治世・歴史的評価
生い立ち
当時のローマ帝国
ヒスパニア・バエティカ属州(現
スペイン)のイタリカで、元老院議員の子として生れる。父方の一族はイタリア本土出身であったが、トラヤヌスが生れる前にヒスパニアへ移住していた。成人したトラヤヌスは属州アシア総督を務める父の元で軍人としてのキャリアをスタートさせ、
ドミティアヌス帝の知遇を得て執政官の地位を得る。その後は国防の要衝である
高地ゲルマニア属州の総督に任じられ、
ゲルマン人からの侵入を防ぐ国境警備の最前線に立ち続けた。
ドミティアヌス帝が
96年に暗殺され
ネルウァが帝位に就くと、軍内部で実績を積み、信望の厚かったトラヤヌスは、ネルウァから軍への押さえとして養子として迎えられ、
98年に第13代皇帝に指名され即位した。それまでの皇帝は、ローマの主権者であるローマ市民権保有者、特に上流に位置するイタリア本土出身者から選ばれるのが暗黙の諒解となっていた。属州出身のローマ市民であるトラヤヌスの皇帝即位は、従来の不文律・慣例を形骸化させる一大出来事であった。
業績
トラヤヌスの治世において特筆すべき事柄は
である。
トラヤヌスは皇帝就任後、
アウグストゥス治世時の
トイトブルクの戦い以来継承されてきた領土防衛策を改め、一転、外征による積極的策への転換を図った。まず就任当時、帝国領内
モエシア地方への侵入を繰り返し、不穏な動きを見せていたダキア王国(現
ルーマニア)に対して、トラヤヌス自ら軍を率いて
親征し、ダキア王
デケバルスを敗死させる大勝を収めた。帝国領土に編入されたダキアでは、他民族の緩やかな同化を進める事の多かったローマでは異例とも言うべき徹底的な早期同化が進められた。ダキア遠征の始終は「トラヤヌス記念柱」と称される大理石の柱にレリーフとして刻まれ、現在にまで伝えられている。なお、ローマ人の末裔を自認する現在の
ルーマニア国歌にも、目指すべき者として彼の名がそのまま登場し、その業績を現代に伝えている。
さらにトラヤヌスは軍を
パルティアとの係争地帯である
チグリス川以東に進め、一時
アルメニアやメソポタミア地方も版図におさめるなど、治世中にローマ帝国は最大領域に達した。一連の外征により、ローマ帝国の覇権は、東はアルメニアやメソポタミア、西は
イベリア半島や北西アフリカ(現
モロッコ一帯)、南は北アフリカの地中海沿岸一帯からエジプト南部、北は
ブリテン島南部にまで及び、その国境は総延長1万5000kmにのぼる。
内政においては、先代のネルウァと同様に元老院との協調につとめた。また、救貧制度の充実、育英基金の設立、税負担の軽減、公共事業の振興などの行政改革をおこなうなど、帝国の繁栄に尽力した。市内の
フォルム・ロマヌム(現フォロ・ロマーノ)の付近に新たな広場(現
フォロ・トライアノ)を造営し、レンガ立ての公設の市場(現メルカート・トライアノ)を設けて市民を入居させた。こうした一連の政策は、身分・貧富の違いをこえてローマ市民の共感を得るものであった。
これらの内政と外征に渡る功を称えて、元老院から「
至高の皇帝(
Optimus Princeps)」 の称号が贈られた。この称号は、当時鋳造された貨幣にも刻まれている。
人物
私生活においては女色を避けて男色を好み、つねに逞しい若者の一群を随行させていたことでも知られているが、こうした性向は皇帝としての職務遂行を妨げるものではなかった。東方遠征先の
キリキアで子をなさぬまま没し、次期皇帝位は、養子にむかえていた甥で同郷人の
ハドリアヌスが継承した。ハドリアヌスも名君であった事から、結果的には男色にかまけて実子を作らなかった事が、最良の結果を生んだと言える。
脚註
参考文献
- 『ギリシアとローマ』中央公論社〈世界の歴史〉、1997年
- クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
-
塩野七生『ローマ人の物語IX 賢帝の世紀』新潮社、2000年
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)