プロフィール
共産党員
第二次世界大戦後
ソビエト連邦の占領の下にルーマニアが
社会主義への道を辿ると獄中の同志だったゲオルグ・ゲオルギウ・デジの側近となり、共産主義青年同盟の
書記長などを歴任。一時
粛清のあおりで失脚するが、その後復活して共産党内での地位を高めていく。
元首
当初こそ国民からの高い人気を得たものの、チャウシェスクは家族とともに一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしており、国内の
経済については、側近の者から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったと言われる。街頭へ視察へ出ても視察コースの店には一時的に普段は見かけない食品や製品が豊富に並べられていたようだ。実際には対外債務の返済のための強引な輸出政策によって市民の食料や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになる等、次第に国民生活は困窮の度を深くしていったが、チャウシェスクは
ブカレスト市内に
国民の館と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、またチャウシェスクの家族・親族30名以上が党や国家の要職を独占した(
縁故主義)。こうした一般の人々の生活を省みない政治姿勢に国民は失望し、人気や支持も落ちていった。
革命の経緯
ポスター]]
なお1989年当時、莫大な対外債務を返済するために食料や灯油といった生活必需品までもを輸出する
飢餓輸出政策のため、一般国民の生活水準が低下していた。また
秘密警察(
セクリタテア)などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が徐々に入るにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。しかし革命の詳細に関しては今なお不自然な状況が多い。
逃亡
1989年12月、
ハンガリー系国民による反政府集会を武力で鎮圧。同
12月21日、
首都ブカレストの党広場で開かれた官製集会が一転、このことを糾弾する集会になると、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こった。チャウシェスクは国防大臣の
ワシーリ・ミリャに暴動の武力鎮圧を命じたが、ミリャはこれを拒否した。これに激怒したチャウシェスクはミリャ国防大臣を処刑した。このことが軍部に知れ渡ると軍の首脳はチャウシェスクに反旗を翻すことを決め、ルーマニア軍は革命を支援する側に立った。しかし、なおチェウシェスクに忠誠を誓う
セクリタテア(ルーマニアの秘密警察)は、市民や国軍に対する激しい反撃を繰り返し、ルーマニア国内は混乱する。これに乗じ、チャウシェスクは逃走した。これらの様子はルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌
12月22日、全土に
戒厳令を敷き、チャウシェスクは妻エレナとともにヘリで飛行場へ逃走した後に、
リビアへ
亡命することを計画した。22日13時、
救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。
処刑
12月23日にはチャウシェスク夫妻は
トゥルゴヴィシュテにおいて救国戦線により逮捕される。12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの
軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下しその場で殺害した。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。裁判の様子から死刑判決が下されおびえる夫妻、そして銃殺から処刑後の死体の様子まで撮影されたのは、非公開処刑だと
アドルフ・ヒトラー等のように生存説が唱えられると思われたからである。この放送は、チャウシェスクが対外的には清貧な大統領を装う一方で、残忍な
独裁者であったという印象を強くした。即刻銃殺刑に処したこと、
西側諸国に公開したことを見ても如何に大統領が国民を抑えつけ恐れられていたかが分かる。
なお、死刑執行が直ちに行われた理由の一つとして、死刑執行直前までつけていた時計に現在位置情報を秘密警察に知らせる機能がついていたため、直ちに死刑を執行しないと秘密警察に身柄を奪還される恐れがあったためと報じられた。
処刑後
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しかし、大量虐殺の形跡や、不正蓄財の確定的な証拠は全く見つからなかった。
1990年、
自由選挙による
国会が開かれると、
野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(
イオン・イリエスク、後の
社会民主党)に分裂する遠因にもなった。
末期のチャウシェスク政権は、他の長期政権がそうであるように、チャウシェスク本人ではなく、高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていた。しかし、当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相はいまだに明らかになっていない。革命の際も、集会の現場に
ルーマニア人の
ジャーナリストがおらず、外国の報道機関しかいなかったこと、革命の際、国軍・
大統領親衛隊を超える能力の武力が使われた形跡があることなど、きわめて不自然でいまだ説明されていない状況が数多く残っている。
1999年
12月、革命10周年に当たって行なわれた
世論調査によると、6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。
市場経済の停滞と
失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で、各地の工場や炭坑では
ストライキが頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「
チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくないという。
惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで、死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。なお、現在負の遺産として残されている「
国民の館」は
観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。
日本テレビ系列の番組「知ってるつもり」では、市民からの献花が絶えないチャウシェスクの墓の様子と、妻エレナが非難される様子が放送された。
家族
妻との間に2男1女。
- ヴァレンティン・チャウシェスク 長男。ただし実子ではなく、チャウシェスク夫妻が孤児院から引き取った養子。核物理学者となり、政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後横領などの容疑で逮捕されたものの、不起訴処分となり釈放。現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。
- ニク・チャウシェスク 次男。政治に関与しており、革命時は秘密警察(国家保安部「セクリタテア」)の幹部で、党政治執行委員候補。父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃走中、逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら、救国戦線の関係者らに詰問される。その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴されたが、裁判中の1996年、肝硬変のため死去。革命の1ヶ月前にアメリカに亡命した体操選手ナディア・コマネチに愛人関係を強要していたといわれる。
- ゾヤ・チャウシェスク 長女。党の役職についていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「飼い犬に牛肉を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、一定の財産がゾヤに返還されている。
脚注
関連項目