その時点で、既に建設中だった5号炉と6号炉は、建設が中止された。その後も1号炉〜3号炉の運転は続けられたが、
2000年12月に停止した。その際、これまでの名称から、
独立国営事業体チェルノブイリ原子力事業所に変更された。
名称
事故時を含め、建設以降の正式名称は
V・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所(Чернобыльская АЭС им. В.И.Ленина работает на коммунизм)。とくに
レーニンゆかりというわけではなく、「
共産主義とは
ソヴィエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉にちなんで名づけられた。
発電所の
看板は、
放射性物質汚染により交換が困難なため、今もこの名前のままである。ロビー前の広場にはレーニンの
胸像がある。
2000年の発電停止後、独立国営事業体チェルノブイリ原子力事業所となった。
日本の原子力関係省庁および電力会社の文書には、
英語読みである
チェルノブイル原子力発電所(Chernobyl Nuclear Power Plant)と書かれているものが多数ある。
立地
現在は、発電所を中心とした「10キロメートルゾーン」「30キロメートルゾーン」の中心でもある。また、総面積4,800m?の
立ち入り禁止区域のほぼ中心でもあり、ウクライナ側は「
立ち入り制限区域および強制(義務的)立ち退き区域」、
ベラルーシ側は「
国営ポレーシェ放射線環境管理区」が正式名称となっている。
事故前
発電所の建設は
1970年代に始まり、
1977年に1号炉が竣工し、翌
1978年に2号炉、
1981年に3号炉、そして
1983年に4号炉が竣工した。 さらに、それぞれ1GWeを発電することができる5号炉と6号炉の2つの原子炉が、その事故の時に建設中だった。これら4つのプラントは
RBMK-1000型である。また、4号炉の事故が起こらなければ、世界一になる予定であった。
4つの炉は、それぞれ電気出力1
ギガワットe (熱出力3.2ギガワット
th)を発電でき、合計でソ連の原子力発電量の15%、
ハンガリーへの
エネルギー輸出の80%を占めていた。4号炉は、ウクライナの電力のおよそ10%を生産していた。
この発電所を含む、
チェルノブイリや
プリピャチなどは、この原発に勤務する人やその家族のために作られた、当時世界地図上には存在しない機密都市だった。そのため、警備体制が厳しかった。
事故に繋がる重大な欠陥ではないと見られているが、
設計図に記載されている耐熱性の材料が手に入らなかったため、可燃性の材料を使用し突貫工事を行ったとされている。また、原子力発電に関わる記念日があり、所長はその日までに何としても完成させるようにしたため、大部分において欠陥があったともみられている。最終的に、稼動前の点検をも行わないまま運転を開始したため、可燃性の材料を使用したことが事故前にわかることはなかった。
事故
有名な1986年の事故のほか、1982年、1992年にも小規模な事故を起こしている。
現在
現在の施設は、炉を廃炉にする作業と、石棺(4号炉を覆う
コンクリートの建造物)の管理をしている。また、発電所周辺は、自然が戻り緑の森と化している。
ちえるのふいりけんしりよくはつてんしよ
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)