繰り返し試みるが、提携先メーカー各社の十分な協力が得られず、資金不足により頓挫する。これがのちのフォルクスワーゲンの原型であった。
ポルシェは設計者としての能力は傑出していたものの、新技術の開発自体はあまり多くなかったが、この時代には横置きトーションバーを上下2段に配置し、2本のトレーリングアームで車輪を支持する、前輪向けのコンパクトな「ポルシェ式
独立懸架」を考案している。フォルクスワーゲンなど自らの開発するモデルに利用したほか、各国のメーカーでも特許料を払ってこの方式を用いる事例が生じた。
この頃、ソ連からの招聘を受けて
ヨシフ・スターリンと面会し、スターリンはソ連で自動車開発のために働くことを提案した。当時のソ連は
フォードから旧式モデルのツールをプラントごと購入するなどして国産自動車の開発に邁進しており、ドイツとも密かに関係を結んで戦車開発を進めていたのである。このためスターリンはポルシェにも好条件のオファーを示し、ポルシェ本人も相当苦しんだと述懐しているが、「ロシア語の壁は、56歳の自分にはとても乗り越えられない」として辞退した。
またこれと並行し、やはりヒトラーの後援を受けた
アウトウニオン社の依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pヴァーゲン」を1934年に開発。同時期に開発されたライバル「メルセデス・ベンツW25」シリーズと並ぶ高性能レーサーであり、両車はヨーロッパの多くのレースを席巻した。
フォルクスワーゲンとアウトウニオン・レーサーは、いずれもポルシェの開発能力だけでは成立し得ず、ヒトラーの意向による国家的後援があっての存在であった。廉価で高性能なフォルクスワーゲンはヒトラーが大衆政策として開発を指示したものであり、銀色のアウトウニオンは、国威発揚のための宣伝の具であった。これらのモデルのそれ以上の発展や活躍は、他ならぬヒトラー自身によって引き起こされた
第二次世界大戦で頓挫を余儀なくされ、ポルシェもまた戦時体制に巻き込まれて行くことになる。
戦乱と晩年
頑固な技術者で、政治にさっぱり関心のないポルシェは、ヒトラーに対しても「総統閣下」などの敬称を用いずに「ヒトラーさん」と一般人同様の呼び方をしていた。しかしポルシェの才を買っていたヒトラーは気にせず受け入れ、開発資材も潤沢に与えた。
その挙げ句、戦争末期はローナー以来の発電駆動式を採用した
VK4501(P)戦車や、超重量級戦車
マウスなど、相当に誇大妄想的な兵器の設計を行っている。これらの兵器はカタログスペックこそかなりの性能を有していたものの、現実の軍用車両としては運用性・機械的信頼性・耐久性・生産性に多くの難点を抱えており、兵器としての根本的実効性は著しく疑問の持たれるものであった。しかし当時、絶望的な戦局を逆転させる
超兵器への願望が強かったヒトラーにはいたく好評で、お気に入りの「作品」だったと言われている。
ドイツ敗戦後の1945年、
戦争犯罪人として
フランスにより
逮捕され、同国中部の都市
ディジョン の
刑務所に収監された。収監中、同国の自動車会社
ルノーから、試作中のリアエンジン小型車「
ルノー・4CV」(1941年設計開始、1946年発表)の設計への助言を求められ、アドバイスを与えている(4CVはフォルクスワーゲンの影響下で設計されたが、ポルシェが設計したとの説は俗説である)。
長い収監中に健康を害したが、設計業務を再開してイタリアのチシタリア社から多額の資金を得た息子フェリーが保釈金100万
フランを支払ったことで、収監から約20ヶ月後の1947年8月1日に釈放された。
その後は健康状態が優れず、自動車の設計やポルシェAGの運営の大部分は息子フェリーが取り仕切ったが、戦後、1945年から本格生産を開始したフォルクスワーゲンと1948年から生産開始された
ポルシェ・356の成功を見届けた。1950年11月に
脳卒中を発症、翌年1月、75歳で死亡した。
子孫
その他
ポルシェという苗字は、スラヴ系のボリソフ(ボリスの子孫)に由来するという説がある。
参考文献
- 齋藤 憐『ポルシェ 自動車を愛しすぎた男』(ブロンズ新社、1987年) ISBN 4-89309-013-5
- 三石善吉『ポルシェの生涯 その時代とクルマ』(グランプリ出版、2007年) ISBN 978-4-87687-297-8
- 斎木伸生「天才設計者ポルシェ博士の華麗な戦車研究」
- 潮書房『丸』1999年5月号 No.637 p127〜p141
外部リンク