来歴
1952年はクラッシュで頸部を骨折し1年間欠場する。一時は心臓も停止し再起不能とも言われたが、
1953年にはマセラティから復帰を果たす。最終戦
イタリアGPでは、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。
1954年のフランスGPよりメルセデス・ベンツが参戦を開始すると、ファンジオもマセラティから移籍するが、このコンビネーションは凄まじい勢いでグランプリ界を席巻することとなる。
1955年の
ル・マン24時間レースでの大事故を受けてメルセデスがわずか2シーズンで撤退するまでの12レース中、何とファンジオは8勝をあげたのである。(それ以外にも
スターリング・モスが1勝をあげており、メルセデスとしては9勝をマークしている)。
メルセデスの撤退により、
1956年にはフェラーリへ移籍、1957年はマセラティに復帰を果たすが、何れもチャンピオンを獲得。実に4年連続のチャンピオンに輝くこととなった。
特に1957年は圧倒的な強さで、出場したレースでは、リタイア1回を除くと、全てが優勝または2位でフィニッシュしていた。中でも最後の勝利となった
ニュルブルクリンクでのドイツGPは自身のベストレースと評される。給油作業で3位に転落したファンジオがペースアップしないのを見たフェラーリチームは、1、2位のドライバーにペースダウンの指示を送る。しかし、これは相手を油断させるファンジオの戦略で、残り2周で猛烈な追い上げを開始する。慌てたフェラーリチームがピットサインを出すが時すでに遅く、ファンジオは最終周に2台をかわし奇跡的な逆転勝利を挙げた。名うての難コースでの追走は神懸り的とも伝えられ、後に自身も「あのレースではかなりの危険を犯した」と述懐している。
1958年シーズン序盤のフランスGPにおいて、47歳でF1からの引退を表明した。
業績
通算24勝は
1968年に
ジム・クラークが更新するまでF1最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は残っている(最年長優勝は
ルイジ・ファジオーリの53歳)。
第二次世界大戦前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代だけに、47歳まで現役のトップで戦ったファンジオの価値を損ねるものではない。
参戦51戦中24勝で勝率47.1%という記録は、極端に参戦数の少ないドライバーを除くと、圧倒的な数字である。数々のF1の記録を更新してきた、ミハエル・シューマッハをもってしても勝率は36.7%でしかないということ(シューマッハに次ぐ勝利数の
プロストと
セナに至ってはともに25.5%にとどまっている)から見ても、ファンジオの勝率は、F1草創期であるとは言え、想像を絶する記録であることが分かる。これら後輩が安定した体制(フェラーリや
マクラーレン)で数字を伸ばしたのに対し、ファンジオは8年間に4チームを渡り歩いたのが特色である。その都度強いマシンに乗り合わせた強運もあるが、当代一の名手として各チームから引く手あまただったという点は重要である。
また、その紳士的な人柄でライバルや後輩から尊敬を集めていた。メルセデス時代、若き
スターリング・モスは地元イギリスGP以外ではファンジオの後衛に付き、エースを敬う姿勢をとった。3連覇のかかった1956年の最終戦イタリアGPでは、マシントラブルに見舞われた上に
ルイジ・ムッソに
チームオーダーを無視され、マシンを乗り換えられないファンジオに、フェラーリの同僚、
ピーター・コリンズが自らのタイトルの権利を捨ててマシンを譲るという美談があった(当時の規定では、1台を2人のドライバーが乗り継いでゴールした場合、得点が半分ずつ得られたため)。
偉大な記録が更新されても、ドライバーの規範としてファンジオは根強く支持されており、F1の歴代ベストドライバーという評価もなされている。
F1での年度別成績
関連項目
ふあんしお ふあんまぬえる
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