国名
正式名称は、República de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称、Chile(チレ)。
公式の英語表記は、Republic of Chile(リパブリック・オブ・チリ)。通称、Chile(チリ)。
日本語の表記は、チリ共和国。通称、チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字では、智利と表記される。
チレ(Chile)という言葉の語源には諸説あり、ケチュア語で「寒い」、アイマラ語で「雪」、マプーチェ語で「世界の果て」を意味しているなどの説がある。なお、植民地時代初期はスペイン語でもChiliと表記されていたこともあった。
歴史
前コロンビア期
ヨーロッパ人がこの地を訪れるまで、チリの中央部や南部には
マプーチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、
ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡ってチリに上陸していた可能性も指摘されている。
スペイン人による征服とアラウコ戦争
]]
]]
その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、カウポリカンといったマプーチェ族の戦士達の激しい抵抗により
アラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に渡ってビオビオ川を国境線にしてスペイン人とマプーチェ族の断続的な戦争状態が続くことになる。1541年に創設されたチリ総督領はペルー副王領に組み込まれ、1565年に
コンセプシオンにアウディエンシアが設立された。
このように植民地時代のチリでは
海賊の襲撃や、マプーチェ族との断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリ総督領の主産業はペルー向けの小麦の生産などとなった。これはチリの入植者に農業を厭わない堅実な気質を育み、チリは徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになる。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が成立すると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めての
パタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土が現在の「刀の鞘」のように細長くなった。
スペインからの独立
]]
ホセ・デ・サン=マルティン]]
保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国にした]]
1813年に自治政府はペルー副王アバスカルの派遣した軍によって崩壊し、再び王党派の支配を受けるが、独立指導者
ベルナルド・オイギンスはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(
アルゼンチン)に亡命し、
解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共に1817年のチャカブコの戦いに勝利すると、サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となる。同年、連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、
シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。
1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進めるが、まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられた。しかし、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利すると、以降保守派が指導権を握り続け、ディエゴ・ポルターレスが制定した1833年憲法により、保守支配の下で当時の
パラグアイと共にチリは安定を続けた。この憲法は大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、この「ポルターレス体制」の安定の時代にチリは国力を蓄えることになる。
1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、
電信、
鉄道などが整備され、折からの
銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特に
ドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアの
マリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。
太平洋戦争と民主化の進展
(1879年)]]
]]
ボリビアによる、
アントファガスタのチリ
硝石企業への課税をきっかけに、
1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、
太平洋戦争が勃発した。イギリスの支援を受けたチリはこの戦争に完全勝利し、
1884年の講和条約により
ボリビアからは
アントファガスタを中心とする
リトラル県を、
ペルーからはタラパカ、アタカマを獲得した。しかし、この戦争以降両国との関係は悪化し、その影響は現在まで続いている。また、この戦争の最中の1882年に南部のマプーチェ族が最後の大規模な組織的反乱を起こすが、この反乱が鎮圧されると以後マプーチェ族は国民国家としてのチリ社会の底辺層に組み込まれていく。以降南部には
ドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。
戦争後、1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダは、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して民族主義政策と富国強兵政策を行うが、専制的大統領統治に対する議会や海軍の反乱による1891年のチリ内戦にて議会軍に敗れて失脚し、自殺した。以降チリでは議会主義が確立され、「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続くことになるが、反面ポルターレス体制の用意した大統領の独裁的リーダーシップの欠如により政治の不安定化を招くことにもなった。
議会共和制から百日社会主義共和国まで
議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリが1920年の大統領選挙で勝利した。第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強め、ここに議会共和政期は終焉した。
1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、1932年には自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。
人民戦線と人民連合
1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、
人民戦線からペドロ・アギーレが大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。
1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下に
ソ連との断交が行われ、
チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。
1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリが大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革も殆ど実効性の無いものに止まった。
チリ革命とピノチェト時代
博士]]
将軍]]
1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイが人民行動戦線の
サルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。
1970年の大統領選挙により、
人民連合の
アジェンデ大統領を首班とする
社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、
第三世界との外交関係の多様化、
キューバ革命以来断絶していた
キューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーの
ベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、
しかし、
ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たして
ハイパーインフレを招き、また、
西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていた
アメリカ合衆国は
CIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになる。
このピノチェト軍政の治安維持は苛烈を極め、コンドル作戦(
汚い戦争)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧され後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4の
GNPが「
全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権は
ミルトン・フリードマンらの
シカゴ学派に基づく
