ルドルフ1世以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche)とも呼ばれる。
沿革
起源
カトリックの擁護者として
プロテスタントと戦ったカールは、
1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割したため、ハプスブルク家は
スペイン系ハプスブルク家と
オーストリア系ハプスブルク家に分かれた。
1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ帝国の帝位を世襲することになった。
スペイン系アブスブルゴ(ハプスブルク)家
スペイン系ハプスブルク家、すなわちスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ)家は、
1580年から
1640年まで
ポルトガル王を兼ね、海外
植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。
フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、
無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、
八十年戦争や西仏戦争に敗れてヨーロッパの覇権を失った。
また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚のためか、病弱な王が続いた。
オーストリア系ハプスブルク家
神聖ローマ帝国解体後
1961年に至って、カール1世の長男
オットー・フォン・ハプスブルクはオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄して
オーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家は現在でもオットーがドイツ選出で、その息子
カールがオーストリア選出でそれぞれ
欧州議会の議員を務めており、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU時代の両国関係を象徴する存在となっている。
なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の代以降、現在に至るまで正式な家名は「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(Haus Habsburg-Lothringen)である。
結婚政策
- 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。
現在も、最後の皇帝カール1世の子供達は婚姻により
スペイン、
ベルギー、
ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。
血族結婚
一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、
17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして夭折するという事態が起こった。特にスペイン・ハプスブルク家では
カルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位を
ブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。
幸福な結婚、多産の伝統
ほとんどは他の王侯がそうであるように
政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。
関連項目
外部リンク
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