新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入し、工業の崩壊と失業の増加を背景にして経済全体を拡大し、「チリの奇跡」と呼ばれる経済成長を実現した。また、インフレ率は約80%の高水準で推移していたもの、同時期に
コロンビアと
ベネスエラを除く南米全体を襲っていた
ハイパーインフレの危機も乗り切った。
しかし、アルゼンチン(1982年)や、
ウルグアイ(1985年)、
ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、
1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の
民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党の
パトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に民政移管することになった。
民政移管以降
民政移管後、ピノチェト将軍を始めとする、軍政期に人権侵害に携わった軍人の処遇などの複雑な問題を抱えながら新政権はスタートし、結局ピノチェトは陸軍最高司令官として留任することになった。
1990年に就任したエイルウィンの政策は基本的には軍政期からの新自由主義を継承するものであったが、市場原理主義の修正を図り、軍政期に拡大した所得格差や貧困問題解決への取り組みも進んだ。
1994年には再びキリスト教民主党からエドゥアルド・フレイが大統領に就任した。フレイ時代の1998年2月にピノチェト陸軍総司令官が退役したが、ピノチェトには終身上院議員の議席が確保された。しかし、同年10月、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害を行ったことを理由に、スペインの要請によりイギリスに滞在していたピノチェトは逮捕され、外交問題となった。
2000年にはコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党からアジェンデ以来二人目の大統領として
リカルド・ラゴスが大統領に就任し、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。
2006年には再びコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党から、同国初の女性大統領、
ミシェル・バチェレが就任した。
チリ最高裁判所は、
2006年8月18日、公金横領容疑でピノチェト元大統領の免責特権剥奪を決定した。ピノチェトが家族や側近名義で米リッグス銀行など複数の銀行に合計125以上の口座を保有し、約2700万ドルの不正資金を隠匿していたとされる疑惑による。
政治
政治制度は
大統領を元首とする
共和制国家であり、
三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2008年現在のチリ憲法は、
アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、
大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、
1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北した後、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された
立法は、
二院制である。上院は38議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までその他に国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。
司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は、憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。
チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30ヶ国以内に過去10年間連続してランク付けされているように、むしろ
ラテンアメリカでは最も腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。
国際関係
民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2007年からチリは他の4カ国と共に
OECDの公式加盟国になることを打診している。
軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めて
ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアを巡ってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合した
アントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張は未だに続いている。
地方行政区分
チリは、州監督官(Intendente)を長とする13の州(Region)に分けられる。州はさらに幾つかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。
各州は名前と
ローマ数字により識別される。ローマ数字は北から南の順に割り当てられている。一般的には州名よりローマ数字の方が用いられている。唯一の例外は首都サンティアゴが位置している州で、首都州(Región Metropolitana)を意味するRM二文字で表されている。
地理
気候は幅広く、太平洋上に浮かぶ
ラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の
亜熱帯から、国土の北三分の一を占め、世界で最も乾燥した
砂漠とされる
アタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、
ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。
北部の砂漠地帯では年間を通してほとんど雨が降らない。ラ・セレナの南から渓谷地域となる。渓谷地域は
地中海性気候であり、チリの主要輸出品目の一つである
ブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきた
ワインの生産に適している。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域は森林地帯の続く湖水地方であり、年間を通して雨が多い。南緯40度以南は
パタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的な
フィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。チリ本土から西に3,700kmほど離れてラパ・ヌイが存在する。
気候
時間帯
軍事
の
フリゲート艦
アルミランテ・ブランコ・エンカラダ (FF-15) ]]
チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは
徴兵制が実施され、国民は二年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍の他に
憲兵(カラビネーロス)が存在し、規模は30,000人ほどである。また、チリは
ブラジルに続いて南アメリカで二番目に大きな軍事予算を組んでいる。
伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国よりは政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、この原則は1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後軍政期に軍はコンドル作戦や、「
汚い戦争」などを遂行し、自国民や、近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。
陸軍
チリ陸軍は兵員45,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。7つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。
海軍
チリ海軍は
海兵隊2,300人を含む兵員23,000人を有している。艦隊の母港は
バルパライソにある。
空軍
経済
]]
]]
経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第二位は農業関連製品で、第一位は以前より世界一の生産量を誇る
銅である。
1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質な
ワイン、
サーモン、木材パルプの輸出が始められた。また
先進国ほどではないが、ラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではアルゼンチン、
ブラジル、
メキシコとともに
中進国であり、2007年からOECD加盟に向けて交渉が進んでいる。
一次産業
農業については、果樹類の生産が特筆される。
19世紀からワインの原材料として
ぶどうが広く生産されている。
1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、
1990年代以降は再び生産量を増やしている。
漁業については、東太平洋が
アンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。
気候や
地形の類似点から、
北半球の
サケ類の移植が進められたが、自然
放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の
養殖事業は大成功を収め、
2005年には世界のサケ類の養殖生産高の1/3、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。
林業については、国土の2割が
森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、
アメリカ合衆国や
日本の業者が進出し、
パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした
原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い
環境破壊を訴える
自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ族をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。
鉱業については、地下資源、特に
金属鉱物資源に恵まれている。
2003年時点で、
銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。
銀は1250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、
亜鉛、
鉄、
鉛を産出する。
金属以外の無機鉱物資源では、
硫黄、塩、カリ塩、
リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。例えば、
石炭の産出量は43万トンに留まる。
観光
近年
観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部の
アタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけての
アンデス山脈の
スキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、
パタゴニアや、
モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイも観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、
寒流であるペルー海流(
フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。
国民
の住宅街]]
チリの人口は約1,600万人程で、1990年代から出生率の低下と共に人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。
国民の85%が都市部に居住し、内40パーセントが大サンティアゴ都市圏に居住している。
チリの国民は、大部分が
ヨーロッパ系の
白人もしくは
メスティーソであり、人口の30%が純粋な白人であり、65%が白人系メスティーソとなっている。その他インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア族やアイマラ族など、南部ビオビオ川以南の森林地帯には
マプーチェ族が、その他にはピクンチェ族、ウイリンチェ族、アタカメーニョ族、ディアグイタ族、ペウエンチェ族などが、
クリストバル・コロンの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、極めて少数であるが、植民地時代に連れて来られた
黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。
人口
独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは7,374,115人、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。
言語
宗教
教育
19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、
ウルグアイ、
キューバと共にラテンアメリカで最も高い部類に入る。
6歳から13歳までの8年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て
高等教育への道が開ける。
代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年)、チリ国立大学(1842年)、チリ・カトリカ大学(1888年)などが挙げられる。
文化
]]
]]
スペイン人による征服の以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ族のよるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いた
イギリス、
フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアや
プエルト・モントにはドイツの
バイエルン地方の文化の影響が強い。
食文化
代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。
チリは
ワインの大生産国として知られ、チリ・ワインは高い品質で知られる。ワインの他の地酒としては
チチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、
パラグアイ、ブラジル南部などと同様に
マテ茶を飲む習慣がある。
文学
チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、
ガブリエラ・ミストラルと
パブロ・ネルーダは
ノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。
小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、
ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、
イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年に
セルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスは
パペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。
音楽
]]
チリの
フォルクローレにおいては
クエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、その他に北部のケチュア族、アイマラ族には
ワイニョなどが、南部のマプーチェ族や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。
1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、
ヌエバ・カンシオンが流行した。
ビオレータ・パラ、
ビクトル・ハラ、
インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害、拷問、追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。
ポピュラー音楽においては、
ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達を辿ることになった。その後80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックは
メキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、
ロス・ブンケルス、ラ・レイ、
クダイなど。
世界遺産
チリ国内には、
ユネスコの
世界遺産リストに登録された
文化遺産が5件ある。詳細は、チリの世界遺産を参照。
Image:Moai Rano raraku.jpg|ラパ・ヌイ国立公園 - (1995年、文化遺産)
Image:Iglesia de Castro.jpg|チロエの教会群 - (2000年、文化遺産)
Image:Porto de Valparaiso - Chile - by Sérgio Schmiegelow.jpg|バルパライソの海港都市の歴史的街並み - (2003年、文化遺産)
Image:Humberstone.png|ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群 - (2005年、文化遺産)
Image:Sewell Chile.JPG|スウェルの鉱山都市 - (2006年、文化遺産)
祝祭日
スポーツ
国の象徴
チリの紋章には、国の動物である
コンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。
国花は、コピウエで、南部の森林地帯に自生している。
脚注
文献目録
インターネット
参考文献
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年
- 増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 4-463-41560-7)
- 下中彌三郎(編)『世界文化地理体系24 ラテンアメリカ』平凡社、1954年
- 福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年 (ISBN 4-254-16545-5 C3325)
- P.E.ジェームズ(著)、山本正三、菅野峰明(訳)『ラテンアメリカII』二宮書店、1979年
- 野沢敬(編)『朝日百科 世界の地理12 ラテンアメリカ』朝日新聞社、1986年(ISBN 4-02-380006-6 C6325)
- 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、1993年(ISBN 4788793083)
- 中川文雄・三田千代子 (編)『4ラテンアメリカ人と社会』新評論、1995年(ISBN 4-7948-0272-2)
-
エドゥアルド・ガレアーノ(著)、大久保 光夫(訳)『収奪された大地 ラテンアメリカ500年』新評論、1986年
関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
- その他
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。
*